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仇討娘入門始末
二つの闇
しおりを挟む人間、誰しもと言うことはないが、表と裏、或いは光と陰の部分を持つものである。
そしてそれは、光が強いほどに影が濃くなるように、人としての力の総量が大きいほどに、光も影も強く現れる。
誰からも尊敬される人格者、柏屋半左衛門の闇もしかり。
天下一品と言える技の冴えを持ち、心身共に美しくありながら心中に獣を飼う、冬吉もまたしかり。
とは言え、彼らのように本当の力を持つものは、その闇や獣を抱えつつも、普段は意外に呑気に生きており、その辺の人間よりもよっぽど穏やかに過ごしているように見える。
それが、人の格というものだろう。
「本当にこんなんでいいんですかい?」
もう、店の片付けも終わり、明日から元の店舗の解体、その後に穴蔵を掘ってから、新しい店が作られる。
そんな日に仗助は、不満そうに冬吉に尋ねた。
「冬吉さんが贅沢じゃないのはわかるが、これからは居酒屋とは言え、そこそこの大きさの店の主になるんですぜ。それがこんな……」
「おとっつぁん、もう諦めなよ。冬吉さんに普通の旦那さんみたいなことを求めたって無駄。贅沢したくない以上に無精なんだから」
てきぱきと荷物を運び込むお夏の言葉に、仗助は深いため息をついた。
わずか十日で、通常の店の営業をしながら、一時閉店の準備をしなければならなかった冬吉は、その膨大な作業を軽くするため、実に無精な方策を採用したのである。
つまり、店の道具類も、冬吉自身の仮住まいも、両方とも店の裏手にある長屋に置くと決めたのだ。
長屋は半左衛門のもので、管理はお静がしている。
実態としては草間の奉公人の宿舎として使っているのだから、空き部屋に荷物を入れるのは問題ない。
しかし、大店とは言えぬまでも、奉公人を使う店の主人が、一時的とは言え貧乏長屋の、それも一番狭い一室に居を構えようと言うのだ。
引っ越しも実に楽だが、何も一番狭い部屋、熊七の部屋よりも狭いところに入らなくも良いのにと、仗助は思うのだ。
「店から離れたところじゃ不便だし、今までの寝床と大して変わりませんよ。私は狭い部屋の方が好きなんで」
これは嫌味である。
新しい店は今までの三倍ほどの広さになるが、二階に造る冬吉の部屋は、店の主人に相応しいものとなっている。
その部屋の造作は、棟梁をやる伊八と、冬吉不在の間に店を預かった、仗助が勝手に決めてしまったのだ。
どうも、最後の気楽な狭い部屋での暮らしを、営業再開までの間に満喫するつもりらしい。
お夏はどういう趣味だと思わなくもないが、店の営業には問題ないことなので、口を挟まないことにした。
面倒なのはいつまで経っても、不満を口にする、仗助を宥めることであった。
しかし、冬吉には無精以外の理由もあるのだ。
先日、柏屋の事件の際、次郎左と名乗った剣客は冬吉の本来の名を知っていた。
冬吉は町人としての名を名乗っている。
彼らの目的はわからないが、その障害になるものと冬吉のことを考えるなら、店の奉公人たちにも害を加えてくる可能性もある。
念のためでしかなく、さらには気休めにしかならないが、店からは離れず、周囲の様子を伺う時が必要と考えたのだ。
「ま、何か考えがあるんでしょうけど、問い詰めるだけ無駄だし」
お夏の口からは誰にも聞こえないような小さな声で独り言が漏れた。
時は少し遡る。
冬吉が柏屋から帰ってくる前日、半左衛門は草間を訪れ、お夏たちに深井戸と穴蔵を作ることを伝えた。
その帰り、まだ日も高いうちに、昔馴染みの店に足を向けた。
この日はその店は休みである。
「旦那、まだ続ける気かい?」
「ええ。まあ、やめてしまおうかとも考えましたが、今はそうもいかないですね」
「ふんっ、鐵の野郎が張り切ってんだ、あんたが手を汚す必要はもうないと思うんだがね」
話しの相手は、猪五郎である。
つまり、ここは猪五郎の店、居酒屋猪頭だ。
「ふふ、まあ、お前さんが仕留めを、御坊が仕込みをやめたときが、潮時といえば潮時だったんですね。やめ時を見失ってしまったのは確かです。とは言え、私がやめては、誰かに代わりをさせないといけない」
「それは、そうでしょうな。しかし、お互い歳だ。誰かに任せて隠居するということも考えて良いのでは?」
そう提案したのは、猪五郎ではなくもう一人の老人、僧侶と思しき服装の人物である。
「善応さん、任せる相手が気の毒で任せられないのですよ」
