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終章 憑依

終章

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 五十嵐紗希は車窓から外を歩く二人の姿を見かけた。
 二人は橋の上の歩道を並んで歩いていた。
 紺のブレザーの制服。左手に学生カバン、右手に卒業証書を入れた筒を持っている。男の方は背が高く、女は彼の肩に届くか届かないかの背丈。女は顔をやや上向け、男も下を向き、互いを見ていた。あろうことか、その横顔は二人とも微笑んでいる。
 信号が青になり、車が動き出す。あっという間に二人が遠ざかり、小さくなった。車が角を曲がって二人が見えなくなっても紗希は左手の中の筒を握りしめていた。力を込め過ぎて指先が白くなるほど。
「どうしたの? 足が痛む?」
 運転席の母がバックミラー越しに気遣うように尋ねる。紗希はハッと我に帰るとミラーに映る母親に向けて微笑んだ。
「大丈夫。……知ってる子を見かけただけ」
 不審がられないように母から視線を外すと、ふたたび窓の外を見た。彼女の目は景色を映してはいたが、何も見ていなかった。頭の中は別のことを考えていた。

 あの二人のことは忘れるはずもなかった。
 二階堂勇斗と四谷恵美里。
 半年前までは親友だった。
 しかし、二人を見かけた紗希の心に今広がるのは、強い憎しみだけだ。
 彼らはまるで全てが終わったかのように笑い合っていた。こっちは半年間、恐怖と怒りと絶望が繰り返し襲い夜も眠れない毎日だったというのに。
 紗希は全く理不尽な事件に巻き込まれて右肩には醜い傷が残り、左足首から下を失った。
 左足の縫合手術は行われたが、結局神経が繋がることはなく、最終的に切断されることになった。義足にもなんとか慣れて、今日の卒業式では引きずりはしたが自力で歩くことが出来た。
 こんな状態で大学を受験出来たのには我ながら驚いたが、何かに怒りをぶつけずにはいられなかった紗希は、それを勉強に向けたのだった。長い入院中、他にすることもなかった。
 助かってから一ヶ月は、繰り返す手術に麻酔と精神安定剤のせいで記憶がほとんどなかった。翌月から警察に聴取されたが、紗希が答えられたのは赤いローブの殺人鬼にあの狭い書斎で襲われた辺りまでだった。リビングに秀人と真優の遺体があって、恵美里と一緒に発見したと聞いても何も思い出せない。
 次の記憶は足首を斬られた時だ。あの衝撃と痛みは言葉では言い表せなかった。その際、恵美里が自分を助けるために晶と戦ったらしいが、それも紗希は全く覚えてなかった。痛みが全てを打ち消していた。気づけば晶に身体を引きずられて足首をガムテープで乱暴に繋ぎ留められた。あのサイコ野郎は紗希に言った。
『紗希たちには何の恨みもない。ただ、恵美里に自分を一生忘れさせないため犠牲になってもらった』と。
 その意味はいまだによく理解出来なかったが、ただ紗希がこんな目に遭っているのは恵美里のせいなんだということだけはわかった。
 つぎに意識を取り戻した時、晶に逃げてもいいと言われて立ち上がった。その時、自分を呼ぶ恵美里の声が聞こえた。顔も体も血だらけだったからか、それとも強い怒りのせいか、視界が真っ赤に見えた。自然と恵美里に憎悪を向けていた。彼女はそんな紗希の視線を受け、動けないでいるようだった。
 そして不恰好ながらも懸命に逃げる紗希の肩を晶は容赦なく撃った。そこから先は記憶がなく、気がついた時には病院のベッドに寝ていた。

