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25年目の真実
東條咲希は、古びた木造アパートの前で足を止めた。二十五年ぶりに訪れるこの場所は、記憶の中よりもずっと小さく、そして薄汚れていた。
彼女の手には、一通の手紙が握られている。差出人は二宮優──彼女の幼馴染であり、二十五年前のあの日から姿を消した少年だった。
『咲希へ。二十五年経った今、ようやく真実を話せる。あの日、僕は確かに死んだ。でも、君だけは覚えていてくれると信じている。7月15日の午後3時、旧桜台アパート203号室で待っている』
咲希は震える手で階段を上った。木製の手すりは湿気を含んで黒ずみ、踏みしめる度にギシギシと軋む。203号室のドアは半開きになっていた。
「優……?」
部屋の中は埃っぽく、カビ臭い。だが不思議なことに、部屋の中央に置かれた折りたたみ式のテーブルと二脚の椅子だけは、まるで今朝拭いたばかりのように綺麗だった。
そして、椅子の一つに座っていた。
二宮優が。
十歳のままの姿で。
「来てくれたんだね、咲希」
咲希の全身に鳥肌が立った。目の前にいるのは、間違いなく優だった。二十五年前と同じ、夏休みの制服。同じ無邪気な笑顔。同じ、少し癖のある髪型。
「優……本当に、あなたなの?」
「うん。でも、正確には『優の一部』かな」
優は穏やかな表情で椅子を勧めた。咲希は足が震えながらも、腰を下ろした。
「二十五年前、僕はこのアパートで死んだ。覚えてる? あの日、咲希と一緒にここで『勇気試し』をしたこと」
記憶が蘇る。あれは小学五年生の夏休み。地元で有名な心霊スポット、桜台アパート。二人は怖いもの見たさで忍び込んだ。
「私たちは……確か、三階まで行って、そのまま帰ったはずよ」
「違うよ、咲希」優は首を横に振った。「僕たちは203号室に入った。そして、『それ』を見つけてしまった」
優が指差した先——部屋の隅に、古い鏡台が置かれていた。
瞬間、咲希の頭の中で何かが弾けた。
忘れていた。いや、忘れさせられていた記憶が、津波のように押し寄せてくる。
あの日、二人は確かに203号室に入った。そこには古い鏡台があった。優が「見てごらん」と言って、鏡を覗き込んだ。咲希も隣で覗いた。
鏡に映ったのは──二人の姿ではなく、二人の「死体」だった。
首を吊った優と、その下で血まみれで倒れている咲希。
「思い出したね」優が言った。「あの鏡は『未来の死』を映す鏡だった。でも正確には、『こうなるかもしれない未来』じゃない。『こうなることが確定した未来』を映すんだ」
「じゃあ……」
「うん。僕は、あの日のうちに本当に死んだ。咲希が怖がって走って逃げた後、一人でここに戻って来たんだ。鏡に映った未来を変えられないか確かめるために。でも、結果は──」
優の首に、赤黒い痣のような跡があった。
「首を吊ったわけじゃないよ。鏡の前に立った瞬間、何か見えない力に首を締められた。鏡が、映した『未来』を実現させようとしたんだ」
咲希は自分の手を見た。何の傷もない、三十五歳の女性の手。
「でも、私は……生きている」
「それは、君が走って逃げたからだよ。鏡の効果範囲から逃れたんだ。だから、君だけは『確定した未来』を回避できた。ただし──」
優の表情が曇った。
「君の記憶も、一緒に消されてしまった。鏡に映った『死』を回避した代償として、鏡に関する記憶すべてが封印された。君は僕の死さえも、曖昧にしか覚えていないはずだ」
確かに、咲希の記憶では優の死は「事故」として処理されていた。詳細も思い出せず、葬式の記憶さえぼんやりしている。
「なぜ今、私を呼んだの?」
「二十五年経って、鏡の呪縛が弱まったんだ。だから、こうして君に真実を伝えられる。そして──」
優は真剣な表情で咲希を見つめた。
「君に伝えなければならないことがある。鏡に映った『君の死』は、確かに回避された。でも、完全に消えたわけじゃない。延期されただけなんだ」
「延期……?」
「鏡が映す未来には『期限』がある。二十五年。君が鏡の効果範囲から逃れたとき、君の死は二十五年後に『再設定』された」
咲希の血の気が引いた。
「今日が、その二十五年目?」