「この前、あの、用心棒と不届き者の亡骸を一緒に片付けた若者なんて、良いと思いますがね?」
この老僧が先日冬吉の依頼によって、篠塚龍右衛門と大倉十兵衛の死体を引き取った僧侶である。
名を善応、今は近所の寺の住職を務めているが、元は違う。
仕込みであったということは、さらにその前は本格の盗人であったということだ。
「たしかに、冬吉さんになら任せてもいいんですがね。まあ、まだ若いし、なによりあのお人の義姉を名乗る人がうるさいんですよ」
にやり、と妙な笑いを浮かべた半左衛門は、そこで肴の夏大根のおろしを食べ、酒を舐めた。
猪頭の酒であるから、安酒の味を直したものだ。
いつもは上方からの下りものしか呑まない半左衛門だが、猪頭の酒は悪くないと思っている。
荒くれ者が集まるようなお世辞にも綺麗とは言えない店の雰囲気や、無骨な肴に実によくあう。
夏大根のおろしは辛い。
大根は『怒りながらおろすと辛くなる』と言われるが、癇癪持ちの猪五郎がその剛力でゴリゴリとおろしたものであるから実に辛い。
それに梅干しと鰹節を混ぜ合わせて醤油を掛けただけのものだが、癖のある安酒と合わせると実にうまく、自分も荒くれ者になって飲んだくれているような気分になってくる。
悪くない。
酒も肴も組み合わせ次第。
店の雰囲気も含めて楽しむものであるから、料亭の気取った料理だけが最高のものとは半左衛門は考えていなかった。
人、立場についてもそうであろう。
酒と肴のように、能力があっても合う合わないと言うのがどうしてもある。
「平蔵さんは、元は仕留めとは言え今や立派な旗本だ。清濁合わせ飲む気質とは言え、火頭改頭が闇の凶賊殺しを兼ねるなどというわけにはいかない。冬吉さんならと思わなくもないが、まあ、時はかかります。あのお人にも、それなりに事情がありますから」
善応は大きくため息をついた。
深い嘆きが篭った嘆息ののち、改めて問うた。
「まだ、あなたの火は燃え尽きないのですか」
「消えませんね。日に日に大きくなるとは言えないが、たぶん、死ぬまで消えることはないのでしょう」
頑なな半左衛門の言葉に、今度は猪五郎が自身の杯をグイと干した上で言った。
「闇の半左衛門か。そんなこと忘れちまった方が、美味い酒が飲めると思うがね」
「そうですね。でも、それじゃ、酒どころか水すら呑めなくなる者たちを救うことができません」
半左衛門はあくまで柔和な笑みを浮かべたまま、そう断言した。
一方、全く別の場所、江戸からだいぶ離れた山間部の古寺では、半左衛門と対立する者たちも寄り合っていた。
こちらは酒も肴もなく、暗いところで、陰気な顔を付き合わせている。
「して、その草間冬士郎と言う男、次郎左でさえ倒せなかったとのことだが、半左衛門の仕留めなのか?」
あまり、丈夫そうではない青白い顔をした、しかし目だけは冷たい鋭い光を放つ武士の男がそう尋ねた。
全体的な印象は細く、と言って骨張っているわけではなく、どこかヒョロ長い印象の男である。
学問に取り組む武士特有の、柔和な印象と表裏一体を成す頑なさが窺われた。
「はっきりとはわからんが、違うだろう。調べによれば、本所で居酒屋を営む包丁人だそうだ。仕留めは表業を他に持ってもおかしくないが、そんな人に顔を晒す仕事をしているのは少し考えにくい」
答えたのは、中年の男で武士ではない。
服装などは、香具師の親分というのが相応に見えるが、物腰はもう少し柔らかく、大店の主人ようにも思える。
「だが襲撃の晩、柏屋にいて真兎田の剣客を退けたのは間違いない。それほどの腕、今後を考えたら早めに始末しておくべきしょう」
最初の武士、ヒョロ長い男が隣にいるもう一人、ほとんど微動だにしない老武士に話しかける。
老人は首を縦には振らなかった。
「無理だな。あの男に手を出すのは火傷をするだけだ。青二歳どもでは簡単に斬られるだけ。逆に奴を本気にしてしまえば、こちらがやられる。それに、そんなことができるなら、蟷螂だってとっくに始末しているだろう?」
声に恐れはない。
どちらかと言うと、他人事のように無責任な調子でそのように述べた。
「では、ご老体に出ていただかねば」
そう、口にしかけたヒョロ長は、急に寒気を覚えて口をつぐんだ。
余計なことを言ってはいけない。
一番恐ろしいのは、草間冬士郎でも蟷螂でもない、目の前のこの老人なのだ。
「放っておいて問題あるまい。柏屋半左衛門だってそうだ。下手に手を出す必要などない。目的を履き違えておらんか?」
