イマジナリーライン

あずま

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今日も象が部屋にいる

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 だめだった。全然、まるで、てんでだめだった。
 怒りのままに靴を脱ぎ捨て、わざとらしく大きな溜息を吐く母の小さい背中を前に、夏生はひどく緩慢な動作で靴を脱いだ。そうしている間にも、苛立ちが止まらないらしい母は何度も何度も繰り返し溜息を吐いており、リビングのソファに直行するとわかりやすく頭を抱えて項垂れた。
 そんな姿を見ても、夏生の中には母を悲しませてしまった、なんていう罪悪感は微塵も生まれなかった。夏生は無感情のまま、尚もゆったりとした動きと無表情の仮面を貼り付けたまま、自室へ行こうと階段を数段のぼった。
「待ちなさいよ! 」途端、聞き慣れた母のヒステリックな声が家中に響く。「母さんになにか言うことあるでしょ!? 入学してまだ二ヶ月も経ってないのに、こんなことで学校に呼び出されるなんて! どれだけ母さんに恥をかかせれば気が済むのッ! 」
 金切り声はどんどんという足音とともに近付いてきて、目を真っ赤にした母は階段の数段目に足を引っ掛けたまま静止していた夏生の手を掴み、しつこく噛み付いてきた。
「あぁ……やっぱり映画なんて観せるんじゃなかった……! どうせ『あの人』に、頭の悪い暴力映画でも観せられているんでしょ!? 普段家にいないくせに、私の教育の邪魔ばっかりして……! 」言いながら、母の顔がぐにゃりと歪んでいく。怒りから、悲嘆。私はなんて可哀想なのだろう、私はなんて不幸なのだろうと、顔の部位の全てが訴えてきていた。
 それを見ても、夏生はもうなんとも思わなかった。「映画は関係ねぇよ。」短く、吐き捨てるように独り言ちると、母の目がかっと開いた。血の繋がりを感じさせる、三白眼の主張が強い冷たい目が、また怒りで熱く染まる。
「それが親に対する態度なの!? 違うでしょ、あんたは私に言うことがあるでしょッ!? 」母の言いたいことがわからないほど馬鹿でもないが、それを行動に移してやるほど素直でもない。夏生は冷たいままの自身の三白眼をぐるりと反対方向に動かすと、仕返しかのように大きな溜息を吐いた。
「……あぁ、『酢谷さん』には言わないでね。」夏生がやったこと自体は派手だったから、学校中に広まるだろうけど。その理由を海里に知られることだけは、絶対に嫌だった。そんなつもりでやったんじゃあない。
 別に運動をしているわけでもない夏生よりずっと細い、骨すら見える母の手を簡単に振りほどき、夏生はとんとんと軽快な音を立てて階段をのぼった。「……あ、」あの人たちにこんな恥ずかしいこと、言えるわけないじゃない。怒りやらなんやらで震えた母の声は、さっきまでの金切り声と同一人物だとは思えないほどか細かった。
 努めて優しく自室の襖を閉めながら、夏生は母からこぼれた悪態をどこか遠くで聞いていた。


 畳の上には似合わないベッドに寝転がりながら、夏生はまた溜息を吐く。壁には『STAR WARS』のポスター、本棚には『ハリー・ポッター』。なんの変哲もない、ちょっと映画好きに毛が生えた程度の部屋を眺め、なにもない天井に目をやる。
 中学生にもなれば、夏生だって気付いていた。隣人のくせに、自分の母と海里の母親はそんなに仲が良くない。と言うよりも、母が一方的に嫌っている。いや、嫌っていると言うか、下に見ている、の方が近いか。
 何度目かの溜息を吐きながら寝返りを打てば、頬と指の関節にちりりとした痛みが走る。やっぱり人を殴ると痛いんだな、なんて他人事のように思いながら、上半身だけを起こして手を握り、自身の指をじっと観察した。
 やや皮の薄い肌は、力なく長い五指を覆い、関節だけをぼんやりと赤く染めている。眺めたまま、夏生は瘡蓋と言うにはまだ痛々しいそれを、意味もなくぺりぺりと剥がしつつ、眉が意識の外で小さく歪むのを感じていた。

