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第二章 惨劇

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 気を失っていたのか、どのくらい時間が経ったのかもわからない。
 数分なのか、数時間なのか。
 勇斗はしばらく動くことができず、その場に横たわっていた。
 思ったよりなだらかな傾斜の崖だった。ただ、背中から滑り落ちた際、突き出た岩や木の根にぶつかったようだ。身体のあちこちが痛かった。
 階段で言えば踊り場にあたるような、わずかに平らになった部分があり、そこで勇斗の身体は止まったのだった。
「ぃぎゃあーっ!! いだいぃ!! いだぁいぃっ‼︎」
 上の方から聞こえた絶叫に勇斗の目が開いた。
「紗希?」
 ギシギシと音をたてそうな身体の痛みに耐えながら、勇斗は起き上がろうとした。
「いっ、いってーっ!」
 右足首に走る痛みに、その場でうずくまる。
 この痛みは経験があった。足首を捻ったのだろう。捻挫だ。
 勇斗は両手をつきながら、なんとか立ち上がると、二人の名を呼ぶ。
「紗希? 恵美里?」
 声が届かないのか、返事がない。
 別荘の方向から紗希の声は聞こえてきた。
 あれは声というより……絶叫に近かった。
 聞き間違いだろうか。
「ぃぎゃぁあっ!!」
 まただ、紗希の声は尋常ではなかった。
 勇斗は思い出した。自分がここに落ちた原因を。
 赤いローブの女。勇斗は便宜上、心の中で「タキコ」と呼んでいたが、彼女にはどこか違和感を覚えた。斧を振り回してきたので反射的に逃げたが、女のスピードは途中で落ちた。
 勇斗はどちらかというと自分でも怖がりだと思うし、怪談や心霊の類も信じやすい方だったが、あれはどう見ても生きてる人間のように思えた。仮に怨霊などであれば、勇斗が下へ落ちようがどうしようが、襲ってくるに違いない。
 タキコは今……紗希を襲っているのか? 恵美里は一緒じゃないのか? 恵美里!
 焦燥に駆られた勇斗は、目の前の崖から突き出ている木の根を掴んで上ろうとした。高さとしては勇斗が立ち上がってほんの少し高い場所に地面がある感じだ。おそらく二メートル程度だろう。
 だが右足に力が入らないせいか、上ることができなかった。ほんの二十センチ先なのに、手は届かない。
「えみり―っ! さき―っ!」
 さきほどよりも声を張り上げてみた。
 それでタキコがこちらに来てもかまわなかった。むしろ彼女たちから離すことができればいい。
 しかし、返事はなかった。
 さらには何も聞こえなくなった。
 不安のあまり息苦しくなってきた。
「さきーっ! えみりーっ!」
 今や祈りに近い心境で叫んだ。
 誰でもいい! 答えてくれ!!
「えみりーっ!」
 ガサガサと葉がこすれあう音が近づいてきた。
 勇斗は息を飲む。
 タキコか?!
「勇斗?」
 恵美里の声だった。
「恵美里? えみりーっ!」
 草を掻き分けて進んでくる音が大きくなる。
 勇斗はもう一度上に登ろうと岩につかまったが、また落ちた。 
「勇斗? どこ? ゆうとーっ」
「恵美里! ここだ!!」
 もうだいぶ近くまで彼女が来ているのがわかった。声がよく聞こえる。
 勇斗は大事なことを思い出し、急いで付け加えた。
「恵美里、草っぱらの先に、いきなり崖があるんだ。気をつけて!」
 すぐ目の上の草むらから、恵美里が姿を現した。
 恵美里は勇斗が言ったからか、それとも元々知っていたのか、崖の手前で立ち止まり、彼を見下ろしていた。
「勇斗」
「恵美里」
「……よかった、無事だった」大きな息とともに恵美里がそう言った。
 つかの間、二人は安堵し、微笑みを交わした。実際はこちらからは影になっていて恵美里の表情はよく見えないのだが、勇斗はそう思った。
「恵美里、悪いんだけど少し手を貸して。足を挫いちゃって上がれないんだ」
 恵美里は右腕をそばの白樺の幹に引っ掛けると、身を乗り出して勇斗に左手を差し出した。
 白くて小さな彼女の手が血と泥にまみれているのを見て、勇斗は一瞬息を飲んだが、その手をつかんだ。右手は恵美里の手を握り、左手は崖から突き出た岩や根をつかみながら、左脚だけで、なんとか地上へ這い上がることができた。
「勇斗……よかった、本当に」
 恵美里がいきなり抱きついてきたので、勇斗は驚いた。だが胸の中にいる彼女の肩は細かく震えていた。そんな恵美里の身体を勇斗も包み込む。互いの存在を確認するかのように二人の抱き合う腕に力が入っていった。

