群青色-まだ名前のない色-

菊池まりな

文字の大きさ
214 / 242

第214話 同じ事実を、違う速さで

千尋は、いつも先に座っている。



昼休みの文芸部室でも、放課後の図書室でも、私がドアを開けたときには、もう机に向かっていることが多かった。



今日は、窓際だった。



春から夏へ向かう途中の光が、机の上に長く伸びている。



千尋はノートを開いたまま、ペンを止めて、私の気配に気づいた。



「来た」



それだけ言って、また視線を紙に戻す。



私は椅子を引いて座り、しばらく黙ったまま、ノートの端を眺めた。



文字は見えない。見ないようにしていた。



「……陸、進路の話してた」



私がそう言うと、千尋は一瞬だけ顔を上げた。



驚いたというより、確認するような目だった。



「そうなんだ」



それ以上、言葉はなかった。



でも、沈黙の質が変わったのがわかった。



「サッカーじゃない。

 体を使うけど、別の形で」



私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。



泣きそうでも、強がってもいない。



ただ、事実を並べているだけ。



千尋は、ペンを机に置いた。



そして、少し考えてから、言った。



「戻れないって、はっきりしたんだね」



その言い方が、少しだけ早かった。



私は頷こうとして、やめた。



頷いたら、全部同じ意味になってしまう気がしたから。



「……戻れない、っていうか」



言葉を探して、息を吸う。



「戻らない、でもない。

 ただ、そこに道がないっていうだけ」



千尋は、ふう、と小さく息を吐いた。



「それ、もう文章だよ」



私は首を振った。



「違う。

 文章にしたら、少し綺麗になる。

 今日は、綺麗じゃない」



千尋は笑わなかった。



でも、否定もしなかった。



「ね、蒼」



少し間を置いてから、千尋は言った。



「それ、つらい?」



私は考えた。



すぐに答えは出なかった。



「……わからない。

 つらいって言うには、もう泣いてない」



「じゃあ、終わった?」



「終わったって言うには、まだ、近い」



千尋は、またペンを持ち上げた。



くるりと指の間で回してから、言う。



「私はさ」



「たぶん、そういう事実を、早めに言葉にしちゃう。

 そうしないと、置いていかれる気がするから」



私は、ようやく千尋の方を見た。



その横顔は、静かだった。



「蒼は、まだ、置いていかれてない」



それは、慰めではなかった。



判断でもなかった。



ただの、位置確認だった。



「……同じ事実でもさ」



私が言う。



「千尋は、もう少し先で見てる」



「うん」



「私は、今、足元」



「それでいいと思う」



即答だった。



迷いがなかった。



「速度が違うだけ」



千尋は言った。



「方向は、そんなに違ってない」



私は、その言葉を胸の中で転がした。



速度。



方向。



陸の話を聞いたとき、

私は、支えなかった。



励まさなかった。



それを、正しいと思っていた。



でも今、千尋の言葉を聞いて、少しだけ揺れた。



正しさじゃない。



“選び方”の問題だったのだと、遅れて気づく。



「ねえ」



私が言う。



「事実って、変わらないよね」



「うん」



「でも、受け取る速さは、違う」



千尋は、笑った。



今度は、ほんの少し。



「だから、話す意味がある」



私は、窓の外を見る。



校庭の端で、誰かがボールを蹴っている。



遠すぎて、音は聞こえない。



戻れない、という事実。



それは、誰かを止めるものじゃない。



ただ、位置を決めるだけだ。



私は、まだ足元にいる。



でも、千尋と話して、少しだけ視界が広がった。



それで十分だった。

感想 2

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲
ライト文芸
不倫妻に捨てられ、会社もクビ。 人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。 防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。 どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

N -Revolution

フロイライン
ライト文芸
プロレスラーを目指す桐生珀は、何度も入門試験をクリアできず、ひょんな事からニューハーフプロレスの団体への参加を持ちかけられるが…

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。