「そう。7月15日。君が鏡を見た日から、ちょうど二十五年後。だから、僕はこうして君を呼んだ。君を守るために」
「守る……どうやって?」
優は立ち上がり、鏡台の前に立った。
「この鏡には、もう一つ秘密がある。『映された未来』を他人に譲渡できるんだ。でも、それができるのは──」
優は鏡に手を触れた。
「既にこの鏡に殺された者だけ。僕は二十五年間、この部屋に縛られていた。君を待っていたんだ」
「優……まさか」
「咲希。君は僕の大切な幼馴染だった。今でもそうだ。だから、君には生きていてほしい。結婚して、子供を産んで、幸せになってほしい」
優が鏡に触れると、鏡面が波打った。
「待って! そんなこと、させられない!」
咲希は優に駆け寄ろうとした。しかし、体が動かない。見えない力に縛られている。
「ごめんね、咲希。でも、これは僕が二十五年かけて考えた答えなんだ。僕は既に死んでいる。でも君は、まだ生きられる」
鏡の中で、何かが蠢いた。
「優、やめて! お願い!」
「最後に一つだけ。君が十歳の時、僕に言えなかった言葉があったよね。『ずっと一緒にいたい』って」
優が微笑んだ。
「僕も同じ気持ちだったよ。だから、せめて君の人生を守らせて」
鏡が激しく光った。
次の瞬間、咲希は旧桜台アパートの外に立っていた。いつの間にか、時刻は午後4時を回っている。
慌てて203号室に戻ろうとしたが、階段の途中で力尽きた。涙が止まらない。
その夜、ニュースで報道された。
「本日午後3時頃、取り壊し予定の桜台アパートで、身元不明の男性の白骨死体が発見されました。警察は二十数年前の行方不明事件との関連を調べています」
咲希は静かに涙を流した。
優は、二十五年の時を超えて、もう一度死んでくれたのだ。彼女を守るために。
それから三年後、咲希は再婚し、娘を授かった。
娘の名前は「ゆう」。
毎年7月15日、咲希は必ず桜台公園——かつてのアパート跡地——を訪れる。
そして、心の中で囁く。
「ありがとう、優。あなたのおかげで、私は生きている」
風が吹くと、どこからか子供の笑い声が聞こえる気がした。
それは、二十五年前の、あの夏の日の声。
永遠に十歳のままの、二宮優の声だった。
彼女の手には、一通の手紙が握られている。差出人は二宮優──彼女の幼馴染であり、二十五年前のあの日から姿を消した少年だった。
『咲希へ。二十五年経った今、ようやく真実を話せる。あの日、僕は確かに死んだ。でも、君だけは覚えていてくれると信じている。7月15日の午後3時、旧桜台アパート203号室で待っている』
咲希は震える手で階段を上った。木製の手すりは湿気を含んで黒ずみ、踏みしめる度にギシギシと軋む。203号室のドアは半開きになっていた。
「優……?」
部屋の中は埃っぽく、カビ臭い。だが不思議なことに、部屋の中央に置かれた折りたたみ式のテーブルと二脚の椅子だけは、まるで今朝拭いたばかりのように綺麗だった。
そして、椅子の一つに座っていた。
二宮優が。
十歳のままの姿で。
「来てくれたんだね、咲希」
咲希の全身に鳥肌が立った。目の前にいるのは、間違いなく優だった。二十五年前と同じ、夏休みの制服。同じ無邪気な笑顔。同じ、少し癖のある髪型。
「優……本当に、あなたなの?」
「うん。でも、正確には『優の一部』かな」
優は穏やかな表情で椅子を勧めた。咲希は足が震えながらも、腰を下ろした。
「二十五年前、僕はこのアパートで死んだ。覚えてる? あの日、咲希と一緒にここで『勇気試し』をしたこと」
記憶が蘇る。あれは小学五年生の夏休み。地元で有名な心霊スポット、桜台アパート。二人は怖いもの見たさで忍び込んだ。
「私たちは……確か、三階まで行って、そのまま帰ったはずよ」
「違うよ、咲希」優は首を横に振った。「僕たちは203号室に入った。そして、『それ』を見つけてしまった」
優が指差した先——部屋の隅に、古い鏡台が置かれていた。
瞬間、咲希の頭の中で何かが弾けた。
忘れていた。いや、忘れさせられていた記憶が、津波のように押し寄せてくる。
あの日、二人は確かに203号室に入った。そこには古い鏡台があった。優が「見てごらん」と言って、鏡を覗き込んだ。咲希も隣で覗いた。
