2 / 41
第1話 診察室の距離
「朝倉透さん、どうぞ」
呼ばれた名前に、透は顔を上げた。待合室の椅子から立ち上がり、白衣の看護師について診察室へ向かう。廊下の蛍光灯が妙に明るく感じられて、無意識に目を細めた。
「どうぞ、こちらへ」
案内された診察室は、思っていたより狭かった。いや、狭いわけではない。ただ、医師との距離が近い。透はそれだけで少し緊張した。
「初診ですね。では、問診票を確認させていただきます」
声は落ち着いていて、低い。透は椅子に座りながら、カルテに目を落とす医師の横顔をちらりと見た。30代前半だろうか。細いフレームの眼鏡、整った顔立ち。でも表情が、ひどく静か
だ。
「最近、視界に歪みを感じるとのことですが」
「はい、画面を長時間見ていると、文字がぼやけるというか……輪郭が滲んで見えることがあって」
透は、できるだけはっきりと答えようとした。医師はうなずき、ペンを置いてこちらを向いた。
「では、診察を始めます。こちらを見てください」
神谷恒一と名札に書かれた医師は、ペンライトを手に取り、透の顔に近づいた。
光が瞳に当たる。
透は反射的に、視線を逸らしかけた。でも、ここは診察室だ。目を見られるのが仕事だ。そう自分に言い聞かせて、なんとか視線を保った。
「右目、左目……はい、ありがとうございます」
神谷の声は変わらず淡々としていた。でも、透はその瞬間、奇妙なことに気づいた。
この医師は、自分の"目"ではなく、"瞳"を見ている。
表面的な視線の先ではなく、その奥を覗き込んでいるような──そんな感覚。
透の背中に、冷たい汗が滲んだ。
「次に、細隙灯で詳しく診ますね。顎をここに
乗せて、額をここに当ててください」
言われるままに顔を固定する。目の前に、拡大レンズと光源を備えた機械が迫ってくる。
「では、こちらを見てください」
神谷の顔が、レンズ越しにすぐそこにあった。
透は、息を止めた。
この距離で、誰かの瞳をまともに見たのは、いつ以来だろう。
神谷の瞳は、グレーがかった茶色だった。感情の読めない、静かな色。でも、冷たいわけではない。ただ、何も映していないような──そんな透明さがあった。
「少し眩しいですが、我慢してください」
光が当たる。透は反射的にまばたきをしそうになったが、ぐっとこらえた。
神谷の視線が、透の瞳の表面を、その奥を、
じっと観察している。
(見ないで)
透の心の中で、誰かが叫んだ。
(そんなに見ないで)
でも、神谷は見ることをやめなかった。それが仕事だから。ただそれだけの理由で、この人は透の瞳を覗き込み続けている。
「……はい、終わりました」
神谷がレンズから離れ、透も顔を上げた。
一瞬だけ、ふたりの視線が正面から交わった。
透は慌てて目を伏せた。神谷は何も言わず、カルテに視線を戻した。
「眼底には異常ありません。ただ、かなり疲労が蓄積していますね。お仕事は、デスクワークですか?」
「はい。広告関係で……一日中、画面を見ていることが多いです」
「なるほど」神谷はうなずき、処方箋を書き始めた。
「眼精疲労です。目薬と、ビタミン剤を出しておきます。それと──」
神谷はペンを止め、顔を上げた。
「一時間に一回は、遠くを見るようにしてください。できれば、緑を」
「……緑、ですか」
「ええ。目の筋肉をリラックスさせるために」
そう言って、神谷は再びカルテに視線を戻した。
透は、その横顔を見ながら思った。
この人は、いつもこんなふうに人を診ているのだろうか。
感情を排して、ただ静かに、相手の瞳を覗き込む。
そして、何を見ているんだろう。
「二週間後、また診せてください。それまでに症状が悪化するようなら、早めに来院してください」
「はい、ありがとうございました」
透は立ち上がり、一礼した。神谷も軽く頷いた。
診察室を出るとき、透は振り返らなかった。
もし振り返ったら、また視線が交わってしまいそうで。
それが、怖かった。
待合室で処方箋を受け取り、透はクリニックを出た。
駅へ向かう道を歩きながら、透は無意識に、自分の目元を触っていた。
神谷の視線が、まだ残っているような気がした。
あの人は、何を見たんだろう。
ただの疲れた目?
