メフィストフェレスの心中

まさみ

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七話

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最期の夜に起きた事は、全部鮮明に覚えている。

遥の肩を抱いてマンションに到着する「ほら、着いたぞ」上下に傾ぐ視界。玄関に入った「服は脱げるか」「ああ……」寝室のベッドに無造作に投げ出す。泥酔した遥は朦朧としてろくに抵抗もできない「首元を寛げた方が楽になる」「手間をかけるな」「気にするな、腐れ縁だろ」器用にネクタイを解いてシャツの襟元を開く。

漸く異変に気付くが遅きに失す「待てよ時任」ベッドに飛び乗って服のボタンをむしる、首筋に噛み付くようなキスをする「はなせ、人を呼ぶぞ」「防音設備は完璧だ。第一助けがきたところでどう説明する、俺とお前の関係を全部暴露するのか、痴話喧嘩で片付けられるな」胸板をなめて唾液の筋を描く。

わけもわからず抵抗する遥の背広を手早く脱がす。
恐怖と嫌悪に慄く顔の横にスマホを投げ、嘲笑と共に挑発。
「婚約者にSOSを送るか?代わりに通報してくれるかもしれないぞ」
「頭冷やせよ、たちが悪いぞ」
「どうして?傷付けたくない?汚点を知られるのが怖いか」
泥酔した身体は言うことをきかず、体格と腕力で上回る俺に、いともたやすく押し倒される。
「俺とやったこと、相手にばらされたくないだろ」
耳元に吹きこんだ脅迫が気力を削ぐ。
「学生時代からずっと時任彼方のおもちゃにされてたなんて、相手が知ったらどう思うだろうな」
「俺は悪くない、そっちが勝手に」
「合意の上だ。共犯だ。一人だけ逃げるな」
独りだけ逃げるのは許さない。
「一回でいい、これっきりにする」
どうしてだ時任彼方、俺はこんな惨めで脆くて滑稽で情けない人間じゃなかったはずだ、傲慢なほど自信にあふれてお前や皆を見下してたはずだ、なのになんで取るに足らないお前なんかに縋り付く、抱かせてくれと懇願までする。
「頼む遥」
そんなの好きだからに決まってる。当たり前じゃないか。
世界中のだれよりお前に惚れてるから以外に答えがあるか。
シーツに投げ出された右手のひらの古傷を唇でなぞる。
酒瓶で裂かれた傷痕が仄かな熱を帯びて色付く。
遥がこれから受ける苦しみを少しでも紛らわせるためにCDをかける。去年収録した俺のアルバムだ。遥は全然リラックスしてない。ただただ嫌悪と恐怖に顔と全身をこわばらせ、往生際悪くベッドから逃げ出そうとする。足を掴んで引き戻し、シーツに磔にする。アルコールが回って弛緩しきった身体はろくに抵抗できず、俺の指と舌でどこもかしこも蹂躙される。
「痛ッぐ、ぁぐ」
挿入の経験のないアナルに指を突き立て、中を掘り進めていく。
「やめてくれ、吐きそうだ……気持ち悪い……」
遥が泣く。
弱々しく啜り泣く。
「痛ッぐ、やめ、ときとっ、あぁッぅ」
力ずくで脚をこじ開ける。ろくにほぐしもせず容赦なく突き入れる。大きく逞しい手で遥の目を塞ぎ、慈悲深い暗闇をおろす。
俺が一番好きなベートーヴェンの『熱情』、第三楽章が大音量で響き渡る中遥を犯す。シーツを掻き毟って悶える身体を引き立て、後ろから挿入する。手加減はできない、十年間我慢した、もう限界だ。
誰にも渡したくない一心で、強引に身体を繋げる。
遥が死に物狂いで嫌がり痛がるのを無視して、奥の奥まで抉って前立腺を叩きまくる。
遥はいやでも俺の手と音楽に欲情する、そういうふうに時間をかけて躾けたのだ。
「なんっ、で、汚いいやだ時任。気に障ったなら謝る、俺が悪かった頼む許してくれ」
欲しいのはそれじゃない
俺にはこれしかないのに
できた曲をまだ聴かせてないのに逃げるのかお前ひとりだけ幸せになるのかどこの誰とも知らない女と余生に入るのか
眼鏡が弾け飛んで床ではねる、身体を引き裂く激痛に遥が泣き叫んでシーツを掴む。
「時任、ッあっぐ、すまない、俺ッが、全部俺のせい、ぁッァ」
遥は勘違いしてるがアセクシャルだってできないことはない、俺が懇切丁寧に刺激してやれば勃ったようにやる気になればできるのだ。とても根気はいるし、コイツにとっては屈辱的かもしれないが、最初から行為が成立しないと見切りを付けるのは早すぎる。
俺のピアノを流しながら女を抱くのか。どんな顔で。どんな姿で。
想像もしたくない。
「ぁッ、あッ、うっぁっ、あぁッあ時任、やっぬけッ痛ッぁ」
俺は気持ちよくすることでしかお前を繋ぎ止められないのに、お前が人生のパートナーに選んだのは、身体の繋がりを否定しなお受け入れる同類だった。
最悪だ。
これ以上の裏切りがあるか。
俺が俺じゃなけりゃよかった、お前がお前じゃなけりゃよかった、俺はお前になれないのにお前なんか好きにならなけりゃよかった
わけもわからず泣いて謝る遥、何度も強制的に絶頂させられ果てた顔を手挟んで訴える。
「気持ちいいって言えよ」
助けてくれ。
許してくれ。
どうか、
遥の額に額を合わせ、心の底から懇願する。
「言ってくれよ、頼むから」
嘘でもいいから、どうか。

