神創系譜Episode of Diansas「水竜の夢」

橘伊鞠(ろさ)

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「失うかよ! お前は兄貴をもうちょい敬えよ!」

などと、兄弟が別れの時を惜しみ語らう横で、トエイはその両手の指を組み合わせ、淋しそうに眉を下げていた。 

「沈むなよ」

アインが、トエイの前に立ち、その顔に背の高さを合わせた。
暖かな微笑みを前に、トエイは自然にその首に両手を回した。まるで、幼な子が父に甘えるように。

「なんだよ。海の向こうったって、お前飛べるんだからすぐだよ。会いたくなったら来ればいいんだよ」

「気を付けてね、アイン」

そう言うとトエイは、その身体をアインから離し、次にルピナスの腰元に抱きついた。

「気を付けてね、ルピナス」

「……ずっと貴方を守っていた筈なのに、最後は守られちゃったのねえ。ママにはなれなかったかな」

ルピナスは女性特有の母性溢れる眼差しでトエイを見ると、手に持っていた荷物を下に降ろし、その肩を抱き締めた。

「ルピナスはお母さんだよ。あたしの、お母さん……」

家に帰ると、美味しそうなご飯の匂いの向こうにルピナスがいた。残さず食べなさい、と両手を広げ、皿にこれでもかとスープをよそう。
一緒に服を見にいっては、自分のことのように楽しみ笑って選んでくれた。恋の話を持ちかけると、大人として答えてくれた。
彼女がまだそんな年じゃないのは、十分承知している。だが、安らぎと包容力を兼ね備えた彼女は、トエイにとってかけがえのない「母親」となっていた。

「なあトエイ、俺は?」

アインが自分を指差す。

「アインはお兄ちゃん」

「あれっ?」

父と言ってもらえると思っていたのだろう。アインは少々不満な様子で頭をかいたが、嬉しそうに頬を弛ませているトエイを見ると、同じく笑顔になった。
ふいにトエイは「あ」と何かを思い出し、ヘリオスの側にあった皮の荷物袋から、四角い何かを取り出した。そしてそれをアインに、無理矢理に手渡した。

「これ、持っていって」

「……これ」

それは、あの日アインがトエイに買い与えた湖の本。
何回もページをめくったのだろう。端はよれて、指の跡が付いている。表紙も、すっかり光沢を無くしていた。
だが、アインは戸惑った。一度やったものを持っていけなどと、どういう意味だろうと考えるのが普通。しかし、それは要らぬ推察だった。

「見て! これなら、私のこと忘れないよね?」

そう言って、トエイは本のページを開いた。
そこには、湖の絵画の上に無理矢理に描かれた、子供の落書きのような水竜の絵があった。
この絵を描いた人物は、恐らく今まで絵など描いたことがなかった筈。震えた線から、慣れない手つきで描いたのがよく分かった。

「へったくそだな……なんだこれ」

指で、絵をなぞる。すると少し指が黒く汚れ、視界の絵が霞んだ。

「ディアナの私を一番初めに助けてくれたのは、アイン。いつまでも、忘れないから」

「トエイ……」

一時は、彼女に魅入られ淡い恋心のようなものを抱いた。
だが寝食を供にするうちに、いつしかそれは「情」へと変わった。遠からず近からず、彼女は自分が守らなければならないと決意したのだ。
しかし今、目の前にいる自分の無愛想な弟が、その役目を繋いでくれる。となると、兄は妹離れをしなければならない。男として、淋しいなどという台詞は口が裂けても言わないだろうアインだが、兄としてなら話は別だ。

「トエイと会えなくなるのは、淋しいぜ」

「ヘリオスに何かされたら、すぐに副官のあの人に言うのよ!」

「やかましい、さっさと行け」

そう言って足元の砂を蹴り追い払おうとするヘリオスを、アインはひとしきり笑い飛ばした。そして、

「じゃーな!」

ただ一言そう言った後、その大きな手は太陽を掴むかのように高く掲げられた。藍色の髪を渇いた砂風に揺らし、アインは前を向いた。そして、近くの枯れ木に繋いでいた馬にまたがると、にっと笑った。

「トエイ! 着いたら連絡するからねー!」

それに続いて、ルピナスもアインの馬の背に乗った。被っていた帽子を片手に持ちぶんぶんと左右に大きく振ると、バランスが崩れ落馬しそうになった。だが、彼女が少し涙目になっているのは、決して落馬しかけた所為ではない。

