水子のココロ

まさみ

文字の大きさ
上 下
1 / 1

水子のココロ

しおりを挟む

病院て気が重い。
特に産婦人科は。

なんていうか、明暗がハッキリ分かれてる。幸せと不幸せがグループ分けされてて居心地悪い。油と水みたいに、平行線の空気が二層になってるのだ。
待合室は清潔で快適、緑色のソファーは弾力があってプリーツスカートに包んだお尻がほどよく沈む。
産婦人科に来るのは初めてだから他と比べてどうこう言い辛いけど、ソファーの島々の間にマイナスイオンを醸し出す観葉植物がセンスよく配置されて、存外雰囲気は悪くない。
それも周りを見なければの話だ。
木製のラックには絵本や週刊誌、ひよこクラブだかたまごクラブだかの育児雑誌が大量に挟まれて、幸せそうな若い女の人が読み耽ってる。大きく膨らんだお腹の妊婦さんが楽しそうにお喋りする横で、まだ幼稚園にも行ってなさそうな男の子が指をしゃぶってる。
反対側のソファーにはプリンカラーの髪によれたセーターを着たギャルっぽい人や、暗い顔で俯くうちのママと同じ位の人がいる。
「ごめんねサチ、無理言って付いてきてもらっちゃって。あたし一人じゃ来にくくてさ……」
隣の声に振り向く。同じクラスの友達のさなが、申し訳なさそうにうなだれてお腹をさする。私は「別に。ダチのよしみっしょ」と首を振る。
「だいじょぶ?お腹」
「うん……ううん。クスリ飲んだんだけど全然きかない」
「体質に合わないんじゃない?」
「だって始まった頃からずっと飲んでるんだよ?」
「耐性ができちゃったとか」
「そうかな……そうかも。詳しいことは診てもらわなきゃわかんないけど」
ほっとしたように一息、感謝のまなざしで見上げてくる。
「あんがとねサチ。こんなことあんたにしか頼めない」
「さなの生理が重いの知ってっし」
「ちゃんと診てもらわなきゃって思ってたけど誤解されんのやだし……うちのガッコの人とか先生とかさ、入るとこ見られて変な噂広がるのいやじゃん」
「さな真面目ちゃんだし、ちゃんと説明すりゃ大丈夫っしょ」
「説明すんのがやなんだって」
それはわかる。
生理不順を診に来てもらいにきたなんて、多感な女子中学生の口から弁解するのは荷が重すぎる。
さなとは小学校からの長い付き合いだし、体育の時間もお腹をさすって辛そうに見学してるのを知ってるから、「放課後付き合って」と思い詰めた顔でお願いされた時も、「いいよ」と軽く引き受けた。
私は友達から借りた漫画の単行本を膝において首を傾げる。
「てかさ。うちの人に付いてきてもらうんじゃだめなの」
「共働きでどっちも帰り遅いし……親連れてこんなトコ出入りするの見られたら恥ずかしい、もっと大ごとになる」
「そんなもんか」
「けど一人じゃ心細いし……その点サチなら帰宅部で暇だし、実は頼まれたら断れないイイ奴設定だから狙い目かなって」
「わたしゃ消去法か」
「ごめん、ツンデレ設定に言い直す」
「そこじゃねえ」
友達やめるぞコイツ。

