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38 置き換え

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 走る私の目の前で、ショーウィンドウのガラスが割れた。恐怖に固まる体を無理に走らせる。殺人鬼が撃った弾が当たったのだろうとわかり、まっすぐ走り続けることがいかに危険か、思い出した。

 銃を持った相手の前でまっすぐ走るなんて、いい的だ。死んでもわからないのか?

 目に付いた路地に入る。それから曲がり角があるたびに曲がった。右、左、右・・・曲がって、曲がって、とにかく逃げ切るしかない。

 道なんてわからない。ただ、がむしゃらに走る。息が上がって、苦しくても立ち止まるわけにはいかない。本当に息の根を止められてしまうから。

 嫌だ。もう死にたくない。怖い。

 走っているから暑いはずなのに、背中がゾクゾクとした寒気に襲われる。

 殺人鬼は、あれから銃を使っていないが、後ろから追ってきているのはわかる。全く振り切れていない。私の足で振り切れるのだろうか?いや、振り切るしかない。角を曲がる。

 曲がった先に、ゴミ箱を見つけた。とっさにそれを倒す。幅の狭い道なので、いい障害物になるだろう。

 角を曲がる。大きな物音が後ろからした。転んでいたらいいのに。

 角を曲がる。そして、遂に立ち止まった。

「う、そ・・・」
 血の気が引く。数メートル先にあるのは、塀だ。両脇はビル。袋小路というやつか。

 これで、終わり?私は、ここで終わり?
 後ろから迫る気配。もう後戻りはできない。目の前にあるのは、自分の身長より高い塀。短時間で上ることは不可能だ。上ったとしても、確実に撃たれる。

 震える体は、思わず膝をつきそうになる。だが、持ちこたえた。

「まだ、終われない。」

 視線を素早く移動させる。辺りをくまなく見渡して気づいた。ビルの非常階段。この階段を上がってどうするのか?そんな考えがよぎった時には、もう階段を上がっていた。

 カンカンカンと高い音が響き渡る。私がここにいることはすぐにわかるだろう。それでも、上に行くしかない。

 疲れた。息が苦しい。でも、死ぬよりましだ。

 途中途中で、各階につながる扉を見つけてはノブをひねる。だが、当然のように開かない。立ち止まるたびに、殺人鬼の足音だけが響き渡り、追い立てられるように上へと進む。

 カンカンカン。

 カン。

 ついに、最上階まで来てしまった。目の前にあるこの扉が開かなければ、逃げ道はない。考えている時間もないので、目の前のノブをひねるが、開かない。

「いや、嘘。あ、開いて!お願い!」
 ガチャガチャと私の無意味な行動が音になって現れる。開かないものは開かない。わかりきっているのに、わかりたくない。

 ここが、私の終着点か。

 どこか、達観したように思ったのは、忘れなければいけない知識と向き合ったせいだろう。思い出ともとれる、知識。

 何度もこの島で死んだ、そんな知識だ。何と言えばいいのか、知識とは違うとは思うが、思い出というには、彼女たちは私と違いすぎるのだ。

 罪が重すぎて、自ら死を選んだ彼女も。復讐を果たし、空っぽになってしまって、死んだ彼女も。唐突に命を奪われた彼女も。どれも私ではない、彼女たちだ。
 そんな彼女たちの記憶が、私の中にはある。それは、本当は忘れていなければならないものだが、どうやら忘れられなかったようだ。

 私とは違いすぎる彼女たちの中で、どの彼女が一番近いかと言えば、やはり唐突に命を奪われた、おそらく私の前の私が一番近い。彼女の死の恐怖が、私を襲う。

 ずっと、握りしめていたものを、意識した。血の付いたナイフ。

 殺人鬼は、すぐそばまで来ている。足音は大きく、もうすぐ対峙しなければならないことがわかる。

 死にたくないのなら・・・

 そう思う私に、罪が重すぎて死を選んだ彼女がよぎった。そして、それが私の手からナイフを落とさせる。

 カンッと高い音を鳴らして、床に落ちたナイフはそのまま滑って、地上へと落ちて行った。





 同時刻、船の上で、アレスも握っていた小瓶を落とした。

「くっ・・・」
 いつもの感覚に、アレスは倒れこみながらも笑った。

「前も思ったのですが。」
 アレスの頭上から、冷たい声が降ってきた。もちろん、ギフトの声だ。

「随分と嬉しそうな顔をしますよね、毒を盛られたっていうのに。」
「・・・毒ねぇ・・・俺は、今まで一度だって、お前たちに毒を盛られたことはねーぞ。」
「それはおかしいですね。僕だけでも2回は盛ったはずですが?」
「こんなの、毒って言わねーよ。」
「それもそうですね。ただの睡眠薬です。」
「知ってる。」
 またこの小瓶を使わなかったと、苦笑するアレス。ギフトはそんなアレスをにらみつける。

「あなたもこりない人だ。次は殺すと言ったはずですが?あなたは、また彼女をこの島に連れてきましたね?」
「そう言って、毎回お前たちは眠り薬を盛るんだよなー。またって言うが、あいつを島に連れてきたのは初めてだぜ?」
「・・・それもそうですね。この屁理屈野郎。それでは、僕はこれで。やることがありますので。」
 いつものように去ろうとするギフトを、アレスは初めて止めた。

「待てよ。お前、繰り返すつもりか?」
「・・・いいえ。今回は、彼女を一人にしません。」
「それでも、繰り返していることになるんだよ・・・わか、るだろ?」
 眠気が増したアレスは、とぎれとぎれになっても、繰り返させないために声を出す。

「・・・あなたの言うことを信じたわけではありませんので。でも、そうですね。そこまで言うのなら、僕が誰かの「置き換え」だと証明できますか?」
ギフトの言葉にアレスはため息をついた。証明なんてしなくても、ギフトは自分が「置き換え」であることを理解しているはずだから。

「仕方がねぇな。」
 理解していても、認めたくないときはある。そんな状態なのだろうと思い、アレスはつぶりそうな目を開けて、ギフトと目を合わせた。

「お前、好きな色は?」
「――――」
 機械的に答えるギフトを見て、アレスは目を閉じた。後は、監視カメラの映像でも見ろ。

 気づけば、眠っていたアレスを見下ろしたギフトは、自分の部屋へと戻った。

「こんな繰り返しは、終わらせる。」
 彼は、認めて、決意した。


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