剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)

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幼妻押掛始末

義妹にして妻

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「えっ?」

 あまり動じたりすることのないお夏でも、とっさには言葉の意味を理解できなかった。

『冬様』

 これは明らかに冬吉のことであろう。
 同郷ではないかとは思っていたが、この童子髪の娘は冬吉と旧知なのか。

『甘い茶碗蒸し』

 もちろん、風割り蒸しのことであろう。
 確かに風割り蒸しは茶碗蒸しと似ている。
 この口ぶりでは、以前に食べたことがあるようだ。

 少しの間をおいて、お夏は思い出すことができた。
 風割り蒸しは、かつて冬吉のことを、兄のように慕う女の子のために考えたものであったと。


「冬吉、この店の主人のことをご存知なんですか?」
「ふ、冬吉?」

 涙で顔を濡らしたまま、堪えきれぬように笑い出した。
 泣き笑いみたいな顔で続ける。

「そう名乗っとるのですか。幼名をそのまま名乗るだなって、冬様らしい」
「幼名っ?!」

 武士の子弟に限らず、明治維新よりも前の日本では名は何度も変えるものであった。
 武士の場合、子どもの間は幼名を名乗る。
 だいたい、十五、六歳あたりで元服するまではその名を使い、以降は通称(字名あざな)や実名(いみな)を得るが普段使うのは通称の方である。
 その後は、何か功績を上げて出世したり、罪を犯したり、極端な場合は気分によって名を変えることもある。

 商人や職人の場合は、必ずというわけではないが、機会があれば名を変えることは普通にあるし、職業上の名や隠居した後の号を別に名乗ったりもする。
 
 冬吉の場合は、武士を捨てる決心をした際に、武士としての名を捨てたのであろう。
 それにしても、幼名を武士を捨てた後の町人としての名に使うというのは、なんともものぐさである。
 冬吉は名前を考えるのが苦手なのだ。

「それは、また……じゃあ、お客さんは冬吉さんのお知り合いなんで?」

 そう聞いたのは、厨房から出て来た仗助である。
 客席にいるのは、童子髪の娘にお夏とお深雪、少し離れたところに雪枝と辰蔵、若い者しかいない。
 老婆のお静は、昼飯時の洗い物がまだ残っているので、仗助が出て来たのだ。
 
 込み入った話になりそうなので、若い者だけには任せておけなかった。

「はあ、知り合いとゆうてますか、妹のような……ああ、一応、生国では妻ということには」
「つ、妻っ!?」

 全員驚きはしたが、激しくうろたえて素っ頓狂な声をあげたのは雪枝である。
 時間をかけて親しくなり、いずれは輿入れしたいと未だに考えているこの娘が、『妻』の一言を聞き逃すはずはない。

「そ、それはどういうっ?!」
「え、えと、形だけといいますか、成り行きとゆうてますか……そんな感じですちゃ」
「は、はぁっ?!」

 少々舌足らずで、あまり要領の得ない回答に、皆混乱する。
 取り乱した雪枝が立ち上がって、詰め寄ろうとするところを、お夏に一瞥された辰蔵が後ろから羽交い締めにして押さえ込んだ。

「た、辰蔵殿っ! 何をするっ! ふ、冬吉殿が、冬吉殿が実は所帯持ちなんて聞いてないっ!」
「雪枝殿、誰もそんなことは知らなかったですよ。いろいろ事情があるのでしょう。落ち着いて」

 しかし、雪枝の勢いは止まらない。

「お、お夏っ、なんとも思わないのかっ?!」

 最初、雪枝はお夏のことを『娘』などと呼び、下に見るような接し方をしていたが、最近そんなことはない。
 そもそも、お夏の機嫌を損ねて、草間の常連などはやってられるはずがないのだ。
 お深雪を介してのつながりもできたので、雪枝にとっては数少ない同年輩の友人である。

