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第一章 恋愛

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 晶とつきあいはじめた頃、恵美里は一つだけ彼に頼まれた。
 それは二人の交際を恵美里の父、恵介にはまだ言わないで欲しいというものだった。もちろん恵美里はわけを尋ねたが、晶からは「恵美里は一人娘だから……お父さんに恨まれそうで怖いし」と半分冗談めかして答えられただけだ。
 ただ、あながち外れてはいないと恵美里にも思い当たる節はあった。
 以前、誤って持ち帰った恵美里のノートを自宅に持って来てくれた勇斗に対して恵介はいきなり「娘とどういう関係だ?」と尋ねたのだ。さすがに恵美里も恥ずかしさと勇斗への申し訳なさで腹が立ってしばらく恵介と口をきかなかった。
 恵介も反省したのか謝ってきた。その上で
「そのうち恵美里も父さんの元を去っていくのはわかっているけれど、寂しくて耐えられそうにないんだ」と沈んだ表情で言われて恵美里はあらためて気づいた。ある日突然有里子がいなくなったことで、一番傷ついているのは恵介なのだと。
「たとえ将来結婚したとしても……私はお父さんの娘であることに変わりはないし、会えなくなるわけでもないんだよ?」と恵美里は言った気がする。当たり障りのない言葉に恵介が納得したのかどうかはわからない。「ああ、そうだね」と笑った顔は寂しげだった。
 結婚も何も、まだ数年先自分がどうしているのかすら想像がつかないが、母親のようにいきなり姿を消すことはない。たとえ家を出ることがあったとしても、恵介に納得してもらった上で送り出してもらいたいと思っていた。
 だから晶のこともいつか必ず恵介に言うつもりでいた。ただ、今現在それどころではなくなってしまったのだが。
 そう、あの日から――

 今年五月、その日は晶の誕生日だった。
 恵美里は放課後、晶の家へ招かれた。
 鎌倉の風情ある住宅街に建つ、和風建築だ。大きな門構えからして立派で恵美里は気後れした。門をくぐった後も広大な庭に池まで見えて驚く。昔も別荘があるなど裕福だと思っていたが、恵美里はあらためて彼と家の違いを実感した。
 家にはほかに誰もいなかった。叔母夫婦はそれぞれ仕事で妹の紀和も中学校からまだ戻っていないらしい。
 紀和の名を聞いて恵美里の顔色が一瞬変わったが、晶は気づかなかった。
 廊下を何度か曲がった先に晶の部屋があった。どれだけ広いのだろう。恵美里には把握出来なかった。
 それでも家政婦を雇う余裕はないから自分たちで掃除しているらしい。よくよく話を聞くと叔母夫婦が共働きで忙しいため、家事のほとんどを晶がやっているようだ。
 初めて聞いた。思えば恵美里は現在の晶についてあまり知らなかった。彼が話題にするのは学校や紗希たち共通の友人のことばかりだ。
 そんなことを考えながら畳の和室に入った。
 それほど広くなかったが、きれいに片付いている。晶が折りたたみテーブルを広げて紅茶とケーキを置いた。しばらくそれを食べながら話をしていたが、恵美里は内心ケーキの味もわからないくらい緊張していた。
 晶の家に来たのはこれが初めてだし、恵美里も家に招いたことはなかった。外で何度かデートをしたことはあるが、こんなふうに部屋で二人きりになるのは初めてだ。
 これまで晶は恵美里の嫌がることはしてこなかった。ただ最近、恵美里に触れる手や抱き寄せる腕に何か訴えかけるものを感じていた。頻繁ではないけれど舌を絡め合うキスも少し執拗で、その先を求められてるのは伝わってくる。
 さすがに恵美里も気づかないほど鈍感ではなかった。申し訳なく思ってはいたのだ。
 これまでも何度かそういう雰囲気になったが、恵美里はその度に晶の腕から逃げてしまった。晶も怒ることもなく、いつも何事もなかったかのように流してくれた。今までそれに甘えてしまった自分が完全に悪いとも思っていた。
 実際に恵美里も嫌ではなかった。不安はあるけれど彼と“したい”とも思っていた。
 数日前までは。
 あのことを聞くまでは――
「恵美里?」
 声をかけられて、我にかえった。テーブルの向かいから晶が不思議そうに恵美里を見ている。
「そ、そうだ。はい、お誕生日おめでとう」
 恵美里は考えていたことを誤魔化すかのようにカバンから誕生日プレゼントを出した。