 別に、これくらいの痛み、大したものじゃあない。長いこといじめられていたのに誰にも言えず、じっと一人で耐えてきた海里の痛みに比べれば、こんなもの。
 入学するまではあんなにも不安に怯えていた海里は、中学に入った途端、性格が一変した。いわゆるキャラ変、ってやつだ、中学デビューってやつだ。
 大声で挨拶するようになった。誰彼構わず話しかけるようになった。更には夏生の制止も聞かずに、『カースト的には運動部に入っていた方がいいんだよ』なんて意味のわからない理論を振りかざし、運動なんてとんでもなく苦手なはずなのに陸上部なんかに入部した。
 最初はよくわからない方向性の覚悟だな、なんて思いつつ、まぁ好きにやらせて見守っておこうと思っていたら、あいつはあれよあれよと太陽の住人になっていっていた。夏生をただひとり、恋の地獄へ置き去りにしたまま。

 人の顔色を伺い、常にびくびくとして大きな目をきょろきょろさせていた海里は、幼稚園でも小学校でも、人とかかわり合うことを最低限に留めていた。話しかけられてもなんて答えたらいいかわからず、どもったり口ごもったりしてしまう海里は、無意識か意識してか、殻に閉じこもることで身を守っていたらしい。
 別に、ずっとそのままでもよかったのに。なんて思いつつ、夏生はまたベッドに仰向けで寝転んだ。殻に閉じこもっていても、他人との交流を避けていても、海里は夏生にだけは柔らかい笑顔と垂れた眦を見せてくれた。そして夏生も、別に海里が会話の途中でどもったり口ごもったりしても、まったく苦ではなかった。むしろそういう時間を積み上げていけばいくほど、海里が夏生との会話で言葉を選んで口ごもる回数が減っていったのだから、夏生にとってはただの役得でしかなかった。
 だからこそ、中学校入学式の翌日の放課後、海里がとんでもなく晴れやかで満面の笑みを見せて夏生に微笑んだ瞬間、言葉を失うほど驚いた。
 何の因果か、中学でも海里と夏生はまた違うクラスであった。夏生としては、部活はせめて同じにしようと思ったのに、海里はいつの間にか陸上部なんていうしちめんどうくさい部活に入部していて、大会だとか練習なんてものが苦手な夏生はため息と一緒に入部を断念した。結局夏生は、一番活動が少なそうな美術部に入部するだけ入部して、毎日海里の部活が終わるまで、教室か図書室で時間を潰していた。
 登下校は相も変わらず一緒だったけれど、夏生は同じ轍を踏んだ。
 入学してからしばらく経って、ゴールデンウィークも明けた頃、海里と廊下ですれ違った。小さい身体の全てを使ってクラスメイトと笑い合う幼なじみを見たとき、夏生は思わずその手を掴んで海里の顔を凝視した。別に、当然海里の性格が急変したことは知っていたけれど、まだまだあの太陽が日常的に振り撒かれることに、慣れられなかったのだ。咄嗟のことに驚いただろうに、海里は歯を見せて笑い、なんだよ、と小首を傾げただけでクラスメイトとやや気まずそうに笑いあっていた。
 その気まずい目がばらばらとこちらを向き、ばちりと目が会った瞬間、海里の全身が硬直するのがわかった。その硬直具合に驚いて、夏生がはっと手を離した瞬間、なぜか海里は騒々しい音を立ててトイレに走って行ったのだった。

 なにがあったのか咄嗟の事態に理解もできず、話したこともない海里のクラスメイトが首を傾げながら教室に帰って行くのを他所に、夏生はぼんやりと立ち尽くして手の中に残る感触を視線で思い返していた。
 そんなものに夢中になって理由に目もくれず、海里の背後にあった冷たい視線に気付けなかったのは、やっぱり自分は地獄に堕とされてもしょうがないくらい、愚かだからなんだろう。
 あのとき、チャイムが鳴るのも気にせず無理にでも海里を追いかけて、そうじゃなくてもその日の下校時に、海里が性格を急変させたことについてもっと深く問い詰めていたら。少なくとも、夏生が今日みたいな凶行に至ることはなかったかもしれないのに。