「ちがうちがう、そうじゃないって。サチってほら、何が起きても動じなさそうじゃん?クラスでも浮いてるってゆーか……あ、もちろんいい意味で」
「いい意味で浮いてるってなに。教祖的な?」
「いちいち突っ込まないでよ」
「空気読まないって言われてんのは知ってる」
「マイペースでかっこいいじゃん。まわりに流されず我が道を行くスタイル」
まあ、それはよく言われる。自慢じゃないが空気を読まないことにかけては小学生の頃から一家言ある。
空気は読むんじゃない、吸うものだ。おいしければなおいい。
ぶっちゃけ病院に付いてきてほしいと拝み倒されて面食らったが、生理不順を診てもらいにいくだけと判明し、通学路からは外れるけどまあいいか、とちょっと寄り道気分で同伴して現在に至る。
私はださいセーラー服の生地を摘まんで指摘する。
「一回家帰って着替えてきたほうがよくない?制服のまんまじゃ学校バレバレで悪目立ちだよ」
「サチの気が変わらないうちに来てほしくて」
「そんなフギリじゃねーし」
「あたしのびびりがでないうちに……」
「なんか言ってくるヤツいたらぶっとばしてやるのに。全治一週間程度を目安に」
「アグレッシブにバイオレンスな思想説くの反対」
「んじゃ全治三日」
「頼る人まちがえたかなあ……でもありがと」
さなは内気で引っ込み思案だ。そんな彼女に婦人科の初診はハードル高い。中学生の女の子はまず場違いだし、知り合いに見られたら非常に気まずい。
いや、最大の問題点は別にある。
「……婦人科と産婦人科セットの医院っきゃないなんて紛らわしい」
身に覚えもないのに妊娠なんて疑われたらたまったもんじゃない。
一応婦人科と産婦人科の診察室は分かれてるみたいだけど、ロビーで待ってるぶんにはどっちがどっちだかわからない。
ネガティブ思考のさなはまた悪い病気がでたみたいで、平べったいお腹をさすり憂鬱げに嘆く。
「はあ……病気だったらどうしよ。子宮がんとか卵巣がんとか婦人科系のヤバいヤツ」
「悪い方に考えたってしかたない」
「赤ちゃん産めなくなったら……」
「子ども好きだもんね」
「サチもでしょ。さっきからきょろきょろして……赤ちゃん抱っこしてるひと多いもんね」
「三か月検診とか産後の相談とかあるんじゃない?よく知らんけど。もっと言っちゃうけど、そんな人目気にすんなら婦人科オンリーのトコ行けばいいじゃん」
「耳鼻科と耳鼻咽喉科みたいな関係じゃないの?だったら喉も見てくれる方が安心感なくない?薬屋さんよかドラッグストアのが色々そろってお得だし」
「選び方の基準が雑」
「だって~お腹痛くてもう一日だってじっとしてらんない……」
「大丈夫だって」
「他人事だと軽く言うなあ……」
背中を叩いて励ませば呆れ半分にぼやくも、ほんの少しだけ表情が明るくなる。
「次、高尾さーん。いらっしゃいますか高尾さーん」
「あ、はい!」
受付に苗字を呼ばれ、緊張しまくったさなが反射的に腰を浮かす。

「廊下を真っ直ぐ行って右の診察室にお入りください」
看護婦さんの説明に従って進みかけ、私を振り向いて「じゃ」と手を振る。
私は「ん」と顎を引き、胸を張っていってこいよと同胞を送り出す。
さちはできるだけ周囲と目を合わせず、きびきび歩く看護婦さんに誘導されて、白く清潔な廊下を進んでいく。
ソファーを埋めた女の人が、奥へ消えていくさなの背中をチラ見して内緒話。
「あの子、中学生くらいでしょ」
「大人しそうなのにね」
「できちゃったのかしら」
「親御さんはどうしたの?隣はともだち?」
「一人で行かせるなんて無責任な彼氏よね」
うるさいババアども。陰口は胎教に悪いって知らないのか。
私は憤慨し、こわもて自慢の三白眼でぎろりと睨んでおく。
一体どんな顔してたのやら、私と視線が絡んだ女の人たちはそそくさと顔を伏せ、おのおの雑誌や私語に戻る。
恥ずかしいことをしてるって自覚はあったみたい、よかった。
「ふん」
傲然と腕を組んでソファーにぽふんとふんぞり返る。行儀悪くスカートをはだけて足を組むのも忘れない。
なんも悪いことしてないんだからさなも堂々としてりゃいいのに。
診察にどれ位かかるかはわからない。漫画はもう読み終えた。手持無沙汰になった私は、癖でスマホをいじろうとして、やっぱやめとくかとポケットにもどす。
ペースメーカーをしてる妊婦さんがいるかどうか知んないけど、いたらちょっとやだから。
ぱらぱらとページを行ったり来たりして、お気にのキャラがでてるシーンだけ反芻してるうちに、私は妙なことに気付く。
向かい側のソファーにじっと座ってる女の人。年齢は二十代後半か三十代前半の、幸薄そうな美人。

