メフィストフェレスの心中

まさみ

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二話

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時任彼方との出会いは大学1年の時。
「ねえ、うちの大学に時任彼方がいるんだって」
「誰それ」
「うそっ知らないの、ピアニストの時任彼方」
「親も有名な音楽家だとかでメディア露出も多いよね」
「芸能人ばりの美形だよ」
「子供の頃から国内外のすごい賞総ナメにしてるんだって」
「なんで音大行かないの、ウチフツーの大学だよ」
「そんなの本人に聞いてみなきゃわかんないよ、天才だから私たちとは考えること違うんじゃない?」
アイツと出会ったのは心理学の講義中の階段教室。たまたま隣に座ったのが彼方だった。
「ここいいか」
「どうぞ」
涼しげなテノールに目も向けずノートの整理を続ける。
隣からまたしても声がする。
「熱心だな、まだ始まってもないのに」
「前回の要点をさらってるだけだ」
興味津々、俺の手元を覗き込む。そこで初めて隣に目を向け、少し驚く。時任彼方の顔と名前はいやでも知っている、学内一の有名人だ。
音楽家の家系に生まれ、幼少時からピアニストとして活躍し、何故か音大を蹴って普通の大学に進んだ変人。
おまけに本人も彫り深い美形、言動は掴み所なくエキセントリックときて、話題性には事欠かない。時任に近付くのが目的で同じ講義を選び、隣に座りたがる女子もいるらしい。
そんな彼が珍しく一人でいる。俺はノートをとる手をとめ、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「あとから誰かくるのか?」
「誰が?」
「……友達とか」
「取り巻きって言いたそうな顔だな」
時任が意味深にほくそえむ。そんな表情は本当に悪魔的だ。メフィストフェレスが受肉したらきっとこんな感じのはず。
「わかってるならいい。真面目に講義を受けたいんだ、邪魔しないでくれたら文句はないよ」
誰もが時任の隣に座りたがる。ただし俺は別として。コイツは常に場の中心で人に囲まれている。俺はなるべく一人でいたい。
学内に友人がいない訳ではないが、大勢で騒ぐのはどうも性に合わない。
それなりにソツなくやれている自負こそあれ、一人で本でも読んでるほうが余程気持ちが安らぐ。
初対面でギスギスしてしまった。時任に対しては良い印象をもってないが、だからといって皮肉ってどうする。
たまにキャンパスで見かける時任は男女問わず大勢を侍らし、ともすると自分の分のコーヒーまでファンに貢がせ、その姿は時として傲慢に映った。
否、貢がせるというと語弊がある。
実際はファンの女学生自ら、時任の関心を買いたいが為に献上したのだ。
女子大生が自腹を切った缶コーヒーを時任は至極当たり前のように受け取って、プルトップを引いて飲み終えた後、空き缶になったそれをわざわざ彼女の手に戻す。
女子大生は待ってましたと缶を逆さにし、底からたれた一滴をもったいなさそうに啜るや、間接キスゲットだと友達とじゃれあい騒ぎ立てる。
コイツの周りはそんな人間ばかりだった。
取り巻きが自分の挙動に一喜一憂するのを、時任は死にぞこないの蝉でも見るみたいな酷薄な笑みで眺めていた。
俺のように内省を好む人間からすれば、あまり近付きたくない人種だ。
「特技は人間観察。あたり?」
突然の指摘に怪訝な顔をする。
こちらに身を乗り出して時任が悪戯っぽく微笑む。
「よく俺を見ているだろう」
「自意識過剰だな」
「昨日目が合ったぞ」
「自販機の前に立っていてコーヒーが買えなかったのなら覚えているが」
「後出しはよくないぞ、一声かければすぐどいたのに」
「盛り上がっていたからな。邪魔したくなかった」
さわりたくなかった、というのが正直な所だ。
「自分を殺して空気を読むのが好きなのか。マゾか」
「内輪の空気を壊すのに快感を覚える趣味はないんでな」
「同調圧力に屈する日本人」
「好きに言え」
時任は万事この調子だ。ほぼ初対面の俺にもまるで遠慮なく話しかけてくる。
「神経質な字だな」
「邪魔するならよそへいけ」
「前回の講義出てないんだ、見せてくれ」
「もっと読みやすいノートをとってるヤツに頼んだらどうだ、みんな喜んで貸したがるんじゃないか。サインを入れてやればいい」
意趣返しにやりこめれば、時任が愉快そうに頬杖を付く。
「さっきから落ち着かないな」
「気のせいじゃないか」
「パーソナルスペースが極端に広いとか」
「殆ど初対面の他人とおしゃべりを楽しめるほど社交的じゃないだけさ。相手が有名人でもな」
時任が軽く頷いて受け流し、俺の手元のルーズリーフを素早く没収する。
「何」
「クイズをだしてやる」
「付き合いきれない」
「まあ待てって、俺の暇潰しに貢献したらいいことあるぞきっと」
あきれて移動しかけたら、申し分なく長い脚で通せんぼされる。
時任は威風堂々大胆不敵に、俺のパーソナルスペースを犯す。
シャーペンで何かを書き付けたルーズリーフを再び放ってよこす。反射的に受け止めれば、手書きの五線譜に音符が踊っていた。
「なんだこれ」
「俺の一番好きな曲。何だかあててみろ」
「ピアノもないのにどうやって」
「頭の中で弾け」
「無茶いうな、ピアノなんかさわったこともないのに」
「学校の音楽室にあったろ」
「誰も彼もお前みたいに頭の中に音楽が流れてるわけじゃない」
憮然と否定すれば、時任は喉の奥でおかしそうに笑ってだらけた頬杖を付く。
「凡人の証明だな。可哀想に」
「そっちこそ、素人相手に知識をひけらかして楽しいか」
「楽しいね、お前の怒る顔を見れただけで得をした。昨日はすぐに目をそらされたが、今日はちゃんとこっちを見てる。あんなに近くにいたのにキレイに無視して、眼鏡の度があってないんじゃないか心配したんだぞ」
「手のこんだ嫌がらせだな」
コイツと話してると疲れる。不快感と綯い交ぜの苛立ち。
キャンパスで見かけたことはあれど、まともに話すのは今日が初めてというのに、時任はとてもなれなれしくて距離の取り方がわからない。
指に挟んだシャーペンを器用に回しながら、時任が微笑む。
「名前を聞いていいか?」
「……イカルガヨウ」
「まさか本名?」
「ペンネームなんてないからな」
「出身は奈良か」
「ご名答」
断る理由を考えるのが億劫で正直に答えたら、時任は舌の上で俺の名前を転がしてさらに聞く。
「なんて字を書く」
仕方なくルーズリーフの下端に「斑鳩遥」と記す。
「遥でヨウって読ませるのか、面白いな」
「逍遥って言葉を知らないか?あちこちをぶらぶら歩くことだ」
「漠然として掴み所がないな、徘徊とどうちがうんだ」
「語感だろ。お前こそ本名か」
「覚えやすくていい名前だろ、上と下好きな方で呼んでいいぞ」
「席を移ってくれないか時任」
「断る」
反対側の列を指さし、できるだけ穏便に促すも、素晴らしい笑顔で即却下される。
「よろしくなはるか
「名前……」
「字は間違ってないだろ?こっちのほうが呼びやすいし響きが好きだ」
「現役ピアニストは音の好みがうるさいな」
それが時任彼方とのファーストコンタクトだった。
結局俺たちは二人並んで講義を受けた。
彼方は途中で飽きたのか、だらしなく頬杖を付いて俺の横顔をニヤニヤ眺めはじめ、集中力を欠いた俺はといえば、その日の内容がちっとも頭に入ってこなかった。

