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第四話「五月雨に濡れるなかれ」

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***



「……嘘だろ」

 何遍見ても、朝置いた所に傘がない。
 玄関のガラス扉の外は結構な大雨だ。

 傘を持ってきていない誰かが、持っていってしまったのだろう。
 そりゃ確かにビニール傘ではあったが、間違えないように柄に色テープを巻いていたのに、と、文司はがっくりと肩を落とした。

 去年の強風の日に壊れてしまった折り畳み傘をそのままにせず、新しいのを買いに行っていれば良かったと項垂れるが後悔先に立たず。
 雨の勢いからして、しばらくは止みそうにもない。

「はぁ……最悪だ」

 濡れ鼠になる覚悟を固めて、文司はよろよろとガラス扉に手をかけた。
 ぐっしょり濡れた制服が重くて気持ち悪い。ばしゃばしゃと水たまりを跳ね上げて走っているので、スラックスも泥まみれだろう。早く帰って洗濯機に放り込み、熱い風呂に入りたい。
 風邪だけは引きたくないものだ。先月、何度か倒れたり早退したり欠席したりしたせいで、「樫塚は病弱」と思われている節がある。原因は「霊障です」とは言えないし、入学したばかりでこれ以上出席日数を減らしたくない。

 前髪を伝って顔に流れてくる雨を拭いながら、文司は懸命に走っていた。

 ふと、雨の中を前から走ってくる小さな影が見えた。

(え? あんな小さな子が、こんな雨の中……)

 距離がある上に雨のせいでよくは見えないが、どう見ても幼児としか思えない。

(親は何やって……)

 愕然とした文司だったが、走るうちに不自然な点に気づいた。

 幼児らしき影はこちら向きに走ってくる。文司も走っている。
 それなのに、少しも近づいてこない。距離が縮まらない。

 ぞく、と寒気がした。

 次の瞬間、小さな影がふっと消えた。
 文司は思わず足を止めた。

(今のは……)

 何だったんだろう、と立ち尽くす文司の背後から、濡れた地面を踏みしめる足音が聞こえてきた。

 はっ、と振り向いた文司は、襲ってきた衝撃に鞄を落とし地面に倒れ込んだ。





***



 朝練を終えて教室に向かった石森は、入り口で待ち構えていた稔と大透に首と腹を腕で押されて廊下に引きずり出された。

「いいか、落ち着いて聞けよ」

 大透が神妙な声で言う。稔も沈鬱な表情を浮かべていた。

「樫塚が、襲われた」
「……は?」
「噂になってる。昨日、道路に倒れてるのを発見されて、救急車で運ばれたって。詳しいことはまだわからない」

 教室から聞こえるざわめきがいつもより大きいのはそのせいか。
 石森は数瞬沈黙した後、稔と大透を振りほどこうと暴れ出した。

「どこ行くんだよっ!!」
「職員室!!」
「もうすぐ先生来るって!! 落ち着いて教室に入れ!!」

 こうなる気がしていたので、稔と大透は二人がかりで石森を抑え込んだ。今朝、学校に来てみたら、クラスの奴が先生達が話しているのを聞いたと不吉な噂をしていた。まさか、と思ったが、実際に文司はまだ登校してこない。
 廊下で揉み合っていると、担任がやってきて稔達を見て気まずそうに眉をひそめた。それだけで噂が真実なのだと悟ってしまい、石森はカッと頭に血が昇った。

「先生! 何がっ」
「教室に入って席に着け」

 促されて、石森は顔を歪めながらも大人しくそれに従った。
 担任の林が教壇につくと、ざわめいていたクラスメイト達も神妙な顔で黙り込んだ。

「もう聞いているかもしれないが、昨日、樫塚が帰宅途中に襲われて怪我をした。犯人は捕まっていない」

 クラス内に緊張が走った。

「幸い、怪我自体はそこまで酷くないらしい。ただ、倒れたまましばらく雨に打たれていたようで、熱を出しているそうだ。二、三日は来れないだろう」

 稔はちらりと石森の様子を窺った。顔を俯かせて、握った拳を机に押し付けている。

「先日、高校生が襲われた事件と同一犯かはわからないが、皆十分に気をつけるように。しばらくの間、帰りは一人で帰らないようにしなさい。今日は部活は一斉休みだ。帰ったらなるべく家から出ないように」


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