 ファスナー付きのペンケースだ。中に彼が愛用している芯が丸くならないシャープペンの少し高級なバージョンを一本入れた。総額としては大したものではないけれど、一週間ほど毎日いろんな店を巡り、悩み抜いて選んだものだった。
「ありがとう。この色好きなんだ」
「よかった。ダークグリーンの服よく着てるから好きなのかなって」
「あのさ、恵美里」
 晶は手を伸ばすと恵美里の両手を上から包みこむように握った。そのままテーブルを回って彼女の隣に腰を下ろす。
「告白したのは去年だけど」
 言葉を続けながら腕の中に恵美里を抱き寄せる。肩に晶の頭の重みを感じた。彼が喋るたびに息が首筋にかかり、恵美里は動けなくなった。
「子供の頃からずっと恵美里が好きだったよ」
「えっ?」
 思ってもみなかった言葉に恵美里は少し身体を離すと、晶を見る。
「昔、急に引越すことになってわかった。恵美里に二度と会えないのかもと思って、すごく後悔した。ちゃんと気持ちを伝えればよかったって」
 晶はめずらしく恥ずかしそうにしていたが、恵美里から目を離さなかった。
「あれから母さんが死んだりとか辛いことが重なって、たぶん無意識に楽しかったときを求めて、あの社宅を訪ねたんだと思う。そしたら恵美里がいて。あの時にも言ったけど、本当に偶然で、運命的だと思った。亡くなった母さんがおれの願いを聞いてくれたんじゃないかって」
 彼の母親の話をされると恵美里の胸は痛んだ。
 一方で彼があのことについてどう思っているのか気になった。
 聞きたい。確認したい。
 そう思うのに、今、この瞬間も口は強張り、聞くことが出来なかった。
「……恵美里はおれほど想ってくれてはいないかもしれないけど」
 自信なく目を伏せる晶に恵美里は戸惑った。
 ずっと自分を想い続けていたと言うなら
「じゃあ、真優とつきあったのは、なぜ?」
 つい、真優の名前が出た。ただ、本当はずっと訊いてみたかったことだ。
「あっ、真優のことは……」
 顔を上げた晶は狼狽えていた。
 付き合う前の話だし責める気もなかったが、二人が経験済みなのは恵美里にもわかっていた。何より真優の晶への態度から嫌でも伝わってくる。
 おそらく真優はまだ晶が好きなのだ。
「……言い訳はしない。真優から告白されて、さほど気持ちはなかったけど、つきあっていたのは確かだから。あの頃、やけになってたし」
「やけ?」
「恵美里は勇斗とつきあってると思ってた。その……仲が良さそうだったし」
「ち、違うよ。彼は友だちで」
 そんなふうに勘違いされていたことに驚いたが、恵美里は即座に否定した。
 晶は微笑んで軽くうなづくと、ふたたび恵美里を抱きしめた。
「うん。わかった、すぐに。だからというわけじゃないけど、おれも真優と別れた。彼女には……何も感じなかったし」
 いつのまにか晶の右手が恵美里の顔を優しく、それでいてしっかり捉えていた。
「もっと触れたい、何もかもおれのものにしたいと思ったのは」
 晶の顔が近づいてきて、恵美里は反射的に目を閉じた。
「恵美里……だけだ」
 彼の熱が唇を伝い、恵美里にうつる。
「んっ」
 乱暴ではなかったが、晶は恵美里に口づけたまま、ゆっくりと覆い被さってきた。
 熱い息を首筋に感じる。晶の唇が耳たぶに触れ、恵美里は一瞬体を震わせた。
「あっ、や、待って」
「恵美里」
 押しとどめるために延ばした手も指を絡め取られて封じられる。
 今回とは今までと違った。晶の熱い視線に揺るぎない意志を感じる。
「恵美里が欲しい。恵美里は? おれと……したくない?」
「私も好き……だけど」
 聞きたいことがあって。
 そう言いかけた恵美里の唇は晶に塞がれた。
「優しくする。なるべく、痛くないように触っていくから」
 彼の中で先へ進むことは確実なものになっているようだった。
 恵美里は少し肩に入っていた力を抜いた。
 それを了解と見てとったのか、晶は恵美里の身体に手をのばす。
 制服のブレザーのボタンを外すとブラウスの上から胸に触れた。指は襟のリボンを器用に解き、ブラウスのボタンを一つずつ外していく。
「恵美里、好きだよ、恵美里」
 宣言した通り、優しい手つきだった。何度も甘く口づけられて囁かれているうちに恵美里も身体が熱くなっていくのを感じはじめた。 
 胸をいじられて漏れてくる甘い声。
 自分じゃないみたいだ。見たことのない女の部分。
 恵美里の戸惑いをよそに晶の手は彼女の太腿を滑り、スカートの中へ潜っていった。
 その瞬間、恵美里の脳裏にある光景が浮かんだ。
 男と女。