 そのお夏はキョトンとした。

「はて? 私が何か?」
「いや、冬吉殿が所帯持ちだなんて……」

 お夏は少々わざとらしく、深いため息をついてから答えた。
 
「生国を出て来たのには、やっかいな事情があるのは知ってましたし、私としてはお店の主人を続けてくれれば、それ以上なんとも」
「そ、そうなのか……」

 雪枝は全く同意を得られないお夏の態度に、一瞬勢いを失った。
 お夏の方が、雪枝よりもはるかに思慮深いのである。
 
『形の上では』
 
 こう言っているのだから、武士の家ゆえの、なんらかの事情があるのであろう。
 童子髪の娘は、妻というよりも妹としての心情で冬吉のことを語っている。

 それに考えてみれば、冬吉は今二十四、生国を出て来たのは七年前とのことであるから、当時は十七。
 武士の結婚であれば、それぐらいでもありえるが、妻であったという娘の方は、どう見ても今が十七くらいである。
 つまり、十歳以下で所帯をもったということになるのだ。
 今のお深雪よりも年下で、七歳年上の冬吉と結婚したということになる。

 これまた、武士の世界ではないことではない。
 当時は制度・儀式上の結婚と、実質的な夫婦生活とは全く別の話であった。
 武士の結婚には、確かに十代前半同士などということもある。
 だが、それは形としてだけであって、実質的な夫婦生活を送るのは双方十七、八歳以降、つまり安全に子を産める体ができてからなのだ。

 結婚は、家同士の結びつきと、後継となる子どもができることを望んでのものであるから、妊娠や出産に危険が伴うようなことは避けて当然である。

 よって、冬吉とこの娘との結婚というのは、まさしく『形だけ』の話であり、心情的には兄と妹のままなのであろう。
 それにしたって、行方不明だった兄の消息が分かったとなれば、泣くほど嬉しいに違いないのだ。


 などということがわかるのは、思慮深く人の心のあり方に関心あるお夏だからであって、雪枝には思い至ることなどない。
 辰蔵に羽交い締めされながらバタバタと腕を振り回す彼女を見て、このままでは治らないとお夏は思った。

「辰蔵様」

 お夏はまで言わない。
 辰蔵にはそれだけで伝わる。
 辰蔵とお夏、いや、居酒屋草間との間には密約がある。
 それを履行しろと、お夏の目は言っている。

 辰蔵は羽交い締めをやめた刹那、素早く雪枝の前へ回り込み、ほとんど密着するほどの距離で身をかがめた。
 取り乱して暴れる寸前の雪枝の鳩尾に拳を当てて、気合と共にそれを突き出す。

「御免っ!」
「む、むぅん……」

 雪枝はそのまま崩れ落ちて辰蔵にもたれかかった。
 横隔膜を強く打つことでそれを麻痺させ、一撃で相手を気絶させる当身の技である。
 
 この技は辰蔵の学ぶ念流の道場で伝えられるものではない。
 しかし、辰蔵は天下の火頭改頭、長谷川平蔵の嫡男である。
 火頭改では盗賊相手と言えども殺生は避けたい事情から、柔術や捕縛術が学ばれている。
 長谷川家は二代続いて火頭改頭を務めている家なので、この技を父から教わっていたのだ。

 雪枝とて、女だてらに剣客である。
 本来ならこんな簡単に当て落とされてしまうことはないのだが、興奮して気を散らしまっているので隙だらけであった。

「お見事。本日のお代は店のおごりにしておきますので、あとはよろしくお願いしますね」
「では失礼いたします」

 気を失った雪枝を背負い、辰蔵は店を出ていった。



 などと、すったもんだをしている間、童子髪の娘と話をしていたのは、お深雪である。

「冬吉さんからは、仇討ちの名目で藩を出ることになったとか聞いていたんですが」

 お深雪が興味津々と言ったていで尋ねる。
 こんな可愛らしい妻がいながら仇討ちを放棄し、武士であることと故郷を捨てる、どうして冬吉がそんな風に考えたのかが気になるのだ。
 
