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第二章 惨劇

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 晶はゆっくり階段を上がっていった。左手にキャンドル、右手には出刃包丁を持っていたからだ。キャンドルの火は小さく、本当に足下しか見えない。慎重に上らないといけなかった。
 廊下を回り込むと惨状の残るバスルーム前に着く。キャンドルで照らすと床にはまだ血の痕が残っていた。
 まるで年末年始などにTVで見る大筆の書道みたいだ。時折かすれては少し先でまた太い線となって現れる。辿っていくと一番奥の客室の前で途切れていた。
 ここはたしか恵美里と紗希の部屋だ。
 晶はかすかに眉をひそめると首を傾げた。電気が落ちる前に確認したわけではないが、ここまで血痕は延びていただろうか。
 音をたてないようにそっと客室のドアを開く。
 そのまましばらく動かず人の気配がないことを確かめた。足元を照らすとグレーベージュの絨毯には赤黒い痕が点々と付いていた。痕は二つあるベッドの片方まで続いている。
 ベッドの脚元に旅行バッグが置いてあった。ナイロン製でエメラルドブルーに薄茶のギンガムチェック。このデザインはたしか恵美里のものだ。赤黒い痕はそのバッグのところで途切れていた。
 ベッドの端にそっとキャンドルを置くとバッグのファスナーを開けた。キャンドルの明かりで見えるようにバッグの口を広げてみる。中に信じられないものを見つけ、「それ」を外に出した。
 ノコギリだった。刃の長さは三十センチほど。かなり錆びつき、刃こぼれした刃先に赤黒い何かがこびりついている。
 思わずノコギリを床に落とす。
 衝撃に全身が震え、それを鎮めるようと唇を強く噛みしめた。血の味がするほど。ノコギリから目が離せなかった。
 だが、ふいに晶は着ていたグレーのパーカーを脱ぐとノコギリを包んだ。それを胸元で抱えた状態で客室を出て行った。

 紗希と書斎へ入った恵美里はまず書斎机の上にキャンドルを置いた。キャンドルの火では周囲一メートルほどしか照らせない。こちらに背を向けた紗希がドアの内鍵を閉めているのが、かろうじてわかる程度だ。
 手には果物ナイフがあったが、持っているのが嫌だった恵美里はさっそくキャンドルの隣にそれも置く。
「ねえ、これって本当のこと?」
 紗希が言いながら長椅子に雪崩こむように座った。
「私も……信じられないよ」
 恵美里も紗希の隣に腰掛ける。
 紗希はさきほどよりは落ち着いて見えた。鍵のかかった部屋に入って安心したのだろうか。
「強盗にしちゃ変じゃない? だって私と秀人のフルネームを知ってたんだよ?」
「そういえば……変だね」
 たしかにあらためて言われると妙だ。自分たちのことをあらかじめ知っていたのだろうか。
 だとしたら、かえって怖い。強盗の類じゃないとすれば、その目的がわからないからだ。
「ごめんね、恵美里」
「えっ?」
「なんか……取り乱しちゃったから。恵美里がしっかりしてて、助かった」
 恵美里が驚いて紗希を見ると恥ずかしそうにしていた。
「そんなことないよ。私だって」
 タキコがいるなどと言い続けた。それは嘘ではないが今のところは自分しか見てなかった。だんだん自信がなくなってきた恵美里は語尾を濁した。
 なんとなく気まずくて部屋全体を眺めていると恵美里は別のことを思い出して、眉をしかめた。
 ここで恵美里の母親と晶の父親が浮気していた。あんな衝撃的な光景をなぜ忘れていたのか。いや、きっと当時は幼過ぎて意味がわからなかったからだ。それでも何かいけないものを見たという自覚はあり、記憶の底に封じこめて忘れたのだ。
「子供の頃、私と晶が毎年この別荘へ来てたこと、晶が話したの覚えてる?」
「どうしたの? 急に」
「小五の時、お互い引越して離れ離れになったんだけど、それは私の母親と晶のお父さんが……駆け落ちしたのが原因なの」
「かけ……おち?」
 紗希は驚きのあまり目を見開いていた。
「私も最近まで知らなかった。お父さんが内緒にしてたんだ。でも晶は知ってたの。……なのにずっと私に嘘をついていた」
「恵美里」
「思い出したんだ。子供の頃、見たの。お母さんとおじさんがここで――」
 恵美里はそれ以上言えず、手で口を覆った。つむった目から涙が一筋こぼれた。
 小学一年生の夏休みだった。
 恵美里は有里子の姿を探して広い別荘の中をうろついていた。恵介と晶と裕紀は駅前まで買い物に行っていて不在だった。
 恵美里は別荘に着いて早々熱を出して寝こんだ。今朝になって熱もだいぶ下がったので部屋を出て階下へ向かった。喉が渇いたので飲み物をもらおうと思ったのだ。
 あちこち探し回ったにもかかわらず、有里子は見つからなかった。
 リビングの方からかすかに笑い声がした。しかしリビングには誰もいない。
 恵美里は隣の小部屋のドアを見た。そこは和之が仕事部屋として使っているので勝手に開けないようにと常々注意されていた。だが、どうやら声はそこから聞こえてくる。
 書斎のドアノブをつかんで回してみたが、鍵がかかっているのか開かなかった。同時に楽しそうだった声がふいに止む。
『ママ?』
 返事はない。恵美里はなんだか悔しくなった。
 ママとおじさんは私を仲間外れにして何を楽しんでいるんだろう。
 恵美里は庭の方へ回ってみた。窓からなら中が見える。
 つま先立ち、書斎の窓から中をのぞきこんだ。
 今なら二人が何をしていたかわかる。今恵美里が座っている長椅子の上で二人は服をはだけて抱き合っていた。
「……現場を見ちゃったってこと? それはトラウマ……だね」
 詳しく語ったわけではないのに紗希は察してくれた。恵美里は長椅子から立ち上がった。やはり座るには嫌悪感がある。
「トラウマ……うん、そうかも。無意識だったけど晶との関係が進むのが怖かったのも、そのせいかもしれない。
 晶は親のこととは関係なく自分を見て欲しいって言ったけど……わからなくなったの。あんな大事なことを彼が……黙っていたから。混乱してしまって、私は少し離れたいって言った」
「それを知ったのが、五月ごろ?」
 恵美里は両手に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「なんて言ったらいいのか……。私、晶に頼まれたんだ。恵美里を誘って欲しいって。恵美里をとても怒らせてしまったから仲直りしたいんだって、必死で頼んできた。
 もちろん、今、恵美里から聞くまで詳しいことは何も知らなかったよ。ただ、あんな晶を見たのは初めてだった」
 紗希の話に恵美里は驚いた。
 晶に怒ったつもりはなかった。むしろ罪悪感でいっぱいだった。自分の母親が晶の家庭を壊したのは事実だからだ。
「それだけ恵美里を好きなんだよ。少し……羨ましいくらい」
 紗希が少しさびしげに笑ったので恵美里はハッとする。
「……もしかして晶のこと好きなの?」
 今まで紗希の口から恋愛事を聞いたことがなかったので、思わず尋ねた。もし紗希が晶に秘めた想いを抱いていたとしたら辛い思いを強いてしまったと焦る。
 すると紗希はあわてて否定した。
「違う、晶のことは何とも思ってない。ただ、そんなに強く好かれているのが羨ましいなって」
 その言い方から紗希にも誰か想う相手がいるんだと恵美里は気づいた。こんな状況でなければ、もっと詳しく話を聞いてみたかった。
「……こんなこと話してる場合じゃないよね」
 紗希も同じことを思ったのか、疲れたように笑った。
「私こそ、ごめん。たしかに今話すことじゃなかったね。でもただの喧嘩とかではないってことは言いたくて」
「ううん。そんな理由じゃ、他人がどうこう言えないよ。私は恵美里が……選んだことを応援する」
「……ありがとう」
「秀人と晶……大丈夫かな」
 ドアを見つめながら紗希が呟いた。