それとも──
透は首を振り、その考えを追い出した。
深く考えることじゃない。ただの診察だ。二週間後、また行って、治ったら終わり。
それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせながら、透は人混みに紛れていった。
その夜、神谷恒一は自宅のソファに座り、コーヒーカップを手にしていた。
今日の患者の顔が、何人か頭をよぎる。いつものことだ。診察が終わっても、気になる症例は記憶に残る。
でも、今日は少し違った。
朝倉透──あの患者のことが、妙に引っかかっていた。
診断は簡単だった。典型的な眼精疲労。処置も、処方も、何の問題もない。
でも。
(あの人は、目を合わせるのが怖いんだ)
神谷は、診察中にそれを感じた。
視線を合わせているようで、ほんの少しだけずらす。瞳に映ることを、拒んでいるような動き。
それは、神谷自身がよく知っている仕草だった。
カップを口元に運び、神谷は小さく息をついた。
(なんで、あんなことに気づいてしまったんだろう)
もう、関係ない。
二週間後、また診れば、それで終わりだ。
そう思いながらも、神谷の中で、ひとつの問いが消えなかった。
──あの人の瞳は、誰を映したがっているんだろう。
そして、誰に見られたがっているんだろう。
窓の外に、街の灯りが瞬いていた。
神谷は、その光をぼんやりと見つめながら、
コーヒーを飲み干した。
視線が交わらなかった、ふたりの夜。
物語は、静かに動き始めていた。
呼ばれた名前に、透は顔を上げた。待合室の椅子から立ち上がり、白衣の看護師について診察室へ向かう。廊下の蛍光灯が妙に明るく感じられて、無意識に目を細めた。
「どうぞ、こちらへ」
案内された診察室は、思っていたより狭かった。いや、狭いわけではない。ただ、医師との距離が近い。透はそれだけで少し緊張した。
「初診ですね。では、問診票を確認させていただきます」
声は落ち着いていて、低い。透は椅子に座りながら、カルテに目を落とす医師の横顔をちらりと見た。30代前半だろうか。細いフレームの眼鏡、整った顔立ち。でも表情が、ひどく静か
だ。
「最近、視界に歪みを感じるとのことですが」
「はい、画面を長時間見ていると、文字がぼやけるというか……輪郭が滲んで見えることがあって」
透は、できるだけはっきりと答えようとした。医師はうなずき、ペンを置いてこちらを向いた。
「では、診察を始めます。こちらを見てください」
神谷恒一と名札に書かれた医師は、ペンライトを手に取り、透の顔に近づいた。
光が瞳に当たる。
透は反射的に、視線を逸らしかけた。でも、ここは診察室だ。目を見られるのが仕事だ。そう自分に言い聞かせて、なんとか視線を保った。
「右目、左目……はい、ありがとうございます」
神谷の声は変わらず淡々としていた。でも、透はその瞬間、奇妙なことに気づいた。
この医師は、自分の"目"ではなく、"瞳"を見ている。
表面的な視線の先ではなく、その奥を覗き込んでいるような──そんな感覚。
透の背中に、冷たい汗が滲んだ。
「次に、細隙灯で詳しく診ますね。顎をここに
乗せて、額をここに当ててください」
言われるままに顔を固定する。目の前に、拡大レンズと光源を備えた機械が迫ってくる。
「では、こちらを見てください」
神谷の顔が、レンズ越しにすぐそこにあった。
透は、息を止めた。
この距離で、誰かの瞳をまともに見たのは、いつ以来だろう。
神谷の瞳は、グレーがかった茶色だった。感情の読めない、静かな色。でも、冷たいわけではない。ただ、何も映していないような──そんな透明さがあった。
「少し眩しいですが、我慢してください」
光が当たる。透は反射的にまばたきをしそうになったが、ぐっとこらえた。
神谷の視線が、透の瞳の表面を、その奥を、
じっと観察している。
(見ないで)
透の心の中で、誰かが叫んだ。
(そんなに見ないで)
でも、神谷は見ることをやめなかった。それが仕事だから。ただそれだけの理由で、この人は透の瞳を覗き込み続けている。
「……はい、終わりました」
神谷がレンズから離れ、透も顔を上げた。
一瞬だけ、ふたりの視線が正面から交わった。
透は慌てて目を伏せた。神谷は何も言わず、カルテに視線を戻した。
「眼底には異常ありません。ただ、かなり疲労が蓄積していますね。お仕事は、デスクワークですか?」
「はい。広告関係で……一日中、画面を見ていることが多いです」
「なるほど」神谷はうなずき、処方箋を書き始めた。
「眼精疲労です。目薬と、ビタミン剤を出しておきます。それと──」
神谷はペンを止め、顔を上げた。
「一時間に一回は、遠くを見るようにしてください。できれば、緑を」
「……緑、ですか」
「ええ。目の筋肉をリラックスさせるために」
そう言って、神谷は再びカルテに視線を戻した。
透は、その横顔を見ながら思った。
この人は、いつもこんなふうに人を診ているのだろうか。
感情を排して、ただ静かに、相手の瞳を覗き込む。
そして、何を見ているんだろう。
「二週間後、また診せてください。それまでに症状が悪化するようなら、早めに来院してください」
「はい、ありがとうございました」
透は立ち上がり、一礼した。神谷も軽く頷いた。
診察室を出るとき、透は振り返らなかった。
もし振り返ったら、また視線が交わってしまいそうで。
それが、怖かった。
待合室で処方箋を受け取り、透はクリニックを出た。
駅へ向かう道を歩きながら、透は無意識に、自分の目元を触っていた。
神谷の視線が、まだ残っているような気がした。
あの人は、何を見たんだろう。
ただの疲れた目?