惜しむように何度も何度も振り返っては手を振る彼らを、トエイはいつまでも見送っていた。
彼らの姿を目に焼き付けておくように、じっと、ただ静かに、見送っていた。

広い砂漠に突き抜ける街道を行った二人の姿が見えなくなるまでは、少しの時間を有した。だがヘリオスもトエイも飽いた様子は無く、その人影が豆粒ほどになったところで、やっと互いに向き合い声をかけ合った。

「行ったな」

「うん」

二人はどちらともなく、帰路に着いた。この炎天下の中ひたすらに歩くのは利口ではない。彼らもまた馬にまたがると、首都へと向かう少しの道を進んだ。

ヘリオスの前に座ったトエイは、いやに無口だった。
表情は別段変わらない為、きっと別れを悲しんでいるのだろうと、彼は考えた。そしてその鋭い瞳に何かの決意を宿らせ、彼は馬を更に速く走らせた。 

城へ帰還するや否や、侍女たちが三人ほどトエイの前に現れ、膝まづいた。

「ディアナ様、こちらへ」

「沐浴の用意が整っております。さあこちらへ」

民たちは、トエイを「ディアナ」と呼称する。尊敬の意を込めての呼び方だろうが、ヘリオスはそれが少し気にいらなかった。
ディアナと呼ぶことは、彼女には「水」だけしか求めていないような気がしたからだ。 

「またね、ヘリオス」

だが、トエイは慣れた様子で彼女等に荷物やローブを預けると、手を振りながら行ってしまった。

「無事に、出立されましたか」

トエイと入れ違いに、いつもヘリオスに付き従っている青年が現れた。

「国に残れと言ったが、聞かなかった」

「アイン様は、政(まつりごと)に縛られる御方ではございませんでした。聖騎士であれば、国境を越えて生きることが出来ますからね」

「……そうだな」

   *   *   *

緑色の丸い葉、薄桃色の小さな花びら。赤くて、ころんと可愛らしい何かの実。侍女たちは、それらを水に次々と浮かべていく。普段は湯殿に使われているのだろうが、トエイの為に特別な冷水が張られていた。

花や実はしばらくすると柑橘系の爽やかな香りを放ち、それはふわりとトエイの鼻をついた。

「いい匂い……」

「宮廷魔導官が、ディアナ様の体によろしい花や実を厳選しました」

「ありがとう。頑張って水を出すからね」

無邪気な笑顔を見せるトエイには、つい侍女も頬を緩めてしまう。だが、身分の違いを気にしてか、そう距離を縮めることもなく、侍女はさっさとそこから退室してしまった。
ぽつん、と一人になったトエイは、早速水に手を浸け、子供のようにそれを掻き回したり掬ったりして遊び始めた。

しかし、ふとその動きは止まった。

「ディアナ様も居るし、この国は安泰ね」

「水に悩まなくていい暮らしか来るなんて……私昨日は昼と夜二回も湯浴みをしたの! 」

遠くから聞こえる、侍女たちの何気ない会話。
良かった、喜んでくれている。トエイは会話に耳を傾けながら、にこにこと微笑みながら足を水に浸けた。

「これで後は、国境の戦争を鎮圧して……」

「あら、それなら問題ないわよ。七の満月には遠征軍は帰還するらしいから」

「そうなの?」

そうなんだ?とトエイも心の中で尋ねた。彼女は、そういう話をあまり聞いてはいないのだろう。
後でまた聞いてみよう、と頷いた。
のんびりとしたトエイとは対照的に、雑談好きの侍女たちの話にはますます花が咲いていく。

「……で、向こうが折れたらしいわ。ま、こちらにディアナ様がいることを知ったからじゃない?」

「ディアナ様が来てからは良い事づくしね! 」

「あとは、……そうね。ヘリオス様が強国の伴侶をお迎えになれば、ダイアンサスはもっと大きな国になるわ」

「ねえ、結婚式の日は私たちも遊べるかしら! ?」

「あなたそれしか無いの?」

「あははは!!」

段々と声を大きくしてはしゃぐ侍女たちだったが、そのうちに年配であろう女性の怒鳴り声がして、その場は静かになった。
その後すぐに、その年配の女性はトエイの前に現れた。灰色の髪を上で団子に結っており、少しふっくらとした体格がトエイを安心させた。

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