「はい。冬様とおらの義父の仇ですちゃ」
「二人ともの義父?」

 冬吉からは『義父の仇』とは聞いている。
 この娘の父親が仇なのではないかと思ったのだ。
 であれば、仇討ちをよしとしない冬吉の態度には納得ゆかぬのではないか。
 
「遠縁の上士がおらを養女にして、冬様を婿にすることで家を継がせようとしたんですちゃ」

 『上士』とは上級の武士という意味である。
 冬吉は、おそらくは下級の武家の出であったのだろう。
 下級の武士の子弟であっても剣術絶倫の上に眉目秀麗、心持ちも悪くないとなれば、良い口の養子先があってもおかしくない。
 それはお深雪も理解できた。
 
 武士に限らず後継のいない家は、ほんの少しでも血のつながりのある家から養子を取って、子孫を残そうとする。
 都合よく親戚に男子がいなければ、適当な娘を養女にして、その婿に優秀な人物を迎えるというのはよくあることだ。
 
 しかし、気になることがある。
 
「兄妹なのに?」
「兄妹とゆうかぁ、藩の指南役の道場で冬様は内弟子、おらはやっぱり養女として預けられとってぇ、だから兄妹みたいに育ったんですちゃ。指南役の娘さんが姉みたい感じやったがいちゃ」

 つまり、血の繋がらない三兄妹ということである。
 血縁がなければ、子をなすことに不都合はない。

「最初は、姉様あねさまと冬様で道場を継がせようって話やったちゃんですちゃ。それを義父が強引におらを引き取って……」
「なんでまた、そんな面倒なことを」

 口を挟んだのは仗助である。
 
 童子髪の娘はちらりと、お深雪の顔を見た。
 子どもに聞かせられるような話ではないのだろうか。
 
 言葉を選んでいたのだろう。
 少々の躊躇の後に口を開いた。

「冬様はぁ、まあ、あんな見た目ですちゃ。惚れ込んでしまった娘さんたちがいろんな騒ぎを起こして、とっとと身を固めさせなければとなったんですちゃ。義父には子がなかったちゃがで、ちょっこでも血の繋がりがあると、優秀な冬様がまとめてに手に入るならと、強引に養子にしたんですちゃ」
「ああ、なるほど」

 一同納得する。
 特に前半の部分はよくわかる。
 
 今の追っかけ娘たちはまだマシなのだ。
 かつての姉御役であったお里のおかげで、無茶なことはしない。
 それがなければというかお静によるとそうなる前は、厨房に無理やり上がり込んで拝み倒しにかかったり、深夜に忍び込み、女の側から夜這いを掛けようとした娘までいたと言う。
 モテすぎる男というのも、随分と困り物である。

 
「おら、かえでとゆうてますちゃ。冬様はどこに?」
「今は店を出す時にお世話になった料亭の方へ顔を出しています。たぶん、夕餉の頃には戻ると思いますが」

 辰蔵と雪枝が帰ったので、その席を片付けて戻って来たお夏は残念そうに答えた。
 夕方には戻るとは言え、折り目正しい武士の娘が一人で居酒屋に顔を出すということはできないだろう。
 そもそも旅装なので、どこか泊まる当てがあるなら、そこに行かねばならない。

「じゃ、近いうちまたへんまに顔を出するちゃ。しばらくは江戸におるので」

 にこりと笑う。
 残念ではあるのであろうが、所在が掴めて安心したというところであろう。
 
 仇討ちの旅は冬吉のように、実際に果たすつもりがなかったとしても、危険が伴う。
 狙われている側からすれば、いつ襲撃されるかわからない恐怖がある。
 そうであれば、逆に自分を探している者を見つけ出して、先手をとって返り討ちにするということも考えられるのだ。

 生国に残った家族からすれば、心配で胸が張り裂けそうになるのもわかる。
 生きているだけで一安心。
 さらには好きであった包丁のことで身を立て、立派な店をもって奉公人まで使っている。
 