 本棚に囲まれた狭い部屋。
 二人は今の恵美里と晶のように抱き合い、身体を絡ませていた。
 男の手が女の白い脚を撫で、スカートをまくり上げる。
 喘ぎ声を漏らす、女の紅く濡れた唇。眉根を寄せ、閉じられた瞼。
 恵美里は彼女を知っていた。
「いやっ!」
 恵美里は叫ぶと晶を突き飛ばしていた。
「恵美里?」
 尻餅をついた晶は当惑している。
 恵美里はさらに彼から離れるとはだけたブラウスを手で直した。
「どうして?」
 晶の傷ついたような表情が辛くて恵美里は目を逸らした。
「ごめ……なさい。思い出したの。私、見てたんだ」
「見てた?」
「子供の頃、偶然見ちゃったの。おじさんとお母さんが――」
 それ以上言葉には出来ず、代わりに恵美里は一度震える唇を噛み締めた。そして言葉を変えて尋ねる。
「――晶は知ってたんだよね? お母さんたちのこと」
「知ってたって、何を?」
 問い返す晶の顔は強張っていた。
 それは肯定したのも同じだった。
「八年前、私のお母さんと晶のお父さんは……駆け落ちしたんでしょう?」
「……おじさん(恵介)から聞いたの?」
 恵美里は首を振って否定した。
「紀和ちゃんから。晶、ゴールデンウィーク明けに風邪か何かで三日ほど学校をお休みしたでしょ。私じつはお見舞いでここに行ったの。晶はいなくて、代わりに紀和ちゃんが出てきた。
 紀和ちゃんは私と晶がつきあってるって知って、すごく怒ってた。そうよね。だって、おばさんは私のお母さんのせいで自殺し――」
「違う!」
 大声に恵美里は驚いて肩を震わせた。
 晶は恵美里に向かって手を伸ばしたが、彼女が立ち上がって避けると項垂れる。
「関係ないんだ、母さんの死は。でも、だからこそ……言いたくなかった。おじさんにおれたちのことを言わないで欲しいと頼んだのも彼はおれが君とつきあうなんて絶対に許さないと思ったから」
「お父さんも知ってたの?」
「ああ、そう思う。当時……母さんを訪ねて家に来たし」
 恵美里は頬に触れた。いつのまにか泣いていた。
 身体が千切れそうに痛いと思ったが、それは心の方だった。
 紀和から詰られた時も辛かったが、まだ半信半疑なのもあった。ところがこうして自分も思い出し、しかも晶も肯定した。
 晶は許せるのだろうか。
 口に出さなかったが、問いかけに答えるかのように晶が顔を上げて恵美里を見た。
 今にも泣き出しそうな彼の表情に恵美里の胸は張り裂けそうになった。 
「ねえ。おれは……それでも気持ちは変わらないんだよ、恵美里。恵美里はどうなの? 親のこととは関係なく、おれ自身を見てくれよ!」
 彼のこんな辛そうな顔を初めて見た気がした。
 だがそれでも……
 恵美里は首を横に振っていた。
「ごめん……なさい。少し……距離を置こう、私たち」
 部屋を出て行こうとする恵美里の背中に晶が言った。
「おれは、諦めないよ。恵美里の気持ちが変わるのをずっと待ってるから!」

 浴室を出て階段を駆け下りながら、恵美里はあの日のことを思い出していた。
 夢中で走るうちにいつのまにか庭にいた。水の入ったバケツが置きっぱなしになっていたが、誰もいない。芝生のところどころに花火の燃えかすらしきものが落ちていた。
 たしか風呂に入る前に一階で勇斗が騒いでいる声が聞こえた。そういえば後で花火をすると晶も言っていた気がする。自分抜きでやったのだろうか。少し前なら寂しがっただろうが、正直今はどうでも良かった。
 皆がどこへ行ったのかはわからないが、静かな庭に恵美里はかえって安堵した。
 軽井沢は昼間でさえ都心より涼しい。夜ともなるとなおさらだ。寝巻きに近い薄着で飛び出してきたことを恵美里は少し後悔したが、それよりもしばらく一人でいたかった。
 近くにあった椅子に体育座りのように両脚を抱え込んで座った。冷たい夜風が涙を乾かしていく。無意識に顔を擦ったからか、頬がひりついて痛かった。
 目は自然と庭の向こう、白樺の林へ向けられた。
 幼い頃は夜になるとあの暗闇から何かが出てきそうで怖かった。だが今は林も大して深くなく、シダの茂みが切れた先にちょっとした崖があることも知っていた。
 しかしその林の中で今、何かが動いた気がする。
 恵美里は視線を外せなくなった。
 布のようなものを頭から被った――何か。
 近づいてきたそれが黒い人影を成したとき、月明かりに白い顔が浮かび上がった。
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