 恵美里が少し落ち着いたところで、二人はその場に腰を下ろした。
 月明かりの下であらためて見た恵美里は酷い状態だった。髪はもつれ、全身血や泥で汚れていた。おまけに首には何か赤く痕がついている。
 勇斗は何があったのか訊くのを躊躇ったが、恵美里が自分から話しはじめた。
 最初に秀人が襲われた。紗希と逃げようとして、リビングで真優と晶、秀人の遺体を見つけたこと。
 真優は赤いローブを身に着け、白い仮面を被っていた。秀人は犯人は真優だと言ったが、彼女自身惨殺されていた。
 三人の遺体を悪趣味に飾り立てた異常な殺人鬼は、恵美里たちが居間から庭へ出ようとしたところを襲ってきた。
 恵美里は殺人鬼に抵抗したが、あえなく首を締められ、気絶している間に殺人鬼は紗希をさらって別荘の中へ消えた。目覚めてすぐ、林の方からの勇斗の声に気づいたらしい。
「助け……られなかった。紗希、ごめんね、紗希……」
 ときおり唇を震わせ、あふれだす涙を拭いながらも、懸命に話す恵美里を勇斗は思わず抱きしめる。
「タキコ……やっぱり、あれはタキコなんだよ。私が……私が呼んじゃった」
 半ば錯乱しているのか、恵美里は何度も妙なことをつぶやく。心配になった勇斗は彼女の背中をさすりながら答えた。
「違う。恵美里は悪くない、何も悪くない。がんばったよ。おれこそ、ごめん……ずっと一緒にいればよかった。もう二度と独りにしないから」
 勇斗は恵美里を抱きしめたまま、自分のことを説明した。
 タキコに追いかけられて、この崖に落ちてしまったこと。
 おそらくタキコは生きてる人間だということ。
「――なんか足が遅いというか、本気で追いかけてきてなかった気がする」
 恵美里が勇斗の腕の中で顔を上げた。勇斗は血と涙で汚れた彼女の頬を指でそっと拭った。
「でも、もう、そいつの正体なんてどうでもいい。……逃げよう、ここから」
「紗希が」
「どう思われようとかまわない。おれは恵美里を連れて逃げるよ」
「私は……なんでこんな目に遭うのか知りたい気もする」
「理由なんかない。頭のおかしいヤツなんだよ」
 勇斗は首を横に振った。
「……とにかく、誰か助けを呼びに行こう? おれも足がこんなだから逃げるので精一杯だ。このまま林の中を抜けて外へ出よう」
 勇斗の提案に恵美里も緊張した面持ちでうなづいた。
「でも……今、タキコは何してるの? 私はなぜ放っておかれたの?」
「なぜかはわからないよ。……死んだと思われたのかもな」
 勇斗はそれより一刻も早くここを離れたかった。
 恵美里の手を引きながら崖際を少しずつ進み始めた。わずかでも右に足を踏み外せば、また下に落ちてしまう。痛む右足がもどかしかった。足を挫いてさえいなければ、もっと早く、私道どころか下の県道も駆け抜けることが出来るのに。

 林を抜け、二人は別荘の正面へ出た。
 あまりにも静かだった。
 まるで今までのことはただの悪夢だったかのように、何もなかったかのように、静かな闇が広がっている。
 勇斗はあれからずっと無言だったが、足の痛みを堪えて急いでここまで連れてきてくれたのは恵美里にもわかっていた。勇斗の横顔を見上げると、何か感じているのだろうか緊張で強張っている気がした。手を握る力も少し痛いくらいだ。
 恵美里は嫌な予感を拭えなかった。
 あんなに悪趣味な相手が、このまま自分たちを逃がしてくれるとは思えない。
「ここからは目立つから、一気に駆け下りよう」
 勇斗の硬い声に恵美里がうなづき、一歩踏み出した時それに気づいた。
 坂道を少し下った先に、誰かが立っていた。
 ローブの殺人鬼「タキコ」なのは、灯りがなくてもわかった。二人の足が止まる。
 タキコは私道の真ん中に立っていた。
 月明かりの下、まるで舞台の主役のように堂々と。
「ふざけんな……待ち伏せしてたのかよ」
 勇斗が吐き捨てるように言った。
 恵美里はタキコから目が離せなかった。嫌でも首を締められた時のことを思い出してしまう。少しでも目を離した瞬間に襲ってくるような気がしてたまらなかった。
 自然と手が震えていく。それに気づいた勇斗が握る手に力をこめた。
 タキコは何か長い物を持っていた。二人が動き出すのを待っているのか、絵のように身動きしない。
 勇斗にはその姿がやけに縦に長く、大きく見えた。
 さきほど自分を追いかけてきた者とは何か違う。理由はわからないが、そう感じた。
 手に握っている物をタキコがこちらへ向けると、恵美里の口から「ヒッ!」としゃっくりのような声が出た。
 長い銃身が二本重なった銃だった。
 恵美里は銃に詳しくないがドラマや映画で見る――いわゆるショットガンというものではないかと思った。
 タキコは照準を二人に合わせた。
 恵美里は動けなくなった。動いた瞬間、撃たれる。あんなヤツが撃つことを今さら躊躇うはずがなかった。
「ふっ」
 タキコが笑った。
 いや、そう恵美里に聞こえただけかもしれない。
 タキコが銃口をいきなり下げた。まるで指し棒のように銃を自分の足下へ向けると、二人に何かを指し示す。
「――紗希?!」
 タキコの足下でうつぶせで横たわっていたのは、血まみれで酷い姿ではあったが、間違いなく紗希であった。
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