君だけに恋を囁く

煙々茸

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 その恋は、
 突然終わりを告げた。

 ……――。
「てんちょー? 店長ってば!」
「んあ……?」
「んあ? じゃないっスよ。また夜更かしですか? そろそろ店開ける時間っスよ」
 椅子でうたた寝していたせいか、尻が痛い。
「顔洗ってこないと、店長目当てで来たお客さん、ガッカリしちゃうんじゃないですか?」
 いつの間に出勤していたのか、既に白いカッターシャツと黒のスラックスに着替え、腰か脹脛まであるソムリエエプロンを身につけて準備万端な若い男性スタッフが、端整な顔に苦笑を滲ませながらこっちを見下ろしていた。
「はあ……。俺よりお前の方が客取ってるだろ」
「それはないですね。オレは女の子限定だけど、店長は老若男女問わずモテモテじゃないっスか♪ 心配無用です」
「別に心配なんかしてねーよ」
 欠伸を噛み殺しながら椅子から立ち上がり、軽くあしらう様に言葉を吐き捨ててスタッフルームを後にした。
 忠告通り、眠気覚ましに顔くらいは洗っておいた方がいいと思ったからだ。
 同じ二階にあるスタッフ専用のトイレに入り、手洗い場で簡単に顔を洗う。
 寝不足な顔も少しはスッキリしただろうか。
 濡れた顔のまま蛇口からジャーッと出続ける水をぼんやりと見つめた。
 自分のことなのに疑問形なのは、寝不足の原因となっている根本的な理由が解決していないからだ。
 いや、正確には気持ちの整理がついていないから……――。
「はあ……」
(そろそろ言い訳も苦しくなってきたかもな)
 自然と大きな溜息が零れた。
 さっきスタッフルームで一緒だった小笠原おがさわら清一郎せいいちろうを含め、他のスタッフにも寝不足の原因を事ある毎に理由をつけて夜更かししていると伝えている。
 しかし本当の理由は、ずっと想い続けていた恋が一週間前に突然終わってしまい、それがショックだったからだ。
 それも相手は――男。
(ダメだ。考えるな! もう終わった事じゃねーかっ)
 蛇口のハンドルを感情のままにガコッと下げる。
 止まった水と比例するように心を落ち着かせ、身につけている小笠原と同じエプロンからハンドタオルを引っ張り出した。
 洗濯したばかりのそれで、未だ濡れたままの顔を拭く。
「あ、店長。おはようございます」
 入れ違いでトイレに入って来たのは四十代の男。
 いつもの白いコックコートではなく、まだ私服姿のところを見ると、出勤してきたばかりなのだろう。
「おはようございます、木村さん」
「今日も店長目当てのお客さん、予約入ってますよ」
 この話の流れは、ついさっきもあった気がする。
 からかい口調に加え、どこか含み笑いを浮かべている木村さんに肩を竦めながらもあっさりとした口調で返す。
「それ、本当に俺目当てですか? うちは指名制じゃないはずなんですけどねぇ」
 ハンドタオルをポケットに押し戻し、アハハと笑う木村さんの声を背中で聞きながら、顔を引き締め、客を出迎えるために一階へと向かった。

 ここは売れに売れているホストクラブ――ではなく。
 おしゃれと優雅な時間をお届けする、カフェ付きアンティークショップ――Avec-toi(君とともに)――。

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