鏡に映ったのは──二人の姿ではなく、二人の「死体」だった。
首を吊った優と、その下で血まみれで倒れている咲希。
「思い出したね」優が言った。「あの鏡は『未来の死』を映す鏡だった。でも正確には、『こうなるかもしれない未来』じゃない。『こうなることが確定した未来』を映すんだ」
「じゃあ……」
「うん。僕は、あの日のうちに本当に死んだ。咲希が怖がって走って逃げた後、一人でここに戻って来たんだ。鏡に映った未来を変えられないか確かめるために。でも、結果は──」
優の首に、赤黒い痣のような跡があった。
「首を吊ったわけじゃないよ。鏡の前に立った瞬間、何か見えない力に首を締められた。鏡が、映した『未来』を実現させようとしたんだ」
咲希は自分の手を見た。何の傷もない、三十五歳の女性の手。
「でも、私は……生きている」
「それは、君が走って逃げたからだよ。鏡の効果範囲から逃れたんだ。だから、君だけは『確定した未来』を回避できた。ただし──」
優の表情が曇った。
「君の記憶も、一緒に消されてしまった。鏡に映った『死』を回避した代償として、鏡に関する記憶すべてが封印された。君は僕の死さえも、曖昧にしか覚えていないはずだ」
確かに、咲希の記憶では優の死は「事故」として処理されていた。詳細も思い出せず、葬式の記憶さえぼんやりしている。
「なぜ今、私を呼んだの?」
「二十五年経って、鏡の呪縛が弱まったんだ。だから、こうして君に真実を伝えられる。そして──」
優は真剣な表情で咲希を見つめた。
「君に伝えなければならないことがある。鏡に映った『君の死』は、確かに回避された。でも、完全に消えたわけじゃない。延期されただけなんだ」
「延期……?」
「鏡が映す未来には『期限』がある。二十五年。君が鏡の効果範囲から逃れたとき、君の死は二十五年後に『再設定』された」
咲希の血の気が引いた。
「今日が、その二十五年目?」
「そう。7月15日。君が鏡を見た日から、ちょうど二十五年後。だから、僕はこうして君を呼んだ。君を守るために」
「守る……どうやって?」
優は立ち上がり、鏡台の前に立った。
「この鏡には、もう一つ秘密がある。『映された未来』を他人に譲渡できるんだ。でも、それができるのは──」
優は鏡に手を触れた。
「既にこの鏡に殺された者だけ。僕は二十五年間、この部屋に縛られていた。君を待っていたんだ」
「優……まさか」
「咲希。君は僕の大切な幼馴染だった。今でもそうだ。だから、君には生きていてほしい。結婚して、子供を産んで、幸せになってほしい」
優が鏡に触れると、鏡面が波打った。
「待って! そんなこと、させられない!」
咲希は優に駆け寄ろうとした。しかし、体が動かない。見えない力に縛られている。
「ごめんね、咲希。でも、これは僕が二十五年かけて考えた答えなんだ。僕は既に死んでいる。でも君は、まだ生きられる」
鏡の中で、何かが蠢いた。
「優、やめて! お願い!」
「最後に一つだけ。君が十歳の時、僕に言えなかった言葉があったよね。『ずっと一緒にいたい』って」
優が微笑んだ。
「僕も同じ気持ちだったよ。だから、せめて君の人生を守らせて」
鏡が激しく光った。
次の瞬間、咲希は旧桜台アパートの外に立っていた。いつの間にか、時刻は午後4時を回っている。
慌てて203号室に戻ろうとしたが、階段の途中で力尽きた。涙が止まらない。
その夜、ニュースで報道された。
「本日午後3時頃、取り壊し予定の桜台アパートで、身元不明の男性の白骨死体が発見されました。警察は二十数年前の行方不明事件との関連を調べています」
咲希は静かに涙を流した。
優は、二十五年の時を超えて、もう一度死んでくれたのだ。彼女を守るために。
それから三年後、咲希は再婚し、娘を授かった。
娘の名前は「ゆう」。
毎年7月15日、咲希は必ず桜台公園——かつてのアパート跡地——を訪れる。
そして、心の中で囁く。
「ありがとう、優。あなたのおかげで、私は生きている」
風が吹くと、どこからか子供の笑い声が聞こえる気がした。
それは、二十五年前の、あの夏の日の声。
永遠に十歳のままの、二宮優の声だった。
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