離れて後悔するのは、あなたの方

翠月るるな

文字の大きさ
2 / 13

しおりを挟む
 
 弁護士事務所から帰る道中で、凛子は今までの生活を思い返していた。あまりに愚かな日々を。

 始めの頃は本当に省吾を大切にしていた。結婚前は公私ともに、結婚後は決して迷惑にならないように、と育児も家事も必死でおこなっていた。

 亮が夜泣きを繰り返していた時期は、睡眠も食事も上手くとれず、体調不良が続いてしまう時もあった。省吾は夜泣きで眠れないと外に出ていたが、それも仕方ないことと納得していた凛子。まさかそれも秋名の家に入り浸っていたなど予想できただろうか。

 仕事が落ち着いたタイミングには、家族旅行も提案した。しかし、戻ってくる言葉は決まって『そんな暇はない』だ。自分が休めば会社が回らない、と口癖のように言っていた。

 そんなことが続いて、いつしか凛子も言わなくなる。最近になって省吾の不貞の証拠を入手し、気になって独自に彼の休みを調べたことがあった。有休を取得した日は全て、凛子に出張だと言っていた。

 どれもこれも秋名と不倫旅行に使用していたらしい。今となっては証拠の一つにしかならない。

「……」

 知らずに凛子は早足になる。周囲は気づけば商店街の景色になっていた。行き交う人々は賑やかに談笑している。通りがかる店先の店員は客へ声をかけていた。そんな日常を夕陽の茜色が照らしていく。

 ふと、凛子が花屋の前で足を止めた。

 花束をもらったのはプロポーズの時の一度だけだった。けれど、先程の事務所で並べられていた写真には花束をもらって喜ぶ秋名の姿が、何枚もあった。花の種類が違う以上、場面が違うと理解してしまう。そんなことで、省吾が花を贈るのが好きなのだと知った。

 凛子はフっと視線を逸らす。再び帰路に戻る中、空は徐々に闇色へと近づいていった。


*   *   *


 夜、省吾は家に帰るなり凛子に言い放つ。

「今夜は会社に泊まる。準備は出来てるか? プレゼン資料も渡してくれ」

 リビングに入るなり、息吐く間もない指示に凛子は溜め息を吐く。椅子から立ち上がり、言われた通り、テーブルに置いておいた書類の入った封筒を手に取りながら呟いた。

「今夜も、でしょ」
「なんだ不満か」
「いいえ。着替えはそっちのカバン、他の資料はメールで送っておいたわ」

 凛子はもともと部下だったために、家庭に入ってもよく仕事を手伝っていた。子どもが生まれてからは減ったものの、それでも半年もしないうちにまた指示を出し始める。凛子も不貞を知らない間は、それが普通だと考えていた。

 会社員時代と違うのは、資料作成に加えて、省吾が出張などになればその荷物も用意すること。周囲は良くやっていると口々に言っていた。にもかかわらず、省吾だけが凛子の行動に感謝すらせず、それどころか「可愛げがないな」と言う。

「秋名を見習え。アイツはいつもニコニコして周りの人間から好かれているじゃないか。後継の話がなきゃ、アイツと結婚してもよかったんだ」
「……」

 結婚してから、何度も繰り返し比較されてきたこと。始めの頃は凛子も省吾に好かれようと秋名のように笑顔を見せ、甲斐甲斐しく世話もしたが返される言葉はいつも同じ「秋名の方が出来ている」だった。

 ことあるごとに、秋名の方が、と言われ続け、もう心が反応すらしない。色のない瞳で、そばの棚の上に飾ってある集合写真を見る。

 去年撮られた記念写真。そこには、まだ会社員だった凛子と省吾、そして省吾の肩に手をまわす東郷広司がいた。

 秋名は彼の妹だった。省吾の友人として長く付き合いのあった東郷広司の妹。幼いときからさほど変わらない栗色のボブを揺らして、どんな人にもにこやかに接し、成人しても兄の広司が自慢するほど出来た女性だという。

 だが凛子は知っていた。それが表の顔だということを。

 実際、結婚式のときは酷かったのだから。

 突然の訪問者が現れたのは、披露宴の途中でお色直しがちょうど終わった頃だった。控え室の扉がノックもなしにいきなり開かれ、複数人の女性が入ってくる。その中心にいた秋名が言った。

『ねえ、省吾さんと結婚出来たからって調子に乗らないでね?』

 通常であれば、部外者など容易に入れるわけがない。だがお色直しが終わり、担当者が不在にしていたタイミングで、しかも女性ならと見逃されたのだろう。

 むしろ名乗っていたならば余計に、岡本家と近かった東郷家の人間が挨拶に来たとでも言えば、快く通してしまうのかもしれない。

 驚いて言葉を失う凛子に、彼女らは口々に騒ぎ立てた。

『そうよ。本当はこの秋名さんが結婚する予定だったんだから』
『ほんとほんと、たまたま相性が良かったから選ばれたなんて信じられないわ』
『この結婚はあくまで仕事、忘れないでよ! 省吾さんは必ず私のところに来るんだからね』