 その日の放課後、海里と話す機会がなかったわけじゃあない。むしろいつも通り、下校を共にした。
 夏生は授業が終わった後、教室で軽く勉強しながら運動場の陸上部を眺め、とりあえずそろそろ『急に変わった海里の性格』について踏み入ろうと悠長に構えていた。いつものように海里の部活動が終わる時間に合わせて下駄箱に行き、片手で文庫本を読んでいた夏生を、海里がいつものように背後から呼びかけた。
 かお、と、まるでひらがなをなぞるように名前を呼ぶ彼は、やっぱりなにも変わっていない、いつも通りの海里だと安心して、夏生はほっと息をついた。

「お前、あれなに。」それでも夏生の口から出るのは、ぶっきらぼうな短い文句。「キャラ変したの。」疑問文になる余裕もない夏生を振り返った海里の目は、驚いたようにぱっちりと開き、にやりと意地悪く笑った。「え、今更?」
 たしかに今更だ。入学して二週間が経過していたし、その間『明るくなった』海里と一度も会わなかったわけでもない。でもそれは裏を返せば『本質を突くまで二週間要した』ということに他ならず、そんな夏生の心境を察しようともしない海里に対して、夏生は「悪いかよ。」不満を口にした。
「べつに? なに? 『こっちのおれ』はきらい? 」海里の言葉の意図は見当すらつかなかったが、反射的に眉をひそめれば、海里は拗ねたように口を真一文字にして重い瞼を半分下ろして目を細めた。じとっ、と音がするような目線は、あまり海里のイメージにあるものではなく、夏生の喉は意味もなく鳴った。そんなわけないだろ。言わされたような言葉は、音になってふたりの間でぽとりと落ちた。
「……へへ。」海里はにんまりといたずらをした猫みたく満足げに笑い、前に向き直って、なおも夏生の二三歩先を歩いた。この構図はいつものことで、なぜだか夏生は毎日海里の小さな背中を追うようにして登下校している。小学校から、ずっと、毎回。

 海里はこういう、なにも考えていないように見えて全て見透かしているかのような言動をすることがあった。そういう姿を前にすると、夏生は当たり前に五感の全てを奪われ、思考の一切が遥か彼方へ捨て去られた気分になっていた。だからあのとき、煙に巻かれて肝心なことを訊けなかったのは、海里のせいだ。絶対に。


 そうやって、塾がない日は一緒に下校し、朝はやっぱり寝坊が治らない海里を起こして一緒に登校する。そんな日々を繰り返していた。
 そうだ、本当なら、それで十分だったんだ。質問の答えをはぐらかされても、いきなり自分の知らない場所で海里の性格が変わっても、隣で笑ってさえいてくれればそれでよかったんだ。
 なのに、周りはそれを許さなかった。夏生はベッドの上でふと、今日言われた言葉を思い出した。『お前ら気持ち悪ぃんだよ! 』ばかなやつ、お前『ら』なんて、たったひとつのひらがなをつけなければ、殴られずに済んだのに。
 海里以外の口から這い出てくる言葉なんて、基本的に意味が無い。そんなもので振る舞いを変えるつもりなんか毛頭無いし、外野での暴言なんて騒音でしかない。
 でも、それが海里の耳に入るとなれば別だ。自分の耳に入るだけならただの騒音なのに、海里の耳に入ると暴力になってしまうから。


「お、伊藤じゃん! 」結局海里から何も聞き出せない情けなさを痛感してからしばらく経った今日。どんよりとした熱い雲に覆われた梅雨の始まりを感じるような中、夏生は教室で本を読みながら、運動場の喧騒が止むのを待っていた。
 すると、廊下から下卑た声が名前を呼んできたのだ。はじめは無視をしようと夏生はページをめくったが、そいつは他クラスのくせに断りもなく教室に入ると、席の前の椅子に腰を下ろした。
「相変わらずクール気取ってんなぁ、お前はぁ! 」無駄に声が大きく、なにも面白いことがあったわけでもないのに汚く笑うそいつは、小学校からの同級生で。あぁ、そういえばこんなやついたっけな、と、夏生はちらりとだけ前を睨みつけると、再び本に目を戻した。
「なに、酢谷待ち? 」言いながら、そいつの視線が窓の外の運動場へと動く。「いやぁ、懐かしいよなぁ? 合宿のとき、お前がいきなり俺らに殴りかかったの。」俺ら。そう言われてから、重い記憶がゆるりとほどかれる。そういえば、こいつもあの集団の中にいた気がする、と。

