君の瞳に恋してる

菊池まりな

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第1話 診察室の距離

「朝倉透さん、どうぞ」



呼ばれた名前に、透は顔を上げた。待合室の椅子から立ち上がり、白衣の看護師について診察室へ向かう。廊下の蛍光灯が妙に明るく感じられて、無意識に目を細めた。



「どうぞ、こちらへ」



案内された診察室は、思っていたより狭かった。いや、狭いわけではない。ただ、医師との距離が近い。透はそれだけで少し緊張した。



「初診ですね。では、問診票を確認させていただきます」



声は落ち着いていて、低い。透は椅子に座りながら、カルテに目を落とす医師の横顔をちらりと見た。30代前半だろうか。細いフレームの眼鏡、整った顔立ち。でも表情が、ひどく静か

だ。



「最近、視界に歪みを感じるとのことですが」



「はい、画面を長時間見ていると、文字がぼやけるというか……輪郭が滲んで見えることがあって」



透は、できるだけはっきりと答えようとした。医師はうなずき、ペンを置いてこちらを向いた。



「では、診察を始めます。こちらを見てください」



神谷恒一と名札に書かれた医師は、ペンライトを手に取り、透の顔に近づいた。

光が瞳に当たる。



透は反射的に、視線を逸らしかけた。でも、ここは診察室だ。目を見られるのが仕事だ。そう自分に言い聞かせて、なんとか視線を保った。



「右目、左目……はい、ありがとうございます」



神谷の声は変わらず淡々としていた。でも、透はその瞬間、奇妙なことに気づいた。



この医師は、自分の"目"ではなく、"瞳"を見ている。



表面的な視線の先ではなく、その奥を覗き込んでいるような──そんな感覚。



透の背中に、冷たい汗が滲んだ。



「次に、細隙灯で詳しく診ますね。顎をここに



乗せて、額をここに当ててください」



言われるままに顔を固定する。目の前に、拡大レンズと光源を備えた機械が迫ってくる。



「では、こちらを見てください」



神谷の顔が、レンズ越しにすぐそこにあった。



透は、息を止めた。



この距離で、誰かの瞳をまともに見たのは、いつ以来だろう。



神谷の瞳は、グレーがかった茶色だった。感情の読めない、静かな色。でも、冷たいわけではない。ただ、何も映していないような──そんな透明さがあった。



「少し眩しいですが、我慢してください」



光が当たる。透は反射的にまばたきをしそうになったが、ぐっとこらえた。



神谷の視線が、透の瞳の表面を、その奥を、



じっと観察している。



(見ないで)



透の心の中で、誰かが叫んだ。



(そんなに見ないで)



でも、神谷は見ることをやめなかった。それが仕事だから。ただそれだけの理由で、この人は透の瞳を覗き込み続けている。



「……はい、終わりました」



神谷がレンズから離れ、透も顔を上げた。



一瞬だけ、ふたりの視線が正面から交わった。



透は慌てて目を伏せた。神谷は何も言わず、カルテに視線を戻した。



「眼底には異常ありません。ただ、かなり疲労が蓄積していますね。お仕事は、デスクワークですか?」



「はい。広告関係で……一日中、画面を見ていることが多いです」



「なるほど」神谷はうなずき、処方箋を書き始めた。

「眼精疲労です。目薬と、ビタミン剤を出しておきます。それと──」



神谷はペンを止め、顔を上げた。



「一時間に一回は、遠くを見るようにしてください。できれば、緑を」



「……緑、ですか」



「ええ。目の筋肉をリラックスさせるために」



そう言って、神谷は再びカルテに視線を戻した。



透は、その横顔を見ながら思った。



この人は、いつもこんなふうに人を診ているのだろうか。



感情を排して、ただ静かに、相手の瞳を覗き込む。



そして、何を見ているんだろう。



「二週間後、また診せてください。それまでに症状が悪化するようなら、早めに来院してください」



「はい、ありがとうございました」



透は立ち上がり、一礼した。神谷も軽く頷いた。



診察室を出るとき、透は振り返らなかった。



もし振り返ったら、また視線が交わってしまいそうで。



それが、怖かった。



待合室で処方箋を受け取り、透はクリニックを出た。



駅へ向かう道を歩きながら、透は無意識に、自分の目元を触っていた。



神谷の視線が、まだ残っているような気がした。



あの人は、何を見たんだろう。



ただの疲れた目?



それとも──



透は首を振り、その考えを追い出した。



深く考えることじゃない。ただの診察だ。二週間後、また行って、治ったら終わり。



それだけのことだ。



そう自分に言い聞かせながら、透は人混みに紛れていった。



その夜、神谷恒一は自宅のソファに座り、コーヒーカップを手にしていた。



今日の患者の顔が、何人か頭をよぎる。いつものことだ。診察が終わっても、気になる症例は記憶に残る。



でも、今日は少し違った。



朝倉透──あの患者のことが、妙に引っかかっていた。



診断は簡単だった。典型的な眼精疲労。処置も、処方も、何の問題もない。



でも。



(あの人は、目を合わせるのが怖いんだ)



神谷は、診察中にそれを感じた。



視線を合わせているようで、ほんの少しだけずらす。瞳に映ることを、拒んでいるような動き。



それは、神谷自身がよく知っている仕草だった。



カップを口元に運び、神谷は小さく息をついた。



(なんで、あんなことに気づいてしまったんだろう)



もう、関係ない。



二週間後、また診れば、それで終わりだ。



そう思いながらも、神谷の中で、ひとつの問いが消えなかった。



──あの人の瞳は、誰を映したがっているんだろう。



そして、誰に見られたがっているんだろう。



窓の外に、街の灯りが瞬いていた。



神谷は、その光をぼんやりと見つめながら、



コーヒーを飲み干した。



視線が交わらなかった、ふたりの夜。



物語は、静かに動き始めていた。





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