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第三章 真相

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 磨りガラスを壊し、窓から部屋を抜け出した紀和は庭へ回ると、縁側から家の中に入った。まずトイレを済ませ落ち着いたところで、叔母夫婦の部屋へ向かう。
 いつもなら家じゅうとは言わないまでも、この時間ならどこかに明かりがついているはずなのに、まだ暗いままだ。朝から家の中の空気が動いてない感じがした。
 嫌な予感がどんどん膨らみ、冷や汗がにじみ出てくる。電気をつけながら先へ進んだ。
 叔母夫婦の部屋は家の一番奥にあった。そこだけは洋室にリフォームされており、寝室の隣にはバスルームとトイレがついていた。
 そのバスルームから水音が聞こえる。
 何度か声をかけてみたが、返事がない。紀和は思いきってバスルームの扉を開けた。
 そこは血の海だった。
 ゆったりしたサイズの浴槽に、叔父と叔母が乱暴に投げ込まれていた。叔母が下で、その上に重なるように叔父が入っているのだが、二人とも頭が下になって脚が上を向いてるのはどういうわけだろうか。
 二人ともパジャマ姿だったが、全身血まみれで顔は苦痛と驚愕に歪んでいた。あまりよく見たくなかったが、胸や腹の辺りだけでなく、首にも大きな切り傷があるのがわかった。
 見開いていた叔母の目と目が合い、思わず視線を足下に落とした紀和は犯行の動線に気づく。
 おそらく兄はベッドで寝ていた二人をいきなり刺し殺したのだろう。奥の寝室に二台並んだベッドも血だらけだった。ベージュの絨毯には二人を浴室まで引きずった赤い線が出来ていた。
 洗い場に透明のレインコートが落ちていた。それに出しっぱなしのシャワーの水が当たって、音をたてている。兄が着ていたものだろうか。
 早朝から今まで何時間出しっぱなしになっていたのか、水道代はいくらになるんだと今考えることではないことを少し考えた。シャワーの水を止めると、もう一度浴槽に目をやった。
 二人は死後硬直が始まっていた。投げ入れられた時の不自然な体勢のまま、固まっている。そして浴槽の底には血溜まりが出来ていた。なぜか栓がされているのだ。
「……血を溜めようとしていた?」
 わけがわからなかった。
 紀和はふらつく足取りで叔母夫婦の部屋を出ると、廊下に座り込んだ。
 数分、そこで考えた。
 兄の犯行であることは間違いない。それは確信していた。
 すぐに警察に通報すべきなのだろうが、紀和は迷っていた。
 兄と話がしたかった。なぜこんなことをしたのか、聞きたかった。
 ただ紀和は漠然とではあるが、動機がわかったような気がした。そこからさらに兄の居場所も導き出される。
 確認するにも別荘の電話番号がわからなかった。
 紀和はふたたび叔母夫婦の寝室へ戻り、書類を探した。書類は机の引き出しに杜撰にしまわれていたので、わりとすぐ見つかった。
『売買契約書』――軽井沢の別荘のものだ。
 その関係書類の中に別荘の電話番号を見つけた。
 書類を手に居間へ向かうと固定電話から電話をかけた。しばらく呼び出し音が鳴り続けたので、もしかしたら自分の考えすぎだったのではと紀和が思った時、相手が出た。
『もしもし?』
「お兄ちゃん?」
『紀和、部屋から出たんだ?』
 兄の声は落ち着いていた。
「叔母さんたちを……見つけた」
『そう。ところでお願いがあるんだ、紀和』
「別荘にいるんだよね? 誰と?」
 電話の向こうから兄以外の人の気配を感じた。
 ドアが閉まった音。階段を上がっていく時のような一定のリズムを刻んだ音。
 紀和は緊張のあまり湿った手が書類を握りつぶしていたことに気づいた。電話台の上に置くと、受話器を握っていない方の手で紙のシワをのばし始めた。
『警察に通報するの……もう少しだけ待ってくれないか?』
「お、お兄ちゃんが、こ、殺した……のね?」
 沈黙が返ってきた。
 わかってはいたが、あらためて肯定されると、紀和の声は震えてきた。
「なぜなの? 叔母さんたちが、別荘を勝手に売却したから?」
 そのことは紀和も知っていた。たしか6月に入ってすぐくらいのことだった。
 めずらしく四人揃った夕飯の席で、叔母がこともなげに「別荘は売ったから」と言い出した。急な話だった。以前から維持費がかかるから売却して進学費用にしたらと言われていたが、兄は首を縦に振らなかった。名義は兄のものになっていたはずだが、叔母たちは後継人だ、いいようにすることは可能だったのだろう。
 兄は声を荒げることはなかったが、あきらかに驚いていた。でもすでに手続きが済み、八月には取り壊しに入ると聞いて、あきらめたように大きく息を吐いた。
『まあ、わかってたよ。叔父さんがまとまった大金が欲しかったんだろうし。おれたちのお金にも手をつけてたくらいだから。でもそれはさ、直接の動機じゃないんだ。売られると困るんだよ……この別荘を』