この人はどっちだろ。
幸せな側かな、そうじゃない側かな。

向かいの女の人が妙に気になって上目遣いに盗み見る。
思い詰めた顔色。暗い眼差し。たぶん、そうじゃない側だ。
産婦人科にはいろんな人がやってくる。子どもがいる人いない人、子どもが欲しい人欲しくない人、産む人に堕ろす人……みんな色んな事情を抱えていると、頭ではわかる。
じろじろ見るのは失礼だと自粛、さりげなく視線を切ろうとして……
「ん?」
胡乱げに眼を細める。
向かいの女の人……こないだ某ファッションセンターで見かけたのとおなじ花柄のブラウスを着てるから、便宜的にしまむらさんと呼ぶことにする……の肩のあたりに、ふわふわと丸い光が浮かんでいる。
目の錯覚かと忙しく瞬き、それでも消えないと目を擦る。
屈折率が関係する光の悪戯?
待合室を見渡すけど、私以外ほかのだれも気付いてないっぽい。
宙に浮かぶ白っぽい光の球は、ふわふわほよほよ、甘えるようにしまむらさんに纏わり付く。
「……もしかして」
後だしで大変恐縮な自己申告だけど、実は私には霊感がある。
ちょっと厨二っぽく言うと、現役バリバリの霊感少女だ。
とはいっても、どっかのお寺生まれのTさんみたいに悪霊を物理で倒したりはできない。前世が超すごい神様だったり大妖怪だったりもしない。たぶん。
通学路で轢かれた三丁目の奥貫さんの飼い犬が、半透明で雑草を食べてるとこにうっかり出くわしちゃっても、基本ただ見て、見過ごすだけだ。
そんな現役バリバリの霊感少女な私は、謎の光の正体を直感する。
「水子だ……」
早い話、生まれてこれなかった赤ちゃんの霊だ。
水子っていうのは流産や死産になった赤ちゃんのことで、私が現在進行形で目撃してるのも、おそらくそれだ。
一瞬恐怖を感じて仰け反る。
いきなり顔を引き攣らせ、手が滑った勢いでカバンを落とした私を、隣の人がふしぎそうに一瞥する。

落ち着けサチ。
産婦人科なんだもの、水子の霊がいたって全然おかしくない。

努めて冷静を装い、床に落ちた鞄をやけにゆっくり拾い上げて膝におく。
隣の人はもう私なんて気にしてない。挙動不審になって、怪しまれるのはむしろこっちだ。
基本害がないからか、最初に襲った恐怖はすぐに薄まり、続いてなんともいや~なモヤモヤがやってくる。
苦いかたまりが喉に詰まる感覚。
私は教科書なんてたいして入ってない鞄を抱き締め、ぐたっと突っ伏す。
「……やなもの見ちゃったなあ」
赤ちゃんだった存在に「もの」はないか。
しまむらさんに纏わり付いて離れない光は、流れるか堕ろすかした彼女の赤ちゃんだ。死んでもなお成仏できず、お母さんに取り憑いてるのだ。

あれ?じゃあしまむらさんはなんでここに。

二人目ができたとか……いや、二人目とはかぎらないか……ひょっとして、また堕ろしに?ちゃんとした女の人に見えるけど、裏ですごく遊んでるとか。
……だんだんむかむかしてきた。
本当のことなんてわからないくせに勝手に妄想をふくらませて、大人しく座ってるしまむらさんに一方的な怒りを覚える。

ねえ。その子、あなたの子どもじゃないの?
さっきからずっとそばにいるのに、なんで気付かないの?
気付いてあげないの?

