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第三話「土の中」

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 建物から出ると、明るい日差しが背中に降りかかってきて、稔はほっと息を吐いた。
 太陽を浴びて初めて、体がずいぶん冷えていたことに気づいた。

「そこに座って、休んでから帰ろうか」
「ああ」

 植え込みの傍のベンチに稔を座らせた大透が「なんか飲みもん買ってくる」と言って駆け出そうとした時、耳障りな金切り声が辺りの空気を切り裂いた。
 稔と大透は驚いて、柵の向こうの道路に目をやった。

「いやああああーっ!!離せ離せ離せーっ!!」
「いい加減にしなさい!!」

 泣き叫ぶ幼い女の子の腕を掴んで怒鳴る男性に、通行人が不審な目を向けて通り過ぎていく。

「え……奈村さん!?」

 大透が柵に駆け寄って声をかけた。

「と、大透君?なんでここに……」
「奈村さん、何やってんですか?」

 柵越しに会話をする二人だが、奈村の腕は暴れる娘を捕まえるのに必死で大透に答える余裕はなさそうだった。
 遮二無二暴れているみくりは、少女とは思えぬ形相で父親を口汚く罵っている。

 と、みくりの目が柵の向こうで呆然とする稔を捉えた。

 途端に、鼻を突き刺すような生臭い土の匂いが辺りに充満した。
 稔は咄嗟に口と鼻を抑えて呻いた。


「……おまえ、おっまえおまえおまえぇぇっ!!わかってるんだろうがあああわたし、わたしは、助けろ!!わたしは、被害者だぞぉぉっ」


 みくりが、稔に向かって手を伸ばして叫んだ。恫喝するような言い方で、とても、助けを求める少女には見えなかった。
 稔は口を抑えたまま愕然としてみくりを見た。
 みくりの青いワンピースに、じわじわと黒い染みが広がっていく。その黒い染みがぼとりと地面に落ちた。泥の塊だ。

 稔は後ずさった。あの泥は良くないものだ。本能的にそう感じた。

 良くない。これ以上、あれに関わってはいけない。

 稔は大透の肩を掴んで、逃げようとした。
 だが、次の瞬間、がうがうがうっ、と、獣の吠え声がこだました。

 土の匂いを塗り替える獣の匂い。

 それが通り過ぎた。すると、みくりが「っがぐっ」と、妙な唸りをあげて、カッと目を見開いた。そして、首がガクッと横に折れた。

 力を失った少女の体が、父親の腕の中にずるずると沈み込んでいった。

 みくりが意識を失うと、辺りに充満していた土の匂いも獣の匂いも、嘘のように消えて、稔は大きく息を吸った。

「……大透君、すまないね。驚かせて」

 奈村はみくりの体を抱え直すと、大透に会釈をして急いでその場から立ち去っていった。

「奈村さん、どうしたんだろう……」

 みくりは明らかに異常な様子だった。
 心配げに顔を曇らせる大透を見て、稔は溜め息を吐いた。

「あの子……、たぶん、取り憑かれてる。女の子の霊に」

 稔はぼそぼそと告げた。
 こんなこと言いたくはないが、稔一人で抱えきることも出来ない。大透はオカルトマニアではあるものの、これまでの付き合いで意外と常識と良識を持ち合わせていることはもう知っている。知り合いが取り憑かれていると知っても、はしゃいだりはすまい。

「女の子の霊?お前が、うちで見たやつ?」
「うん……俺の前にも現れるんだ。自分は殺されたって訴えてくる」

 大透は眉をひそめて、奈村が去っていった道路を見つめた。



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