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21.矢印の行方
しおりを挟む最初はただ、新しく加わった仲間に声をかけてくれているだけだと思っていた。
それから話をよくするようになって、一緒にお出かけする事もあって。佐奈は段々と彼に惹かれていった。
時折、見え隠れする好意の欠片。人としては多分好きでいてくれている。そう感じる事はあっても、その好きが自分の好きと同じだなんて、そんな厚かましい事はさすがに思えなかった。
でも、ひょっとしたら。
昨日のあの態度は。
少しぐらい期待してもいいのだろうか。
勇気を出して好きですと伝えたら、ひょっとして、嬉しい返事があると。
――もっと、滝川さんを知りたい。
そう思ったらすぐにでも動きたくなって。
佐奈は明日の帰りにと、一大決心をする。
翌日。
ほぼ会社に到着した頃、滝川さんを見つけた。
なんだかご機嫌のよう。佐奈も嬉しくなって、急ぎ足でビルに入る。……が、喉元まで用意していた挨拶は使う相手を見失った。エレベーターの前には数人並んでいるのに、彼の姿がない。
階段を使ったのかな?
追いかけても追いつける気がしなくて。佐奈は丁度やってきたエレベーターに乗り込んだ。上階から降りれば会えるかも、なんて期待しながら。
人目につかないよう、十一階でエレベーターを出た。その足で階段を降りる。
十階にまだ彼の姿はなく、ガラス扉も開いた形跡がない。佐奈は人影を探して、下の階を覗き込んだ。
あ、滝川さん!
声を掛けそうになって、佐奈は階段にしゃがみこんだ。
急に緊張して。帰りの事を思うと、なんて声をかけたらいいのか分からなくなってしまったのだ。
滝川さんはすでに八階にいる。悩む時間なんてないのに!
ええい! 会ったら、なんか言葉が出るはず!!
佐奈は覚悟を決めて立ち上がった。
一秒一秒がスローモーションにかけられたように、とてつもなくゆっくりと流れる。
こういう時、体感ではとても長く感じるというのは本当だった。たったの一分が、永遠のように感じると。
――そう、知っていたけれど。
どれだけ待っても、その瞬間は一向に訪れない。
佐奈はもう一度下を見た。
滝川さんはまだ八階にいる。……うそ。あれから少なくとも三分は経ったと思うけど。
八階にあるのは女性向けサービスの研修施設。
たしか新人の技能生が出入りしているはずだが、研修施設である為入れ変わりが多く、ほぼ佐奈達とは交流が無い。それでも時折一緒になるエレベーターでは、美を追求していそうな綺麗な女性ばかりだったという印象がある。そんな場所に彼は今も留まり、何故か下を気にしている。
その姿はまるで自分と同じように。
下の階から来る人を待っているかのように。
すぅっと浮かれていた心が沈んでゆく。
どこまでもどこまでも、まるで底が無い沼のように、どこまでも。
知りたいと思った、滝川さんの心。
でもそれを知るのは急に怖ろしくなって。佐奈はゆっくりと後ろに身を引いた。
――やっぱり勘違い、だったんだ。
自分の事を、女の子として好いてくれているなんて。
滝川さんには気になる人がいる。
朝からそわそわと、階段でその人が来るのを待つぐらいに。
足音が響かないよう、静かに歩き出す。
涙は出なかった。
今から仕事という事実と、社会人の矜持のおかげだと思う。
登った距離は僅か二階分。
いつもよりすごく少ないのに、足は、とても重かった。
それからの佐奈は徹底的に彼を避けるようになった。
あれだけ無理だと思っていた朝も早く出勤するようになり、帰りは出先からの直帰を好んだ。
十ニ階で声が聞こえてきても決して顔を上げる事をせず、話しかけられそうな気配を感じたら、さり気ない用事を装ってその場から離れる。心を無にして動けば、それは難しい事ではなかった。
会話をしなくなって五日が過ぎた。
土日を挟んだとはいえ、以前は会話が無い日の方が少なかったから、たった五日でもそれはとても長い時間に感じられた。これから一週間、一カ月と期間が長くなれば、佐奈は自分がどうなってしまうのかわからなかった。だから、仕事に没頭する。忙しければ何も考えなくてすむ。
つい仕事を詰め込み過ぎて、残業したある日。
佐奈は階段を降りていた。そわそわと誰かを待つ彼の姿が浮かぶから、本当は使いたくなかったけれど、エレベーターが点検中だったのだ。仕方がない。
とぼとぼと落ちる気分と一緒に、一段ずつ階段を降ってゆく。
金曜日の夜は殊更残業する人が少なく、ビル自体がしんと静まり返っていている。足音は重く響き、佐奈の心にもずっしりと、のしかかってくるような感じが嫌だった。
ちょうど十階に来た時、顔を上げた。
見える斜め前の資料室。そこが、始まりだった。
あのきっかけさえなければ、きっと新しい同僚として、普通に仕事していたのだろう。
帰りに話しかけられる事もなく、こちらも、わざわざ話しかけようとせず、ただ普通に。
そう思うと、時間を巻き戻したくなる。膨らんでしまった気持ちは佐奈一人では抱えきれなくて、どうしたらいいのか分からない。