 秀人は客室のドアを開けた。
 一階には玄関を入って左側の細い廊下を入ると向かい合った客室が二つある。
 秀人と勇斗は一応晶に遠慮して一部屋を二人で使うことにした。とはいえ、ここも十分な広さがあり、ベッドは一台だけだが他にソファーもあった。一日ずつ交代で寝ることは勇斗ともすぐ話がついた。
 まあ、そんな取り決めも今では無意味になった。
 事が起こってからずっと秀人はある一つの可能性について考えていた。
 ただ、それだけを信じて行動するのは危険だとも思った。だから警察に通報してみることにした。事実として紗希と自分は携帯電話を破壊されている。これだけでも立派な器物破損罪に問える。
 勇斗が出て行くのを止めようかとも思ったが、もし本当に外部からの侵入者がいるとしたら、助けを呼び行くのも正しい判断だ。そう考えて行かせてしまった。
 おそらくは警官に怒られて終わるはずだ。人騒がせな悪ふざけとして。
 秀人は自分の黒いデイバッグを開けるとシルバーの保護ケースを取り出した。A4サイズのタブレットが入っている。旅行に持ってくる物ではないかもしれないが、秀人にとってはもう身体の一部みたいなものだった。スマホより容量もあるため、色々入っている。
 電源を入れると、画面が明るくなった。SIMフリーのタブレットなので携帯が使えるならこれも使えるはずだ。そんなに使うつもりはなかったが、こんなことになった今、持ってきた自分を褒めてやりたい気分だった。
 そういえば、なぜ別荘のブレーカーまで落としたんだ。たんにビビらすためなんだろうけど。
 考えて、すぐに自嘲まじりの笑いがもれる。
 ブレーカーが落ちたなら真っ先にそれを直せばよかったのだ。今頃気づいた自分の間抜けさ加減に秀人は頭を掻いた。
 たしかに取り乱していたことを認めざるを得なかった。まんまと相手の策にハマったわけだ。
「……ますます許せないな」
 気を取り直して画面内の電話アプリを開く。
 110番の数字を打ち込もうとした。
 そのとき背後でそっと開いたドアから入ってきた人影に、秀人は気づかなかった。
 何か棒のようなもので、思いきり側頭部を殴られるまで。
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