それとも──
透は首を振り、その考えを追い出した。
深く考えることじゃない。ただの診察だ。二週間後、また行って、治ったら終わり。
それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせながら、透は人混みに紛れていった。
その夜、神谷恒一は自宅のソファに座り、コーヒーカップを手にしていた。
今日の患者の顔が、何人か頭をよぎる。いつものことだ。診察が終わっても、気になる症例は記憶に残る。
でも、今日は少し違った。
朝倉透──あの患者のことが、妙に引っかかっていた。
診断は簡単だった。典型的な眼精疲労。処置も、処方も、何の問題もない。
でも。
(あの人は、目を合わせるのが怖いんだ)
神谷は、診察中にそれを感じた。
視線を合わせているようで、ほんの少しだけずらす。瞳に映ることを、拒んでいるような動き。
それは、神谷自身がよく知っている仕草だった。
カップを口元に運び、神谷は小さく息をついた。
(なんで、あんなことに気づいてしまったんだろう)
もう、関係ない。
二週間後、また診れば、それで終わりだ。
そう思いながらも、神谷の中で、ひとつの問いが消えなかった。
──あの人の瞳は、誰を映したがっているんだろう。
そして、誰に見られたがっているんだろう。
窓の外に、街の灯りが瞬いていた。
神谷は、その光をぼんやりと見つめながら、
コーヒーを飲み干した。
視線が交わらなかった、ふたりの夜。
物語は、静かに動き始めていた。
あなたにおすすめの小説
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
キミと2回目の恋をしよう
なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。
彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。
彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。
「どこかに旅行だったの?」
傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。
彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。
彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが…
彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?
【運命】に捨てられ捨てたΩ
あまやどり
BL
「拓海さん、ごめんなさい」
秀也は白磁の肌を青く染め、瞼に陰影をつけている。
「お前が決めたことだろう、こっちはそれに従うさ」
秀也の安堵する声を聞きたくなく、逃げるように拓海は音を立ててカップを置いた。
【運命】に翻弄された両親を持ち、【運命】なんて言葉を信じなくなった医大生の拓海。大学で入学式が行われた日、「一目惚れしました」と眉目秀麗、頭脳明晰なインテリ眼鏡風な新入生、秀也に突然告白された。
なんと、彼は有名な大病院の院長の一人息子でαだった。
右往左往ありながらも番を前提に恋人となった二人。卒業後、二人の前に、秀也の幼馴染で元婚約者であるαの女が突然現れて……。
前から拓海を狙っていた先輩は傷ついた拓海を慰め、ここぞとばかりに自分と同居することを提案する。
※オメガバース独自解釈です。合わない人は危険です。
縦読みを推奨します。
冬は寒いから
ぬっこ
BL
誰かの一番になれなくても、そばにいたいと思ってしまう。
片想いのまま時間だけが過ぎていく冬。
そんな僕の前に現れたのは、誰よりも強引で、優しい人だった。
「二番目でもいいから、好きになって」
忘れたふりをしていた気持ちが、少しずつ溶けていく。
冬のラブストーリー。
『主な登場人物』
橋平司
九条冬馬
浜本浩二
※すみません、最初アップしていたものをもう一度加筆修正しアップしなおしました。大まかなストーリー、登場人物は変更ありません。
林檎を並べても、
ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。
二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。
ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。
彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。
【完結済】俺のモノだと言わない彼氏
竹柏凪紗
BL
「俺と付き合ってみねぇ?…まぁ、俺、彼氏いるけど」彼女に罵倒されフラれるのを寮部屋が隣のイケメン&遊び人・水島大和に目撃されてしまう。それだけでもショックなのに壁ドン状態で付き合ってみないかと迫られてしまった東山和馬。「ははは。いいねぇ。お前と付き合ったら、教室中の女子に刺されそう」と軽く受け流した。…つもりだったのに、翌日からグイグイと迫られるうえ束縛まではじまってしまい──?!
■青春BLに限定した「第1回青春×BL小説カップ」最終21位まで残ることができ感謝しかありません。応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。