 奉公人たちの人柄も良さそうだ。

『冬様は元気まめにやっとる。それも結構幸せそうですちゃ』

 それだけで、童子髪の娘、楓は満足であった。
 
 それに、楓もなかなか忙しいのだ。
 別に冬吉を探しに江戸へ出て来たのではない。


 
「あ、そうですちゃ。この辺りで本多様のお屋敷はありませんか?」
「本多様……」

 お夏はあごに指を当てて考えた。
 
『本多』

 この家名を持つ武士は多い。
 元々、徳川家が松平を名乗っていた頃からの家臣であるが、複数の系統があり、大名にも旗本にも陪臣の武士にも多数見られる。
 
 有名どころでは、大名家として家康の家臣随一の武辺者であった本多平八郎忠勝ほんだへいはちろうただかつの家系がある。
 
 他に家康側近の策略家で『天下の寝技師』の異名を取った本多弥八郎正信ほんだやはちろうまさのぶの子孫がいる。
 嫡男正純まさずみ宇都宮城釣天井事件うつのみやじょうつりてんじょうじけんなどで嫌疑がかけられ改易されたが、次男の政重まさしげは徳川家を出奔して放浪の末、最後には加賀金沢藩前田家かがかなざわはんまえだけの筆頭家老となって、この時代にも家が続いている。
 
 その隣の越前福井藩松平家えちぜんふくいはんまつだいらけの筆頭家老に本多の名があり、これは『鬼作左おにさくざ』と呼ばれた本多作左衛門重次ほんださくざえもんしげつぐの兄、重富しげとみの家系である。

 他にも大名、旗本に複数家名を残す。
 とにかく、『本多』というだけでは、どこの家のことなのかは見当もつかないのだ。

「この辺りですと、本多内蔵助ほんだくらのすけ様のお屋敷はありますが……」

 本多内蔵助が越前福井藩の家老の家系である。
 越前福井藩は家康の次男、秀康ひでやすが藩祖。
 本多内蔵助は形式としては陪臣であるが、直臣だったのを家康の指示によって秀康に付けられた経緯があるため、大名並みの扱いで、独自に江戸に屋敷も持っていた。
 
「あ、それですちゃ。しばらくそこで厄介になるですちゃ。道を教えてくだはれ」

 お夏は少々不思議に思った。
 
 今では冬吉と楓の生国は越中あたりと確信している。
 越中と言えば、金沢藩かその支藩である富山藩である。
 ともに当主は前田家。

 金沢藩の家老、加賀八家と言われる八つの家の筆頭は本多家であるが、富山藩も支藩であるからその分家ぐらいはあろう。
 しかし、越前福井藩の本多家は、系統を異にする。
 では、楓は越前福井藩の本多家の係累なのであろうか?
 それもどうも違う気がする。

 本来、お夏のような町人の娘が、こんな武家の系譜など知るはずはない。
 だが、情報収集に余念のない、というより趣味であるこの娘は、上方にいた頃からこういう話に目が無い。
 菜飯屋にやって来た旅人の話に耳をそばだて、時に仗助や小助に怒られながら、無邪気に質問をして覚えたことである。
 
 とは言え、いい加減大人になったお夏は、流石にここで楓に問いただすなどはできない。
 手早く道筋を紙に書き留めてやり、それを渡した。

きのどくなありがとうございますちゃ。また参りますちゃ。冬様をたのんこっちゃね」

 そう挨拶をして、気前よく多めに勘定を支払い、楓は草間を出た。
 

「冬吉っつぁんの妹ねぇ。血はつながらないというが、賢いような抜けているようなところは似てなくもないねぇ」

 くつくつと笑いながら、奥で洗い物をしていたお静が出てくるなりそう言った。
 聞き耳を立てていたのだ。
 
 この老婆は歳の割には随分と耳が良い。


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