凌辱は夜明けまで続いた。
精魂尽き果てた遥は裸のまま隣で寝ている。
先に起き出した俺は服も着ずに未完成の楽譜を引っ張り出し、震える手に持った鉛筆で、最後の音符を書き込む。
十年越しの曲が完成した。
タイトルは決まっている。
早く遥に聞かせたい。
コイツがどんな顔をするか、早く見たい。
寝室の窓にはブラインドがおりている。ブラインドの隙間から細く斜めに注ぐ陽射しが、乾いた白濁にまみれた遥の肌を縞模様に染める。
「遥」
名前を呼ぶ。
ベッドに起き上がり、意識の途切れた遥に寄り添って寝顔をのぞきこむ。
学生時代、何度もコイツに目隠しをさせた。
視界を奪われた遥は不安そうだったが、結局俺の命令に従って、マスターベーションをしろと言えばしたしフェラチオにもけなげに耐え続けた。
もし今、抱かせてくれと頼めば抱かせてくれたのか。
俺の知らない女と結婚を決めたお前が。
答えはすぐにでた。ありえない。斑鳩遥は時任彼方を決して好きにならないし、正面切って抱かせてくれと頼んだら幻滅したに決まってる。
コイツは俺の中にメフィストフェレスの幻を見ている。
本当の俺は悪魔でもなんでもない、ただの矮小な俗物だ。ちっぽけな男だ。
疲れ果てた遥の寝顔を見守り、短い前髪をかきあげる。
お前に目隠しをさせた理由は単純だ。
目隠しをしていれば、唇を寸前まで近付けてもわからない。
「……馬鹿だな。どのみち手が離せないのに、本当に馬鹿だ」
両手が鍵盤で塞がってるのに、何を企んだのか。
もしあの時コイツにキスする度胸があれば、何か変わっていたのか。
鍵盤に触れているよりコイツに触れてる方が心が安らぐなんて、時任彼方失格だ。29年間付き合ってきた自分に愛想が尽きる。
遥の瞼が微痙攣し、うっすらと目が開く。
「起きたか。身体は……」
焦点が合わない眼差しが宙をさまよい、俺を見上げて凍り付く。
ベッドを下りた遥が覚束ない足取りでトイレへ直行する。全裸のまま服も着ず、トイレになだれこんで便器に吐く。
俺が一晩かけて出した物、入れた物を全部掻きだして吐きだそうとする。
「大丈夫か」
「くるな」
ジーンズだけ穿いて追い縋る俺を制し、便器に取りすがって嘔吐。青を通り越して白くなった顔色。
「遥……」
弱々しく名前を呼ぶ。
「気持ちが悪い。痛いだけだ」
こんな事がしたかったのか?
その程度の俗物か?
遥の目が、俺にそう言っていた。
学生時代に部屋に連れ込みピアノの上で犯した連中みたいに、俺の事もそういう目で見てたのかと無言でなじる。
便器に顔を突っ込んで死ぬほど苦しげに吐き続ける遥。たまらず駆け寄って背中をさすろうとすれば、乱暴に振りほどかれる。