エレベーターがベルの音をたてて停止、静かにドアが開く。11階に到着、ドアを開ける。
時任の実家は裕福だ。このフロアはピアノの練習用と居住用を兼ねている。時任の両親から預かった合鍵を使ってドアを開け、室内へ入る。
玄関は薄暗くがらんとしている。インテリアは全て持ち出されたあとだ。時任の遺族はまだこの部屋を引き払ってない。
理由は明白、「アレ」があるからだ。
モルグのようにひんやりした空気が漂っているのは、ここが一種の保管庫だからだろうか。
時任の部屋は洋式だから、玄関で靴を脱ぐ必要がない。土足でフローリングを踏んでリビングへ抜けると、巨大なグランドピアノが中心に鎮座している。
黒い光沢帯びた荘厳なフォルム。持ち主が世を去っても変わらずそこに在る存在感。
「久しぶり」
なんとなくピアノに声をかける。
無機物と久闊を叙するなんて、意図せず感傷的になっているのだろうか。
事前の想像に反し、床には鑑識の検証を示す白線が引かれてない。
推理小説の読みすぎを恥じたものの、考えてみれば当たり前だ。時任はバスルームで死んだのだ。もしこれが殺人事件なら、ピアノから犯人の指紋が検出されるかもしれない。そうすれば時任の自殺に寄せる大衆の関心も、もう少し長持ちしたかもしれない。
不特定多数の恋人を部屋に上げ、倒錯したセックスに溺れた時任。
ピアノの上で抱かれた話を聞かされた時はどんな顔をすべきか迷ったものだ。アイツは俺をからかって反応を見るのを楽しんでいた。
結論から言うと、時任はとんでもない性悪だった。

