メタモルフォーゼ

あとさわいずも

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1.誰も気づいていないが異変は確実に起きていた

次の瞬間、別人に……

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 このような状況では気軽に外出する気にもならず、翌日の俺は引き篭もり状態だった。
 もっとも、外出する気にならなかったのは『異変』だけが理由でもなく、むしろ昨夜の飲酒量の方がその主たる原因といえた。
 俺は特に酒が弱いということもないが、特に強くもない。ほとんど酒豪ともいえる今本と飲んでいたのでは、宿酔いにもなろうというものだ。

 俺が眠ったら変化が起きるという説を今本は唱えたが、昨夜は起らなかった。それはあの『幼虫』という店の中のことであり、飲み過ぎて少しばかり(せいぜい五分程度だったらしいが)居眠りしたのだ。
 目を覚ました俺に今本は「何か変化があるか」と問うたが、変化は認められなかった。
「ここではそんなことは起こらない、絶対に……」
 といった『幼虫』のママの口調が妙に自信満々だったのが印象に残っている。
 変化といえば、あのママが客の話に首を突っ込んで来たのは意外だった。
 これも『異変』の一つか? そう疑ったりもしたが、今本にいわせれば
「そりゃ、いくらなんでも毎回無口で無愛想じゃ、客が来る訳ないだろう。俺だって来ない」
 ということになる。
 お前ならそれでも来るだろう、と喉まで出掛かったが、それは自粛した。
 確かに口を挟んだといっても、ほんの僅かだったし、実際、思い過ごしなのだろう。

 しかし今朝——といってもほとんど正午前だが、目が覚めると自宅マンションにわずかな変化が起きているとこに気付いた。
「テレビがでかくなっている」
 俺は唸った。
 二十四インチの液晶テレビが四十七インチに変わっているのだ。しかも昨日までの物より新しい。
 さらに良く確認して見ると冷蔵庫も新型かつ大型になっていたし、飲み切った筈の缶ビールも補充? されていた。
 やはり『異変』は続いているのだ。
 とはいえこの件に感して、今さら驚くことはなかった。異変には慣れてきていたし、何よりこれは歓迎すべき変化だ。いつもこんな変化ばかりならいいのだが……。
「どうせなら、エアコンも最新型ななっていればなぁ」
 などと勝手なことをいいながら、この日の俺は『異変』についての考察から手を引いたのだった。

 翌日の日曜日も引きこっていたいところだったが、そうもいかない。
 なにせ佐川優利子とのデートだ。
 この異常事態のなかでデートというのも何かと気掛かりではあったが、さりとてこのチャンスを逃すことは出来ない。むしろこんな異常事態だからこそ、心の支えとなり得る存在を必要とするのだ。
 そしてそのパートナーとして、優利子ほどふさわしい女性はいないだろう。
 それだけに[明日、たのしみです]というタイトルのメールが、キスマークその他の絵文字満載で彼女から来たとき、嬉しさよりも(もちろん嬉しくもあったのだが)安堵感のほうが強かった。またぞろ『変化』が発生して、はじめからデートの約束などはなかった、などという事態に陥らないとも限らないのだ。
 もちろん明日、実際に彼女に逢うまでは油断ができないのだが……。

 だがそれは杞憂に終わった。
「映画、なに観るか、決めましたか」
 悪戯っぽく笑う優利子が眼の前にいる。
 映画鑑賞というのは、いかにも工夫が無いとは思ったが、初めてのデートとしては無難な選択だったし、このさい変わったことは控えようと考えたのだ。
 シネ・コンというのは非常に便利なところで、多くのスクリーンが集まっているから、あらかじめ観る映画を決めていなくても、その日その時の気分で観たい作品を選ぶことができる。
「『キャリア・ウーマン』なんかはどう」
 俺の言葉に彼女は、どこかリスを連想させる笑みを見せた。
「あー、若い女が観たがりそうな映画をネットで慌てて検索したんでしょう」
 図星だった。昨夜のメールで優利子から[おたがい観たい映画を決めておきましょう]との提案があったので、俺は慌ててネットを検索して彼女と観るべき映画を物色した結果その作品に決めたのだ。
『キャリア・ウーマン』は、ミステリー仕立ての恋愛映画で、サスペンスあり、笑いあり、感動ありで大ヒット(封切り三日間で全米新記録樹立という、よくある宣伝文句だ)したアメリカ映画だ。
「私が観たいのはね……」
 彼女が口にしたのは、日本製のアニメ映画だった。それもスタジオ・ジブリ作品とかいうような一般の人に支持されているようなアニメではなく、俺が聞いたこともないようなかなりマニアックな映画だった。
「ちょっと、ひいちゃったかな?」
 屈託のない目つきで彼女がいった。「どっちを観ます」
 正直、戸惑ったのは事実だ。でも俺の目的は彼女とのデートであって、実際、映画などどれでもいいのだ。
 俺は頷いた。
「それにしよう。君がいうとおり『キャリア・ウーマン』は昨夜慌てて女性受けしてる映画を検索しただけだし、君が観たい映画の方がいい」
『裸の時間』と題されたそのアニメは、人間の心理の奥底に潜む欲望や嫉妬、エゴイズムを鋭く抉った実験的な意欲作で、最初、その作品世界に入り込むことに難渋したが、それでも中盤あたりからは俺も夢中になっていた。

「ちょっと、御手洗いにいってきてもいいですか」
 映画が終わりロビーに向かう途中で優利子がいった。微かな恥じらいが見て取れ、それが俺の心をくすぐった。
「うん、俺もつきあうよ」
「やだ」
 何を勘違いしたのか、優利子が笑いながらロビーの方を指差した。
「あそこで、まっててくださいね」
 こういう場合、女性のトイレは長いことが多い。その間に俺もトイレに行く、という意味でいったのだが、どうやら優利子は俺が下品な冗談をいったと思ったらしい。
 ちょっとまずかったかな、と思ったが、あの表情ではそれほど不快とは考えてはいないだろう。
 男子トイレには誰もいなかった。俺はさっさと用を足すと、ロビーに出た。
 ロビーに戻ると、さっきとは何か雰囲気が違っている気がした。どこがと問われると説明のしようがないが、なにかそういう気がするのだ。
 あんなところに観葉植物なんかあっただろうか。
 ロビーに張られた映画のポスターも、さっきと違うのでは……。
「ふう」
 俺は最寄りのベンチへ腰掛けると、無意識に溜息をついていた。
(考えすぎだ。異常事態が連続してるので過剰に反応しているんだ)
 そう思う。
 実際、今観た映画にしたって、最初、作品世界に入り込めなかったのは、物語が難解だったからではなくて、別のことに意識が向いていたのが本当のところなのだ。
 佐川優利子がアニメファン?
 その意外な事実は、俺にある疑問を抱かせるに充分な材料といえる。
 彼女は一体いつから、アニメファンだったのか。もしかしたらそのことも『異変』の一部なのではなかろうか。そういう思いが頭をよぎる。
 でも、考えてみれば俺は彼女のことをそんなに詳しく知っている訳ではないのだ。自分が熱心なアニメマニアであることを会社で吹聴して回るとは限らない。いや、むしろ積極的には語らないことのほうが普通だろう。
 そんなことまで、気にしていては身が持たない。
「ふう」
 ふたたび俺は溜息をついていた。
(気にしないことだ)
 だが次の瞬間、その俺の思いは吹き飛んだ。
 トイレから出てきた、佐川優利子は全く別人になっていたのだった。
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