片想いのままでいいと思っていた。
仲のいい友人として、一緒に居られるだけで幸せだと思っていた。
だけど、一度望んでしまったその心が手に入らないのだと突き付けられると、もう彼と話をする事が怖くなってしまった。だって、わたしはあの時と同じようには笑えない。そして優しい彼はきっとその異変に気がついてしまうだろう。そうなったら。
佐奈は首を振った。
彼を煩わせる事だけは絶対に嫌だ。
「滝川さんの、バカ……」
どうして自分に話しかけたのだ。
どうして笑ってくれたのだ。
どうして、どうして。
責めるのはお門違い。
勘違いをしたのは自分。でも。
「殺し屋なら、すっぱりとヤッてくれればいいのに」
「……物騒発言。どこから突っ込めばいい?」
呆れたように響いた声。
ここ数日、聞くだけで苦しかった声。
「た、滝川さ……」
「よくもまあ、避けまくってくれたな。どう料理してほしい?」
「ひえ、わたし美味しくないです!!」
滝川さんは微妙な顔をして、「俺にはうまそうに見えるけど」と訳の分からない事を言う。
「あ、わたし、今日は急いで……」
「その手には乗らん。前に逃げられてへこんだから」
「もう嘘だとばれている!?」
「佐奈は正直すぎるから、嘘はやめなさい」
佐奈。
まだそう呼ぶのかと、佐奈は恨めしそうに彼を見る。
「なに。その顔は」
「名前。もう名字がわかったんだから、そっちで」
「なんで。嫌だよ」
「なんではこっちのセリフ! どうして名前で呼ぶのよ!!」
「っ! そんなの、呼びたいからに決まってるじゃないか!」
「訳わかんない!!」
「他の男が佐奈佐奈呼んでるのに、なんで俺は呼べないんだよ! 腹立つじゃないか!!」
「腹が立つ理由がわからない!」
「それを言わせるのか!」
「言わせます!!」
仁王立ちして見下ろせば、滝川さんは「うっ」ひるんだ表情を浮かべる。
……残酷すぎる。好きな人に威圧感しか与えられないなんて。
佐奈は悲しくなって、しゅんと眉を下げた。居た堪れない。
「もう帰って良いですかぁ……」
「だめ。今日は帰さない」
「なんでですかぁ……」
「今逃がしたら、絶対もっと避けられると思うから」
正解だ。
もうこれは最後の手段だけど、転職さえ視野に入れる必要があるかと思っていたから。
佐奈は青菜のように萎れて、階段に座り込んだ。
「滝川さんは酷いです。鬼です。イケメンの悪いヤツです」
「けなされてんのに、一部褒められるってこれ如何に……」
「事実は事実ですから」
「佐奈はそう思ってくれてるの?」
「思ってますよ。優しい笑顔のイケメンさんだって」
「…………」
無言にちらりと見上げれば、手を口元にあてて横を見ている滝川さん。少し、耳が赤い? 照れてるの? 言われ慣れてるくせに。
やさぐれた気持ちで彼を見つめていると、滝川さんがコホンと咳払いをした。
「……じゃあ、どうして、その優しいイケメンから逃げるんだよ」
「逃げますよ。ヤられたくないから」
「ヤられって……俺、そんな見境ないように見える?」
「見境ないですよ。前、八人ヤッたの忘れました?」
「八人!? 何の話!?」
「忘れてる。映画の時、文房具見てた時ですよ」
佐奈はいじけた。
自分にとって楽しい一日を忘れられているのは、正直へこむ。
楽しかったのは自分だけだったのかと、思い知る。
ただヒントが多かったおかげで、滝川さんも思い出してくれた。
「あ!! あの売れない芸人の!?」
「スマイルキラー滝川です。被害は今も拡大中ですよ、きっと」
「おぉ……、無意識ながらそれはいけないな……」
慄く滝川さんに「そーですよ。わたしも危なかったんですから」と言えば、彼は何故かこちらを凝視した。
「それって、もうちょっと、ってこと?」
「そ、そうですけど……。あ。でももうわたしには効きませんよ!! 鎖帷子装備済みですから!!」
「外して。いますぐ、外して」
「嫌ですよ!!」
「だから、どうして!」
「だって好きになりたくないから!!」
言って、滝川さんが息を呑んだ。
みるみるうちに、苦い物を口に放り込まれたように眉根を寄せる。
佐奈は慌てた。
「ち、違うんです!!」
「……何が」
「だからその」
「やっぱり、俺みたいなチビと一緒にいるの嫌なんだろ」
「は?」
「悪かったな、付き纏って。うっとおしかっただろ」
意味が分からない。わたしはそんなこと、一度だって思わなかった。
たしかに小柄である事は分かっている。だけど、それがどうしたというのだ。
滝川さんは滝川さん。小柄であっても、それは変わらないというのに。
無言は肯定。
滝川さんの表情が暗くなり、佐奈は焦った。
何か言わねばと、慌てた。
「た、滝川さんこそ、わたしみたいなデカイ女いやでしょ!?」
思わず出たのは、ずっと気になっていた本音。
背が高い事実はなくならないのを分かった上で、封印していた想い。
佐奈は痛む胸を押さえて、俯いた。
滝川さんを、見たくない。図星を突かれた顔など見たら、泣きそうだった。
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