不運な花嫁は強運な砂漠の王に愛される

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四十、草原からの使者【Ⅰ】 《過去篇》

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 草原の風が吹く。
 目の前に広がる緑を、波紋はもんのように風が彼方へといで行く。

 そよぐ大地の風を感じながら、少年は瞑想めいそうしていた。
 少年は十五の頃になる。

 人ひとりがちょうど座れるような岩は、いつも少年の特等席だった。
 途方も無い年月を掛けて、自然が少しずつ削りあげた平らな岩に、静かに胡坐をく。

 その姿はほとんど眠っていると言っても良い。
 それどころか、村の子供たちは、少年はいつもうたた寝をしているのだと思っていた。

「ユースフ!!」
 呼ばれた少年は半睡の中、ゆっくりとまぶたを押し上げる。

「明日だろ!?  行っちまうの!」
 村は賑わい、ささやかながら祭りがもよおされていた。
 その主役たる少年が、このユースフだった。

 しかし、ユースフは如何いかにも我関われかんせずといった様子で普段通りに過ごしていた。

 ――明日。
 ユースフはその言葉を唇だけでなぞる。

「……そうだったかな」
「そうだよ!  村を代表して、特使として大国に渡るんだから、しっかりしろよな!」
 同年代の子供がはやし立てる。

 ユースフは昔から、日付や時間というものにほとんど興味や関心を示さなかった。
 万物と自然を享受きょうじゅし生きるユースフにとって、細かい日にちや時間帯は、生きるためにまるで意味をさないもののように思われた。

 人間は自然の中で生きる。
 神に与えられ、神に奪われる。
 羊と生き、風と共に暮らす。
 星を見て、方角を知る。
 それだけで良い。
 それだけしか、要らない。

 そのように、どこか喜怒哀楽にも乏しい、ぼんやりとしたところのある自分が、ムガール帝国でも五百の部族がある中で、一番の剣士であるというのは何かの間違いであろうと思う。
 
 ユースフは、自身が他より抜きん出ているのは、余計なことを考えずにただ手足のみを動かす性格ゆえだと考えていた。

 恐れや焦り。
 普通ならば持ち合わせている、そうした感情が自分に欠落しているらしいと気付いたのは最近のことだった。

 ムガール帝国の誇る、遊牧民族である騎馬と剣、それらは習わずともユースフの血の中に脈々と根付いている。
 何が正解で、何が間違いか、ユースフはあらかじめ誰かに教えこまれたかのように、既に知っていた。
 わかっていた、という方が正しい。

「おーい、ユースフ。村長のところに来いってさ」
 先ほどからユースフに話しかけていた子どもは、思い出したように告げた。

 *  *  *

 村長のゲルの中はいつも通り温かく、牧歌的な雰囲気を漂わせていた。
 村長は、小鍋で煮立たせた、ヤギのミルクをユースフに振る舞ってくれた。
 祭りは終わり、明朝、ユースフは国をつ。

「ユースフ。いよいよじゃが準備は良いかの」
 ユースフはぼんやりと答える。

「……はい、多分」
「カーッ、お前というのは最後まで本当に覇気はきのない!  ワシの教えた隣国の言葉は覚えておるんじゃろうな!  話してみよ!」
 ユースフは村でも最年長の村長に、大国の言葉を教わった。村の中で隣国の言葉に堪能たんのうであるのは、村長だけだったのだ。

 村長のスパルタの外国語講座だけは、逃げるわけにはいかなかった。
 ユースフにとって村長から逃げるぐらいわけのないことだったが、逃げたとて、異国の言葉がわからず、あとで困るのは自分だ。

 だもので、村長と二人、たまに村の子どもと共に、ユースフは慣れぬ外国語を懸命に学んだ。
 成果は上々、のはずだ。
 そうでなくては困る。

 ユースフは一つ息を吐くと、口上を呪文のように唱え始めた。

「ワシはユースフと申す者じゃ。未来永劫みらいえいごう、ムガール帝国と貴国が繁栄するよう、特使としてやって参った。何卒よろしく頼む」
「……うむ、口上は忘れていないようじゃの」

 コホン、と村長は気を取り直すように咳を一つすると、真摯しんしな瞳でユースフを見据えた。

「お主を、特使に立てたこと、どうか誤解してくれるなよ。ユースフ。隣国は、本気になればワシらなど取るに足りぬ大国じゃ。いくら部族が五百あり、剣や騎馬戦に優れた兵士ばかりと言っても、時代は既に移り変わりつつある。近い将来、己が肉体での戦など、何の意味もなくなるじゃろう。

だが、我らは敵に回せば厄介な存在であることも確か。隣国は和議わぎをはかっておきたいのじゃ。

向こうにも、十五の王子が居るという。同じ年頃の男子を使者に、とわれた。お主を選んだのは、親兄弟がいないからではない。そんな理由で大任を与えたりはせん」

 村長は、立派な白髭しらひげたくわえた、知恵者であった。
 村一番の長老は、ユースフの淡いはしばみ色の髪を撫でた。

「部族の中には、お前のことを生贄いけにえだとか、犠牲ぎせいだとか言う者がおる。しかし、剣にも騎馬にも、この国で右に出るものはないほど優れたお主なら、きっと隣国でも通用するじゃろう。万一何かあったとて、いつもの冷静な判断力と、その武力で持って、危険の及ばぬ場所にまで、逃げおおせることが出来るはずじゃ。

お主のたぐいまれなる、強靭きょうじんな生命力に、この国の命運を預けた。お主がもし隣国で酷い目にわされそうになれば、我らすべての部族は立ち上がり、ことを構える算段は付いている」

 さしものユースフも、目をみはった。
 そんなことは、一言も聞かされていなかった。

 特使だ特使だと言われ、何やら異国で暮らさねばならぬということで、その準備だけに追われて来たのだ。

「この国の、運命を俺に……?」

 にわかには信じられない。
 昨日まで根無し草のように生きて来た自分に、そんな重荷を背負わせようとするなどとは。
 どんな大博打打おおばくちうちでも尻込みしそうなものだ。
 そういう意味では、村長は、この国の部族の長たちは、とんでもない酔狂すいきょう者だ。

 しかし、目の前の村長は、伊達だてでも酔狂でもなく、大真面目な顔つきで、ユースフを見つめた。
「ユースフ。ムガール帝国を、頼む」


 国の運命を、託される。
 それはあまりにも、重い。

 足の甲にずしりとなまりを押し付けられたかのようだ。
 ユースフはその場にい付けられたように、一歩も動くことが出来なかった。

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