 海里をいじめていた主犯格の三人は違う中学校へと進学した。でもあくまで夏生たちが進学した中学校は、自宅から徒歩で行ける距離にある、しがない公立中学校だ。そりゃあ同じ小学校出身の奴らくらいはいる。
 それでも人数は少ないし、なによりこいつは確か小学生の頃から下品に空気を乱す面倒な奴だったから、中学校でも簡単に孤立するだろうと、夏生はそう踏んでいた。つまり簡単に言うと、そこまで注視していなかったのである。
 今日だってそうだ。いくら面白おかしく海里を中傷されようと、どうせこういう軽口だけで生きてきたような奴の言葉に、信憑性なんか生まれやしない。視線を流し、夏生は短く、疎ましげに告げた。「また殴られたくなかったら、とっとと帰れよ。」「おぉ怖。」
 軽くかわされたが、そんな態度は相手をより一層苛立たせることも知らない馬鹿だという証明に他ならない。このときはまだ、夏生の感情は怒るようなレベルにも至らなかった。

 夏生が素っ気ない反応を見せても、奴は席を立つこともせず、中身のない話を続けた。あのときは痛かっただの、悪いのは海里だっただの、クラス全員がいじめていただの、知らなかったのはお前だけ、なんで気付けなかったんだ、だの。とっくにわかりきっていることを口にしては、からかうように笑い続けていた。
 うるさい。そんな四文字の制止すら、こいつへの労力として割きたくないと思い、夏生は延々と無視を決め込んでいた。奴からしたら面白くなかったのだろう。わかりやすい舌打ちをするやいなや、奴は嘲笑を浮かべた。

「あいつさ、最近調子乗ってんだよね。」よほど夏生に無視され続けることが不服だったのか知らないが、突然ニキビだらけの汚らしい顔をずいっと近付けると、奴は言った。
「おれぇ、今同じクラスなんだけどさ? あいつ中学デビューで陽キャみてぇなナリし出したからよ、まじキモイんだよなぁ。」無反応を決め込んでいた夏生の眉が、ぴくりと反応する。そうか、こいつ、海里と同じクラスだったのか、と。
 それに気付いたらしい奴は、ニキビの目立つ頬をにんまりと引き上げた。「髪も切ってさぁ、小学校んときは『前見えるんですかぁ? 』ってくらい前髪クッソ長くてド陰キャだったのによぉ……? 自己紹介んときからキモイくらいはっちゃけてて、運動もできねぇくせに女子もいる陸上部なんか入りやがって。……なぁお前知ってる? クラスの女子にも酢谷のこと好きってやつら、いるんだぜ? 」
 サアッ、と自分の身体から血の気が引いた、と思ったのは、このときだったか。気付けば夏生が手に持っていた文庫本は静かに閉じられていた。「まじ調子乗ってるよなぁ? だからおれぇ、この前その女子たちに、いやクラス中に聞こえるくらいの大声で言ってやったんだよ! 酢谷海里はぁ、小学校んときクラス全員からいじめられてたド陰キャだってよぉッ! 」
 いつだ。質問した夏生の言葉が、声になっていたかはわからない。「そんな顔で無反応決め込んでよぉ……! お前が殴りに来なかったからそうだと思ってたけど、やっぱアイツ、お前に告げ口してなかったんだな? おれに暴露されたときのアイツ、小学校んときみてぇに目真っ赤にして泣くの我慢してたのによぉ……すぐバカみてぇに笑って冗談言うなとか言ってきたから、まじキモくて! だからおれぇ、調子乗んなよってアイツの座ってた椅子蹴ったら、アイツキモイ体勢で転んでさぁ……! 」
 あのときか、夏生の中で、かちりと何かが嵌る。部活で転んだだけ、とか言いながら、膝の大きな絆創膏を隠そうとひょこひょこ歩いていたとき。あれは確か、入学して二週間ほどしか経っていない頃……。あぁクソ、もう二ヶ月近くも前じゃあないか。
「なのにアイツ、ず……っとヘラヘラ笑ってやがった! そしたら女子が先生呼びやがって、おれ呼び出されて、でも酢谷が遊んでただけですとか言って庇いやがって! まじアイツおれのことナメてんだよッ! クソド陰キャの、『ホモ』のくせによ……ッ、」どこか遠くで、嫌な音がした。


 何があったの。教師は夏生に訊いた。なんでこんなことしたの。母は夏生を責めた。でも夏生は、奴が病院に行ったという報告を聞きながら、自分自身に問うていた。
 俺は、何に怒ったんだ? 何が逆鱗に触れたんだ?