表情を険しくする私の視線の先、拳大の光の球は、しまむらさんに懸命に何かを伝えようとしてるかに見える。通訳してあげられないのが歯がゆい。
しまむらさんの肩から頭のあたりを頼りなく漂って、蛍のように儚く瞬く。
これは本当に自慢じゃないけど、私は気が短い。自分が理不尽だとか不条理だと感じたものに対しては、本当に我慢がきかない体質だ。
流れたのか堕ろしたのかどっちかわからないけど、まだ成仏してないってことは、ちゃんと供養もしてあげてないのだ。
さなは将来ちゃんと子供が産めるか心配してた。他にも体が弱いとか高齢だとかで、なかなか子供を授かれない人がたくさんいるのに、あなたはその子を殺しちゃったんですか。
それでまた、ここにきたんですか。
瞬間沸騰した怒りが萎み、哀しみにとってかわる。世の中にはお腹の子供が死んでもなんとも思わない人がいるって聞いたけど、それじゃあんまり可哀想だ。
その時、ツとしまむらさんの視線が動く。痛みを堪えるような目の先、壁に貼られた一枚のポスター。
しまむらさんの手が緩やかに動き、そうっとお腹に添えられる。
「あ」
私は見た。
光の球から一本、手が生える。ぷくぷくした赤ちゃんの腕。
今にも大気に溶けてきえそうな、薄ボンヤリした光が集まって出来た手が、ゆっくりとしまむらさんに伸びていく……

首を絞めるの?

ガタン、再び立ち上がる。
話し声が途切れ、待合室の視線を一身に浴びる。
私が呆然と見守る前で、だけどその手は予想を裏切り、僅かに傾いだしまむらさんの頭をぽんぽん叩くだけ。
「…………待って」
私、すごい思い違いをしてたのかもしれない。
伝えなきゃ。言ってあげなきゃ。この子の気持ちを代弁できるのは私しかいないんだから。
今動かなきゃきっと後悔する。
名伏しがたい衝動に鞭打たれ小走りに駆けよれば、お腹に手を添えたしまむらさんが不審げな顔で出むかえる。
悩んでいるような、困っているような、泣きたいのを辛うじて堪えているかのような曖昧な表情で。
「あなたは……?」
「あの、突然ですけど。たぶんすっごいびっくりさせちゃうなとは思うんですけど、見も知らない中学生にいきなりこんなこと言われても困ると思うんですけど、どうしてもコレだけ言いたくて」
自己紹介の時間が惜しい。かなり端折って一気にまくしたて、まっすぐにしまむらさんを見る。
「その子、やさしい子です」
しまむらさんが凍り付く。
「お母さんのこと、よしよししてます」
まだ間に合う。
「その、そばに付いてます。ずっと心配して……お腹をなでる手、元気ないから。どんどんなくなってくから。今度は自分がはげましてあげようってなって」
お母さんがいつもしてくれるまねをして
「それで……でてきちゃってます」
みんなこっちを見てる。顔が熱い。帰りたい。でもダメ、最後までちゃんと言うんだ。
しおれた手。困惑顔。しまむらさんが大きく目を見開く。
「空気読まずに沸いて出ていきなりわけわかんないこと言い出して何コイツって思われるの当たり前だけど、あなたのお腹にいるのがお母さん想いのすんごい優しい子だってことだけはどうしても伝えたくて」
しまむらさんの頭のあたりにとどまっていた光が腕伝いに滑りおり、お腹に吸い込まれるように消えていく。
その本当にちっぽけな光が、かそけき光の靄で彼女の中心と繋がっていることに至近距離に立って初めて気付く。
胎児の残り時間を暗示するような、幻のへその緒。
この子はまだ死んでない。
ちゃんと生きてる。
日毎に元気をなくし、産婦人科の隅っこで悩み続けるお母さんが心配すぎて、うっかり生霊になって出てきちゃったのだ。

生まれる前の胎児に心があるのか、喜びや悲しみを感じるのか、私はよくわからない。
でも、あるとしたら。

「失礼します!」
思いきって頭を下げたタイミングでさなが帰ってくる。
「診察終わったよー。大丈夫だって」
「よかったそっこー帰ろ!」
「え?は?ちょっと」
「あの」しまむらさんが腰を浮かせ呼び止めようとするのを無視、さなの腕を引っ張って逃げるように産婦人科をあとにする。