「力ずくで気が済んだか。目を背けるな。お前がしたことをちゃんと見ろ」
髪の毛はぐちゃぐちゃに乱れ、全身乾いた白濁に塗れ、唇で食まれた鬱血のあと。
一晩中抱き潰した足腰は立たず消耗しきり、目の下にはべったりと憔悴の隈が浮く。
遥の目には極大の嫌悪と軽蔑。
「お前がブチ壊したんだよ、時任彼方」
全身で俺を拒絶し、吐き捨てる。
何も言い返せない。
遥は被害者で俺は加害者、カクテルに一服盛って部屋に連れ込み犯した卑劣な強姦魔だ。俺たちは共犯なんかじゃない。遥は被害者で、俺は加害者だ。
俺はコイツの友達じゃない。
斑鳩遥の人生を無茶苦茶にブチ壊した、底なしのクズだ。
遥はもう何も言わず、俺を無視してバスルームへ消えていく。重たい脚をひきずり、壁に寄りかかって辛うじて歩く姿から、無茶なセックスの代償が読み取れた。
セックスじゃない。
レイプだ。
人のことを考えない、独りよがりな、自慰のような。
俺はアイツの身体を使って自慰をした。
今までずっとそうだった。
俺がセックスだと思っていたのは、ただの独りよがりなオナニーだった。
「遥」
謝っても許されない。俺なら許さない。どうしたらよかった、誰も好きにならないできないお前にほかにどうしたら伝えられた、ピアノが弾けるのにお前は弾けないお前だけは弾けない、どんなに心をこめたって感情を叩き付けたってすれ違いで届かないじゃないか。
「すまない。俺がわるかった、許してくれ」
か細い謝罪はシャワーの音にかき消された。遥を追ってバスルームに行こうとして躓き、倒れ、床を這いずってリビングへ行く。そうだ、俺にもまだできることがある。
震える両手を励まして蓋を開け、完成したての楽譜をセットする。
アイツの為に弾こう、心をこめて弾こう、後悔なんてしても遅いがただ弾こう。
聞いてくれ遥。
お前の為に作った、お前に捧げる曲だ。

「あっ、が」
途中で腕が滑って蓋が落ちる。ピアニストの命の手が鍵盤と蓋に挟まれ激痛が走る。蓋にプレスされた手に遥の右手がだぶる。

『どうして庇ったんだ』
『うるさいな、勝手に身体が動いたんだよ』
『俺のこと嫌いじゃなかったのか、嫌いなヤツを咄嗟に庇うなんておかしな話だな』
『…………』
『素直になったほうが可愛げあるぞ』
『……お前のピアノが聴けなくなるのはもったいないだろ』

遥。

元恋人に襲われてから数日後、冗談ぽく尋ねた俺に根負けし、遥は言った。はにかむような笑顔で。
ほんの少しだけ心を許した、友人を茶化す眼差しで。

なんで忘れていたんだ。
なんであんなひどいことができたんだ。
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