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プロローグ
しおりを挟むいつも来る魚屋が来なかった。
おっちょこちょいで、お人よし。太陽のように笑い、貧乏だけれど常に明るく、皆から好かれている男だ。
いつもなら、この時間には、天秤棒を戸口に立てて、遠慮なくガラリと戸をあけ、自分の世話をしている筈なのに。不思議に思い、家主は首を傾けた。
宙に視線を彷徨わせながら、薄い唇から煙を燻らす。朱羅宇の煙管は、昔々の特製のものだ。もうすぐ刻みが全て灰になってしまう。家の中には、甘い香りが漂っている。
長髪を下方で緩く縛っていた組紐が、なんの兆しもなしに解けた。眉間に皺を寄せて、解けた紐を手にした時、通りが騒がしくなった。町人達が、大きな足音をたてて、どこかへ走って行く。
『棒手振りが、無礼討ちにあったってよ!』
『魚屋だって!』
『直の奴、何しちまったんだ!』
『可哀想になぁ』
小奇麗な住処には、いつも誰かの気配があった。
訪れた事がある者は、皆、言う事が違う。
若い男だった。妙齢の女だった。いや、腰の曲がった爺だ。そんなわけない、あそこに住んでいるのは威勢のいい婆だよ。
ただ、皆が皆、口を揃えて言うのだ。見たこともないような、美しさだった、と。
「そうか。直が死んだか」
ソレは、いつも座っている火鉢の前で、憂鬱そうに息を吐いた。持っていた煙管を縁に当てて、灰を落とす。
カン
高い音が響いたと思うと、スゥ、とその姿が煙のように消えた。あとに声だけが残る。
「こんな事なら、もっと早くにこちら側に迎え入れてやるんだった」
その声も消えると、あとには、朽ち果てた小屋だけが残った。
はて。誰が住んでいたのだったか。既に、近所の者の記憶には、何も残っていなかった。
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