あのあと、さなにはいろいろ聞かれたけどのらくらすっとぼけた。
結局さなの生理不順は深刻な病気でもなんでもなくて、今はやりのデトックスだかなんだか、夜更かしと夜食の生活習慣を改めたらよくなったと自慢していた。診てもらい損じゃねコイツ。
以来、産婦人科には行ってない。用もないのに足を運べない。
しまむらさんがどうなったかは気になったけど、待合室でたまたま一緒になっただけの他人がそこまで深入りするのもどうかと躊躇し、私はただ、彼女のお腹に宿った命ができれば消えないようにと願っていた。
私は何も知らない子どもで、ひどく身勝手な人間だ。だからこそ、あの時「産んでください」なんて口が裂けても言えなかった。悩んで悩んで悩み抜き、ぎりぎりまで選択をくだせないでいるあの人に、そんな残酷なお願いはできなかった。
待合室のソファーの隅っこ、ポツンと座ったしまむらさんが思い詰めた顔で凝視していたのは、出生前診断のポスターだった。
私もニュースで聞いたことある。赤ちゃんに障害があるかどうか、生まれる前にわかる検査だ。最近じゃ受ける人も少なくないと聞く。

しまむらさんは出生前診断を受けようかどうか悩んでたのだろうか。
受けたから悩んでいたのだろうか。

これもまた私の勝手な思い込みだ。
しまむらさんが悩んでたのは違う理由かもしれなくて、お金とか病気とか家庭の事情とか、どうしようもない理由でお腹に宿った命の行方を決めかねていたのかもしれない。

私は馬鹿な中学生で、学校の成績も低空飛行で、世間のことなんかまだ何もわからなくて、空気も読めないからクラスで浮いてる変なヤツだけど、目の前にお母さんを心配して魂を飛ばした赤ちゃんがいて、その赤ちゃんを想ってお腹をなでるお母さんがいたら、見て見ぬふりはできっこない。

数か月後のある日。
生理不順が改善され、すっかり明るくなったさちと一緒に繁華街を歩いてた時、ベビーカーを引いた女の人とすれ違った。
某ファッションセンターにあった服を着てたから反射的に振り向いたけど、もう人ごみに消えていて、結局しまむらさんかどうかはわからなかった。
「どうしたんサチ」
「ん、なんでも。知り合いっぽかったから……何の話だっけ?」
「もーちゃんと聞いててよ、名前の話だよ。どんな意味があるのって」
「あー……さなはいいよね、おしゃれだよね。糸へんに少ない紗と東西南北の南」
「おかーさんが好きだった漫画の主人公の借りパクだよ。サチは?」
「にんべんにしあわせ」
「人の幸せで倖かあ……いい名前じゃん、愛されてんね」
宙に字を書いて教えてやればさながにっこり笑い、私もなんでか釣られて微笑む。
さなとじゃれあって反対方向へ歩きながら、今のがもししまむらさんだったらかけたかった言葉を、胸の内だけで反芻する。

あなたの子どもは普通じゃないかもしれないけど、優しいいい子ですよ、と。

潮騒のように寄せては返すざわめきに紛れて振り返ったさなが目を見張る。
「さちどしたん」
「え?」
「泣いてんの?」
知らない間に涙ぐんでいたらしい。気恥ずかしさに目尻の露を弾き飛ばし、きっぱり言いきる。
「心の羊水だよ」
「え……」
さちはドン引きするが、私はまあいっかと開き直って遠く青い空を仰ぐ。
きっとしまむらさんは世界中にいる。
待合室のソファーでお腹を抱えてうなだれるしまむらさんを心配する赤ちゃんだって、気付いてもらえなくたってきっとたくさんいる。
まだ瞼や目ができてない赤ちゃんは泣けないから、今だけ代わりに泣いてあげてるんだ。

その時、雑踏の喧騒に紛れて赤ちゃんの笑い声が聞こえた気がしたけど……
それがあの子かどうか、振り向いて確かめるのはやめにした。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...