 紀和はよくわからなくなった。
 母親が残してくれた自分たちの財産を使い込まれたことが理由ではないのか。
 そんなにあの別荘に思い入れがあったのか。
「困るって……何が?」
『でももう契約は成立しちゃったし。だからおれは考えた。最後にやりたいことをしようって』
 会話を聞かれたくないのか、兄の声はやけに小さく、聞こえづらくなった。
「何を言ってるのか、よく聞こえないよ。お兄ちゃん……変なこと考えてないよね?」
 たしか「さいごに」という言葉が聞こえた気がする。
 叔母たちの死体を見たショックで、かえって冷静になっていた紀和だったが、兄の意思を察し、ふたたび動揺してきた。
『ごめんね、紀和。おれは……彼女を永遠におれのものにするんだ』
 やはり死のうとしているのだ。しかも
「彼女って……恵美里のこと? 今、恵美里と一緒なの?」
『紀和、お願いだ。夜明けまででいいから、見逃してくれ』
「いやよ! なんで恵美里なの?!」
 よりにもよって、自分の家族をめちゃくちゃにした女の娘と一緒に死にたいなどと。
『兄ちゃんの望み、叶えてくれるよな?』
「いやだ! 死なないでよ?! 帰ってきて! 一人にしないで!」
『さよなら』
「いやよぉぉぉ!!」
 紀和は叫んだが、すでに電話は切れていた。
 かけなおしたが、もう二度とつながらなかった。晶が電話の配線コードを切断したからなのだが、そんなことは紀和にわかるはずもない。
「うっうっ……」
 紀和は床に突っ伏して一通り泣いた。
 三十分後、紀和は叔母たちの寝室に行き、書類をもとに戻した。
 それから、さらに一時間後、ようやく110番通報した。

 最初はサイレンを鳴らさず、パトカーが一台来ただけだったが、浴室の惨状を見た警察官はすぐに応援を呼んだ。その間、紀和の傍らにはずっと女性警官が一人付き添っていた。表の方がにぎやかになり、近所の人が集まっているのだろうと紀和はぼんやり想像した。
「一ヶ屋……紀和さん?」
 紀和は居間のダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。向かいには女性警官が座っている。その表情は硬く、緊張していた。まだ若く、化粧もしていない感じだけど美人だ。
 第一発見者である自分に気遣いながら、慎重に言葉を選ぼうとしているのが伝わってきた。
「お兄さん……晶さんが今どこにいるかわかりますか? 連絡とれますか?」
 その言い方は「当然取れますよね?」と確信している聞き方だった。それはそうだろう。ダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていた紀和のスマートフォンには、晶の電話番号が登録されている。女性警官の目は紀和の手の中にあるスマートフォンをじっと見つめていた。
「電話は……しました。でもずっと話し中で」
 嘘はついていなかった。紀和もまだ兄と話したかったので、このスマートフォンを見つけた時、すぐに電話した。ところがずっと通話中だった。何度かかけたが、一時間ほどその状態は続いた。どこへそんなに長電話しているのだろうと思った頃、ようやく繋がったと思ったら「電源が入っていないためかからない」となった。
「では番号を見せてもらえますか? こちらからかけてみます」
 女性警官はやや強引に紀和の手からスマートフォンを奪ったが、紀和も抵抗しなかった。そして彼女は画面を見ながら何か操作していたが、やがて眉をひそめた。
 そして紀和に断りを入れ立ち上がると、少し離れた場所で電話しはじめた。
「ええ。はい。ええ。位置情報は……それが……ダメでした。はい、引き続き、聴取してみます」
 女性警官は席に戻ると、紀和に笑顔を向けた。引きつったような口もとに、紀和は思わず吹き出しそうになった。見られないよう、あわてて俯く。
「お兄さんの知り合い……例えば親しいお友だちを誰か知っていますか?」
 紀和は首を横に振った。
「わかりません。そういう話はあまりしないので」
「そう……」
 どこまで引き伸ばせるだろう。
 紀和はひざの上にある自分の手を見つめながら考えた。
 そういつまでもごまかしきれるものではないことは、紀和にもわかっている。警察も叔父たちや兄のことを数時間以内には調べるだろう。そして別荘のことや、交友関係に四谷恵美里の名も出てくるに違いない。
 しかし紀和はすでに通報前に気持ちを整理していた。
 兄が恵美里と死ぬことを望んでいるのなら――望み通りにしてやろうと決めたのだ。
 ただし彼の言う通り、夜明けまでだ。
 紀和はイカれた兄に監禁されて、惨殺死体を発見することとなった哀れな妹の姿を押し通すだけだった。
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