あの日から時任はなにかと俺に付き纏い、ちょっかいをかけるようになった。
教室でも食堂でも図書館でも、アイツは俺の隣に座る。こっちが無視しようがまるで気にせず、嫌味も受け流して追ってくる。
「何がしたいんだお前は」
「友達になりたい、なんてこっぱずかしいセリフを言わせたいのか」
「俺と?友達に?利益がないだろ」
「利益の有無で友達を選ぶのか?変わってるな遥は」
「お前のまわりにいる連中にならったまでさ」
「アレは友達じゃない」
「じゃあなんだ」
「俺のファンかな。彼らは好きで尽くしてくれるんだ、期待を裏切る振る舞いはできないだろ」
「女の子に缶コーヒーを買わせて、挙句捨てに行かせた男が偉そうに」
「喉が渇いたって呟いたら拡大解釈されたのさ」
時任は万事この調子だ。話していると徒労感が募り行く。
一体俺の何がそこまで気に入ったのか皆目不明だ。
内心辟易していた。時任が俺に構いだしたせいで、ほっとかれたファンの僻みの矛先がこちらに向く。時任のファンは大学で一派閥を形成しており、男女とりまぜて数十人いたからとても困った。
最初はささいなことだった。
すれ違いざまわざと肩をあてられたり足をひっかけられる程度なら可愛いもので、ゼミの連絡網で俺だけ抜かされることもあった。
「どうしたんだその染み」
「コーヒーを零した」
「なんだ、案外間抜けだな」
時任は人の気も知らず笑い、濡らしたハンカチでシャツの裾を染み抜きしながら、俺はますます不機嫌になる。
俺の服にコーヒーをかけたのは、時任が以前遊んで捨てた女の子だったが、恨み言をいうのはやめにした。自分が惨めになるだけだ。
「見せてみろ」
時任が俺のシャツを掴んでじっくり見る。長い睫毛に沈んだ双眸は神秘的な灰色。確か北欧系のクォーターだと聞いた。白皙の肌と均整とれた長身はどこにいても目を引く。
モノトーンを基調にしたファッションは洗練され、モデルのような雰囲気を纏っていた。
だがなにより印象的なのは、手だ。
先入観に縛られがちだが、ピアニストの手は華奢ではない。毎日固い鍵盤を叩いてるのだから、どうしたって太く固くなる。
現に俺のシャツを掴む手は長く節くれて、逞しい靭やかさを備えていた。
努力なんてしたことなさそうなノーブルな美貌を裏切り、日々の研鑽の成果とプライドで鎧われた手。指先に冠した爪のカタチすら端正で、鍵盤を傷付けないように切り整えられている。
「この程度気にするな、斬新な模様と思えばなかなかイケる」
「参考にならないアドバイスどうも」
自分でいうのもなんだが、俺は至って地味な容姿だ。
和風の一重瞼に無個性な銀縁眼鏡、170センチの細身ときて、時任と並ぶと引き立て役にしかならない。
俺自身は時任を露骨に迷惑がっていたが、周囲はそうは思わない。人気者を独り占めする勘違い野郎と後ろ指をさされる。
その突出した容姿と才能に皆が熱狂し、誰も彼もが振り向かせたいと執着する時任をひそかに嫌っている事実がばれたら、身の程知らずと罵られ、さらに複雑な立場に追い込まれる。
いずれにせよ、俺の望む平穏な大学生活には終止符が打たれる。
彼方は周囲の反応と俺がおかれた立場を比べ、愉快犯さながら面白がっている節があった。なんとも美しく傍迷惑な疫病神だ。
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