生き逃げ

Iris

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臨時収集令状。
誰の血で染められたのか、通称赤紙と呼ばれる用紙が、昼頃我が家に届いた。
到着日時は三日後。あまりにも惨すぎる現実に心が追い付かない。
「死ヲ覚悟セヨ」と宣告されるに等しいそれは、ついこの間幼馴染と籍を入れた俺を絶望の淵へ突き落すには十分だった。

襖の向こう側からすすり泣く声が聞こえる。
不幸なことにも、俺宛の呼び出し状を受け取ったのは、俺ではなく家内だった。
取っ手に手をかけては、何と声を掛けたら良いかも分からず、結局のところ何も踏み出せずにいる。
「元気を出せよ」、「必ず帰ってくるから」、浮かんでは消える言葉の数々が、どれも彼女を傷つける気がして他ならない。
戦争が終わる前に、離れ離れになる日が来るならば、と添い遂げる覚悟をしたものの、いざ哀別が迫った時の己の覚悟の無さが、全てを風化させてしまいそうだった。

もうどうせ永くは無いのだから、俺のことなど忘れてしまえ。
諦観と独りよがりが入り混じった胸中のまま、二人の寝室を後にした。
思えば、最愛の嫁と過ごす最期の機会だったかもしれないのに。

雨のそぼ降る次の日の正午、俺は家を出た。

何と顔を合わせたら良いかも分からず、昨晩自宅に戻ったのは深夜を回ってからであった。
今思えば、嫁の手料理に舌鼓を打つ選択肢をとっても良かったのかもしれない。
しんとした空気の中、襖を開けると、変わらず敷布団が寄り添って二つ並べられていた。
静寂の中、頬に涙が伝った。

せめて、彼女を起こさないようにと掛布団を捲り、寝心地の良い位置を定めた頃、
「月は綺麗でしたか?」
か細くも凛とした、よく聞き慣れた声がそっと空気を伝う。

今日は酷く言葉が詰まる。
涙が声を震わせないようにと気を付けながら、「ああ、とても」と答えると、相手の布団が擦れる音と、畳を擦る音が聞こえた。
彼女の伸ばされた掌だった。

これ以上俺で傷つかないように、何も彼女を悲しめないように、温かくも冷たく震えた指先を意識が遠のくまで握りしめたのが、最愛の女性との最後の記憶だ。

朝目覚めた時、家内は隣には居なかった。
空っぽになった掌が彼女の留守を知らせてくれなかったのは、家事をする際には決まって身に着けていた手拭いが、俺の右腕を覆っていたからだ。
用意された朝飯を平らげると、俺は支度をして、もう二度と帰ることは無いであろう、短くも確かに生きた軌跡を遺した家屋と別れを告げた。


あれから数カ月、神が双六で遊ぶ駒の如く、どうしてだか命からがら生き延びた俺が居る。
時間ができる度、決まりごとのように書き連ねた、次の逢瀬を心待ちにした嫁宛の手紙は未だ懐に眠ったままだ。
手紙を出す日を、願わくば、直接渡す日を待ち望んだ俺も、遂に運の尽きを感じずにはいられない。

零式艦上戦闘機。
いよいよ国は、どうしても俺に死んで欲しいらしい。
最初のうちこそ、「ゼロショック」と各国から恐れられた日本随一の戦闘機も、人の儚さを表現でもしたかったのか、防御力の低さが致命的で、とても一人の人生を乗せるには、常人ならば異常さを訴えるより他ならなかっただろう。

明日、俺はもうこの世には居ない。
共に歩んだ道のりの中、隣を歩いた男はどれほど君を愛していたか、その事実が彼女の支えになればと思い、まだ望みがある友へ埃に煤けた紙束を託した。

雷が伴う酷い雨の日だった。
晴天であれば、迷わず逝けるのに。
定めを目の当たりにしたくないのか、涕泣を装いたいのか、もし神が天上に居るならば、一人の命など瞳には映っていないのだろう。
一体どういう了見で人を作ったのだ。
何も信仰はしていないけれど、残りの時間を悟った己の心に浮かぶのは、そんなことだった。

雷鳴が轟く中、苦しくて息ができないような速度で機体が風を切る。
最大速度565km/hに当然耐えられない零戦からは、ずっと嫌な音がしている。
それとも、もう耳がおかしくなってしまったのかもしれない。
心臓の爆音と、ひゅーひゅー鳴る呼吸が思考まで支配する。

離脱したい。何故俺は死ななければならないのか。
この国に生まれた時点で、俺は今日死ぬ定めだったのか。
戦争がない国であれば。
この時代に生まれなければ…
愛する人と穏やかな一生を過ごす権利が当然この手にあったかもしれないのに。

ハンドルを握る手が白く震えている。
突っ込んでもこのまま死ぬ。けれど敵前逃亡をしても、後々待っているのは即決銃殺刑だ。
実際に赴任して間もない頃、目の前で射殺される同僚を見た。
フラッシュバックが俺を支配する。
もうダメだ、逃げられない。

その時、ピカッと辺りが光に包まれて、まるで爆撃を食らったかのような霹靂が俺を包み込んだ。
なんと俺の終幕は、戦死でも処罰の末迎えるわけでもなく天が決めるのか。
あっけない結末だ、と不思議と浮かぶ笑みを残して、俺は意識を手放した。
物事を良いか悪いか判断する権利は、とうの昔に放棄させられているのだから必然だ。





生きている。

全く理解できないことに、俺には息がある。
「あっ」と実感する瞬間には、もうこの世には居ないことを悟ったのに。

じわじわと瞼を開いて数度瞬きをする。
ここはどこだ。
至極当然の疑問が頭に浮かぶ。

真っ暗な空間には覚えがない。
身体を包む羽毛のような、けれど未知の触感のそれはとても暖かく、掛布団としての役割を果たしている。
気配からして辺りには誰も居ないようだ。

思考もはっきりしていた。俺は俺だ。
大日本帝国生まれの26歳。月見里清(やまなしきよし)。

神経が戻ってきた身体を徐々に動かしてみる。
両手を握りしめたり、開いたりを繰り返しても、両足を左右に揺すっても特に異常は感じられない。
次に、頭を横に動かしたとき、首筋にツキンとした痛みが走る。
むち打ちのような状態かもしれない。
思えば雷光を浴びた時、座席に叩きつけられるような感覚があった。

けれど、他の箇所にはとりわけ痛みはなく、どうやら五体満足で助かったらしかった。
状況からすると、助けられた、と表現した方が良いかもしれない。
点と点を繋げるためには、俺以外の誰か、他の人物の登場が不可避と言える。

慣れてきた視界から、どうやらここは家屋のようだと判った。
誰かの生活感がする。
意を決して、そろりそろりと起き上がると、ああやはり寝かせてもらっていたのだ、と理解した。

その時、不意に光が差し込んだ。
思わず腕で眼前を遮断する。
「目を覚ましたのですね」
言語が通じる相手だと安心し、俺と相手を隔てていたものを下すと、思わず息をのんだ。

「ここは、ハーバーパール。貴方はどこからやってきたのですか?」
翼の生えた、けれど人間に等しい人影が、俺にそう尋ねた。―
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