 最後に秋名が捨て台詞を吐いて、さっさと出ていく。

 残された凛子は呆然としつつ、けれど徐々に悔しさを滲ませるかのように拳を握った。

「『そんなことわかってる……』」

 あの時、呟いた言葉と同じ言葉を、今度は省吾の前で吐き出す。彼は、一瞬驚いた顔をしたもののすぐに、フンッと鼻を鳴らした。

「わかってるならいい。自分の立場をよくよく理解しておけ」

 そう言い残して、省吾は部屋を出ていった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】泉に落ちた婚約者が雑草役令嬢になりたいと言い出した件

雨宮羽那
恋愛
 王太子ルーカスの婚約者・エリシェラは、容姿端麗・才色兼備で非の打ち所のない、女神のような公爵令嬢。……のはずだった。デート中に、エリシェラが泉に落ちてしまうまでは。 「殿下ってあのルーカス様……っ!? 推し……人生の推しが目の前にいる!」と奇妙な叫びを上げて気絶したかと思えば、後日には「婚約を破棄してくださいませ」と告げてくる始末。  突然別人のようになったエリシェラに振り回されるルーカスだが、エリシェラの変化はルーカスの気持ちも変えはじめて――。    転生に気づいちゃった暴走令嬢に振り回される王太子のラブコメディ! ※全6話 ※一応完結にはしてますが、もしかしたらエリシェラ視点バージョンを書くかも。

婚約破棄までにしたい10のこと

みねバイヤーン
恋愛
デイジーは聞いてしまった。婚約者のルークがピンク髪の女の子に言い聞かせている。 「フィービー、もう少しだけ待ってくれ。次の夜会でデイジーに婚約破棄を伝えるから。そうすれば、次はフィービーが正式な婚約者だ。私の真実の愛は君だけだ」 「ルーク、分かった。アタシ、ルークを信じて待ってる」 屋敷に戻ったデイジーは紙に綴った。 『婚約破棄までにしたい10のこと』

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

婚約破棄と言われても、どうせ好き合っていないからどうでもいいですね

うさこ
恋愛
男爵令嬢の私には婚約者がいた。 伯爵子息の彼は帝都一の美麗と言われていた。そんな彼と私は平穏な学園生活を送るために、「契約婚約」を結んだ。 お互い好きにならない。三年間の契約。 それなのに、彼は私の前からいなくなった。婚約破棄を言い渡されて……。 でも私たちは好きあっていない。だから、別にどうでもいいはずなのに……。

【完結】見えてますよ!

ユユ
恋愛
“何故” 私の婚約者が彼だと分かると、第一声はソレだった。 美少女でもなければ醜くもなく。 優秀でもなければ出来損ないでもなく。 高貴でも無ければ下位貴族でもない。 富豪でなければ貧乏でもない。 中の中。 自己主張も存在感もない私は貴族達の中では透明人間のようだった。 唯一認識されるのは婚約者と社交に出る時。 そしてあの言葉が聞こえてくる。 見目麗しく優秀な彼の横に並ぶ私を蔑む令嬢達。 私はずっと願っていた。彼に婚約を解消して欲しいと。 ある日いき過ぎた嫌がらせがきっかけで、見えるようになる。 ★注意★ ・閑話にはR18要素を含みます。  読まなくても大丈夫です。 ・作り話です。 ・合わない方はご退出願います。 ・完結しています。

異母姉の身代わりにされて大国の公妾へと堕とされた姫は王太子を愛してしまったので逃げます。えっ?番?番ってなんですか?執着番は逃さない

降魔 鬼灯
恋愛
やかな異母姉ジュリアンナが大国エスメラルダ留学から帰って来た。どうも留学中にやらかしたらしく、罪人として修道女になるか、隠居したエスメラルダの先代王の公妾として生きるかを迫られていた。 しかし、ジュリアンナに弱い父王と側妃は、亡くなった正妃の娘アリアを替え玉として差し出すことにした。 粗末な馬車に乗って罪人としてエスメラルダに向かうアリアは道中ジュリアンナに恨みを持つものに襲われそうになる。 危機一髪、助けに来た王太子に番として攫われ溺愛されるのだか、番の単語の意味をわからないアリアは公妾として抱かれていると誤解していて……。 すれ違う2人の想いは?

望まない相手と一緒にいたくありませんので

毬禾
恋愛
どのような理由を付けられようとも私の心は変わらない。 一緒にいようが私の気持ちを変えることはできない。 私が一緒にいたいのはあなたではないのだから。

そろそろ諦めてください、お父様

鳴哉
恋愛
溺愛が過ぎて、なかなか婚約者ができない令嬢の話 短いので、サクッと読んでもらえると思います。 読みやすいように、7話に分けました。 毎日1回、予約投稿します。 2025.09.21 追記 自分の中で溺愛の定義に不安が生じましたので、タグの溺愛に?つけました。

処理中です...