「しかし、我らが大望の障りになるかもしれない」
「その時は斬ればいい」
如何にも簡単、やろうと思えばいつでもやれるという調子で老人が嘯く。
そうなのだ、この老人に斬れない人間などいない。
全ての真兎田の剣客の師であるこの老人こそが、彼らにとっての最後の切り札である。
「それより、今は勘兵衛の後釜を決めねばならない。甚八さんはやらんのだろう?」
「あっしが出るのは最後でしょうな」
甚八はサラリとそう言った。
この男、甚八こそが江戸周辺を縄張りとする盗賊の頭たちの、さらにその元締めと言える存在なのである。
自身は押し込みなどを直接働いたりはしないし、傘下の凶賊どもにも何か指示を出すことはほとんどない。
しかし、凶賊が拠点を持ち、江戸に進入して仕事をする、その段取りの大半にこの男の手引きが必要なのだ。
実質的に凶賊たちの盟主と言っていい。
「そうとなれば、いよいよもってあのお方に出てもらうしかないか」
「……できれば避けたいが、火頭改もどんどん力をつけていく以上、多少荒っぽくても致し方ありませんな」
老人の言葉にひょろ長が同意しつつため息をついた。
嫌悪感に耐えかねていると言う感じもする。
赤首の勘兵衛に代わる、彼らの江戸実働部隊の新しいまとめ役に、江戸史上最悪の凶賊が指名された瞬間であった。
店を閉め、長屋に住居を移した翌日、冬吉はいつものように樋口道場に稽古に来ていた。
水野家の関係から入ってきた初心者の相手は辰蔵と雪枝が担っている。
特に雪枝は意外に楽しそうに、同年配か年下の娘たちに熱心に手解きをしていた。
冬吉はどうにか歩けるようにはなったが、まだ無理の効かない木村の肩慣らしに付き合いつつ、元からの門弟や、新しい者でも、すでに経験のある者達の指導を手伝う。
冬吉自身が他流を修めた後に、念流の修行をしているので、経験者たちへの説明はわかりやすく、大変好評であった。
実を言えばこの樋口道場も、数日後には使えなくなる。
水野老の考えなしの奨励で、急に門弟が増えてしまったため、大野用人の口添えにより、水野家の後援で大きく建て替えることとなったのだ。
その間は、水野家の屋敷内にある道場を借りることとなっている。
本来、伊八の紹介で草間の建て替えを頼むはずであった棟梁が、こちらをやることになってしまったため、若い者を借り受けた上で、伊八自身が草間の棟梁役をやることになったのだ。
伊八の張り切り様は大変なもので、一世一代の仕事と気張っている。
出来上がれば、自分が毎日通う店なのだから、最高のものに仕上げねばならないのだそうだ。
稽古も終わり、門弟たちが帰った後、冬吉は正助に誘われて、茶を一服もらっていた。
木村や辰蔵、雪枝も一緒である。
今や樋口道場の指導陣と言ったところだ。
「いやあ、娘たちに稽古などと、一体どうなるかと思いましたが、意外に熱心になるものですな。雪枝殿の手ほどきの賜物です」
上機嫌に菓子を勧めながら、正助は言った。
木村もうんうんと頷く。
「いえ、私が言うのもなんですが、女の身で武道を志すなどと言うのは珍しいことです。なかなか機会のないことで、楽しくやらせていただいています」
同性に同好の者がいないというのは、なかなか寂しいものなのであろう。
女同士でも剣術の話ができるというだけでも、雪枝にとっては楽しいのである。
武衛館での稽古よりも、よっぽど充実した日々を送っていた。
意外に雪枝は冬吉に無理に迫ろうとする様な、強引な行動はとっていない。
お夏よりお目付役を仰せつかった辰蔵も、自身が的になっている冬吉も、まずは一安心である。
余計な気は使わずに、稽古に集中することができていた。
「え、えと、たっ、たのもうっ!」
道場の外から声が聞こえてきた。
それも、どう聞いても幼い娘の声だ。
「はて、流石に女童にまでは水野様も推奨されてはいないと思ったが……」
他の者より数日遅れてから、入門を希望してきた者はいる。
親だの親戚だのに強く言われて渋々やってきた手合いである。
長くは続かない。
翌日には来なくなった者もいるのだ。
それにしても、さすがに年端のゆかぬ幼い娘にまで、剣術を習ってこいなどとは水野老も、その家中の者たちも言わないはずである。
「私が出て話を聞きましょう」
不可思議な訪問者に、一同、首を傾げているうちに、雪枝は席を立って外に向かった。
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