「紗希? 着いたわよ」
 気づけば母が車のドアを開けて、手を差し出していた。その手を借りて紗希は車から降りた。いつのまにか自宅に着いていたらしい。
 紗希の家は高校から車で三十分の場所にあった。足が不自由になるまでは電車で十分、徒歩十五分の距離だった。車の方が時間がかかるのだが仕方がない。
 似たような家が並ぶ、新興住宅地の一軒家。縦に細長い三階建ての家はいろいろと狭く、特に階段は足を失ってからは上り下りがきつかった。リハビリセンターの看護師の話では義足の感触に慣れるにはやはり時間がかかるそうだ。
 階段を上りきり、一息つくと自分の部屋に入った。
 制服から私服に着替えるためクローゼットに近づいた紗希の動きが途中で止まった。
 カーテンを閉めたままの薄暗い室内に――誰かがいる。
 いるはずはないし、六畳間に隠れる場所などないはずだが、気配を感じる。二箇所あるうちの右の窓に頭を向けて置かれたベッド。そのベッドの向こう側、陰になっている部分で何かが動いた。
「だ、誰?」
 紗希の声は震え、掠れた。
 壁の隅で何かがうごめいている。
 動くことができない。頭が固定されたかのように、そこをずっと見つめるしかなかった。
 闇の中で黒い何かが――だんだん大きくなっていく。
 それはやがて上へ上へと細く伸びていき、そのうち紗希と同じ位の背丈にまで成長した。
「‼︎」
 赤いローブを纏った女だ。
 ただし、それは真優でも晶でもなかった。フードの下の顔は知らない顔だった。
 蝋のように白い肌。細い目。唇も薄く、鼻だけが不恰好に大きい。縦長の瓜実顔に、黒く真っ直ぐな髪が頬に数本濡れたように貼りついていた。紗希とは正反対に地味で貧相な顔つきだ。
 女がローブの裾を割り、紗希のベッドの上に乗りあがる。ローブの中には白いワンピースを着た痩せた身体があった。ベッドのスプリングを踏む足はストラップ付きの赤い靴を履いている。そのロマンチックとも言える服の趣味は、女のお世辞にも美人とは言えない顔とあまりに不似合いで、不気味な印象しか与えなかった。
「どうしたの? 電気くらい点けたら?」
 部屋が明るくなった。
 振り返るとドアを開けて半分身体を入れた母親が電灯のスイッチに触れていた。
 紗希はベッドの方を見た。
 女の姿は消えていた。
「…………」
「大丈夫? 着替えるの手伝おうか?」
 紗希はベッドを見つめたまま、首を横に振った。
「平気。一人でできるから……出て行って」
 母親は紗希の様子が気になるようだったが、紗希はドアを閉めて彼女を外へ追いやった。
 あれは幻覚だったのか。
 紗希は急に重だるさを感じ、思わずベッドの上に座った。
 大学合格が決まってからは睡眠はしっかり取れているはずだ。薬の影響なのだろうか。しかし精神安定剤も最近は飲まず、足の痛み止めをたまに飲む程度だ。
 あんなにはっきり見えたのは何だったのだろう。
 紗希はゾッとして両腕をかき抱いた。
 制服の下の腕が粟立っている。

「えっ?」
 部屋の中が薄暗くなっていた。さっき電気を点けたはずなのに。
 窓の外を見ると、すっかり暗くなっている。
 紗希はベッドに座ったままだったが、いつのまにか制服から私服に着替えていた。
「‼︎」
 手に持っていた物に気づくと紗希は慄いた。
 鎌だ。
 見覚えがあった。母親が庭の雑草を刈るのに使っている。
 なぜこんなものを手に。
「私……」
 紗希はそっと鎌から手を離すとベッドのヘッドレストに置いてある目覚まし時計を見た。
 午後九時を過ぎていた。
「私……一体どうしちゃったの?」
 記憶がなかった。さきほど帰ったばかりで、あれはまだ昼食も取っていなかったはずだ。
 なのに紗希の腹は膨れていた。何を食べたか全く記憶にないが、満腹だった。
 紗希は頭を抱えた。
 本当に変だ。疲れているにしても、こんなことは初めてだ。
 わけがわからず震えていたが、ふいに頭に昼間の恵美里と勇斗の姿がよみがえった。
 彼らを見かけて忘れかけた怒りが湧きあがる。
「恵美里の家は何度も遊びに行ったことがある。高校から電車で十分。私の家とは逆の方向。ショッピングセンターがある大きな駅。でも線路をはさんで反対側は嘘みたいに静かな町だ。国道沿いに十分くらい歩くと、中古マンションがある。そのマンションの302号室に父親と二人で住んでいる……」
 早口で一気につぶやいていた。
 なぜ今、恵美里の家のことを思い出したのだろう。
 その手はふたたび鎌を握っていた。
「淫乱女め!」
 呪詛のごとく吐き捨てた紗希の瞳孔は色を失い、黒く沈んでいた。焦点はどこにも合っていない。
「次から次へ男を乗り換える、淫乱女め!」
 口の端をあげて紗希は酷薄な笑みを浮かべた。
「待っててね……今から罰しに行くから」
 声もなく笑う彼女の丸めた背に赤いローブの女が覆い被さろうとしていた。

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