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シーとノースポール
しおりを挟む梅雨の合間の、紺碧色の夜空でした。
10日振りぐらいに、JR岩沼駅に降り立ちました。
もう夜の11時を過ぎていたので、他にも数人降りただけです。
愛犬シーズーのシーを入れた大きなキャリーバッグを引きずりながら、ホームの北側にあるエスカレーターに向かいました。
大きなキャリーバッグを担いで階段を登るのは、とても無理だと思い、階段を過ぎた奥にあるエスカレーターから登ろうと思いました。
ホームの黄色い視覚障害者誘導用ブロックに沿って歩きながら、ふと視線が暗闇に仄かに浮かぶ線路に向かいました。
等間隔に備えられた枕木の上に、冷たい鉄のレールが並行に連なっています。
深夜に、このような冷々たる鉄のレールに横たわり、電車がやって来るのを待つとしたら、どんな気持ちになるのだろうと思いました。
それは本当に、静粛過ぎて、自分の呼吸や心臓の音だけが聞こえるのかもしれません。
原民喜は、深夜の線路に身を横え、列車に跳ねられました。
広島の原爆の惨状を描いた「夏の花」を読んで、彼がどんな人生を送ったのか気になりました。
しかし、彼は45歳の時、大量の酒を飲み、鉄道自殺していました。
エスカレーターで2階まで上がり、通路を進み改札口を出ました。
キャリーバッグから、ようやくシーを出しました。
シーは、やっと自由になれたので、しっぽをさかんに振って、早く歩き出したいようです。
雨で濡れた駅のなだらかな階段を、シーは先になって元気よく降りました。
もう雨は上がっていました。
自宅までは、徒歩で15分ぐらいです。
アスファルトの路面は、まだところどころ濡れたままでした。
シーは先になって、気にせずどんどん歩いて行きます。
住宅街は、静粛に包まれ、私たちの足音と、シーのハアハアという息だけが聞こえます。
やがて、アサノスーパーまでやって来ました。
人気のない広い駐車場に入り、店舗の前に置かれた自動販売機で、缶コーヒーを買いました。
ちょうど自動販売機の横に、休憩用の小さな板張りの腰掛けがあったので、一休みすることにしました。
夜空を見上げましたが、まだ星は見つけられません。
シーは、携帯用カップの水を、夢中で飲んでいました。
それから、スーパーの駐車場を出て、自宅までの、一直線の垣根付きの歩道を進みました。
シーは、時々立ち止まり、垣根の下に顔を潜り込ませて、匂いを嗅いでいました。
すると、街灯に照らされて、小さな白い花たちが、庭柵を越えて歩道まで、はみ出しいるのが見えました。
ほのかな灯り浮かぶ白い花たちは、幻想的です。
近づくと、たくさんの中央が黄色の小さな白い花たちが、争うように庭柵から飛び出していました。
それはまるで、舞台から飛び出した少女のようでした。
そしてシーは、そんな少女たちの下に潜り込んで、腹ばいになってしまいました。
シー
どうしたの?
シーは、軽くハアハア言いながら心地良さそうです。
その少女たちは、どうやらノースポールのようでした。
株全体を白く覆うように花を咲かせる姿が、北極(ノースポール)の白い大地を連想させることからつけられた名前…
あら
可愛い
突然、女性の声がしました。
振り向くと、ショートカットの黒髪に、濃い青色のニット地のワンピースを着た、綺麗な女性が微笑んでいました。
すみません
こんなところで休んでしまって
ぜんぜん
可愛いわね
ショートカットの彼女は、しゃがんでシーを微笑みながら見つめました。
よく見ると、耳には白い花形のVan Cleefのピアス、首にも同じく白い花形のVan Cleefのペンダントをしていました。
シーが
この白い花が気に入ったみたいで
あら
シーちゃん
可愛い名前
ちょうどたくさん咲いているものね
シーは頭をもたげて、彼女を見上げ、しっぽをゆっくり振り始めていました。
ノースポールの中心が黄色で白い花が、彼女のピアスとペンダントと同じだと思いました。
するとシーは、彼女の膝に飛び乗るように、前足をかけました。
濃い青色のワンピースの裾が少し捲れて、膝頭が露わになりました。
あら
可愛い
彼女は、膝の上のシーの両前足を、握手するように握って、軽く上下に振りました。
よろしくね
シーちゃん
シーは、嬉しそうに彼女を見上げ、さかんにしっぽを振っていました。
それから彼女は、シーの前足をそっと包んで、優しく撫で始めました。
いい子
彼女の横顔は、奇跡のように美しく思えました。
マグダラのマリアを思いました。
イエスの足に涙を落とし、自らの髪で拭い、香油を塗った女性。
イエスの十字架を最後まで見守った人。
イエスが復活して最初に訪れた人。
じゃ
シーちゃん
またね
彼女は、シーの頭を軽く撫でて、立ち上がりました。
そして、ノースポールの咲いている庭の端から、ちょっとした階段を上がり、洋風作りの建物へ消えて行きました。
洗練されたフレグランスの香りが漂っています。
私は、彼女が消えた洋風作りの建物の蒼い玄関扉から、しばらく目が離せませんでした。
再びシーが先になって、歩道を歩き始めました。
東の暗澹たる夜空に、1つだけ輝いている星があることに気づきました。
もうすぐ七夕です。
おそらくあの星は、ベガ(織姫星)に違いないと思いました。
夜空には、ベガだけが輝いています。
その輝きが、周りの空を不思議な世界に映し換えているようでした。
また原民喜のことを思いました。
彼は、大量の酒を飲み、線路に横わりました。
夜空を見上げただろうか
星を確認しただろうか
煙の彼方に、違う世界があると思わなかったのだろうか
シーは先を歩きながら、時々振り返って、私を確認しました。
普段はほとんど振り返ったりしないのに、何度も振り返りました。
私も振り返ると、先ほどの街灯に照らされた白い花たちが、小さな塊に見えました。
彼女の残像が、幻想的な白い塊の上に、映し出されているようでした。
マリアか
シーはまた、振り返って私を見つめていました。
大きな瞳で、見つめていました。
シーお腹空いた?
家に着いたら
おいしいもの食べよう
暗澹たる空にも、ベガだけは輝いて、私たちを照らしていました。
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