「夏生、起きてるか? 」低い音のノックと一緒に、襖の外から父の声がした。「……ん。」瞼と意識を起こし、夏生はゆるく返事をする。「開けるぞ。」穏やかな父の声は、いつだって静かだ。あの母と夫婦だなんてとても信じられないくらい。きりりと目がつり上がっている母とは真逆の、細い目ながらに柔和な面持ちの父は、襖の間から愛息を見つめた。
「キューブリック監督作品二本、借りてきたぞ。夏生、『シャイニング』気に入ってたもんな。」言いながらひょこり、と首と手だけ出して、DVDが入っているであろう黒い袋を見せる父が、かの作品の構図をオマージュしていることは一目瞭然で。その間抜けな姿に、夏生は思わず鼻で笑った。
「なに借りてきたんだよ。」「『2001年宇宙の旅』と『時計じかけのオレンジ』! 」夏生の反応に気を良くしたのか、父は勢いよく襖を開け、声高に言った。途端、階下から不機嫌な打音が聞こえたからか、父はいたずらっ子のように肩を竦め、静かに入室して襖を閉めた。
「……どっちも聞いたことはあるけど、それって父親が息子に見せていいチョイスなわけ? 」あのヒステリックをこうして躱すことができる父が羨ましい。そんな感情を奥へ奥へと隠しながら、夏生は皮肉を口にした。
「うぅん……まぁ確かに『時計じかけのオレンジ』は過激だけどな? 」黒縁の眼鏡をクイクイ、と意味もなく動かすのは、父の癖だった。主に隠し事をしているときの。そんな単純なことに気付いているのか、気付かずにやっているのかは知らない夏生は、敢えてその違和感を指摘してみせた。「母さんになんか言われた? 」
 ぎくっ、そんな擬音語が似つかわしいアクションを見せた父は、ぽすん、と音を立てて夏生の横に座った。父のこういう大袈裟気味なアクションはどこか海里に似ていて、安心する。いや、普通は逆か。
「あぁ……学校での話を聞いてな? 映画を観せるなら、暴力なんて振るわなくなるようなやつを、って言われて……。」せっかくだから、『シャイニング』と同じ監督のをチョイスしたんだ、なんて。別になにも悪いことを言っているわけではないのに、父は気まずそうに告白した。

 父は気付いている。夏生が本当は『STAR WARS』や『ハリー・ポッター』よりも、『シャイニング』や『キャリー』が好きなことも、壁のポスターや本棚のラインナップが、母の目を気にしたものであることも。気付いた上で、それに関しては何も言わない。気付いた上で、週に一度しか家には帰らない。
 そりゃあ父が気まずそうな態度になるのも当然か。夏生は自身の中のよくわからない感情を鼻で笑い、父が差し出した袋の中から透明なパッケージを取り出した。
「説教とかは? 」夏生は訊ねた。「父さんには、夏生を叱る権利なんかないよ。」父の穏やかな責任転嫁はその大きなてのひらに乗って、夏生の背中を撫でた。
 この人のこういう態度が、母をより一層不安定にしているのだと、当人に言えばなにか変わるのだろうか。
 なんて思うだけ思っても、正直今はそれどころじゃあない。余計なことを言って離婚なんかになれば、自分の親権は十中八九母だろうし、そうなったら夏生の唯一の趣味である映画も禁止されるだろう。そんな危ない橋を渡るくらいなら、たとえ歪で不安定な場所でも、我が家と呼び続けられる今を選ぶ。
 なんて、まるで等身大の中学生みたいな感情に浸ると、夏生はまったく脈絡も関係もない疑問を父に投げかけた。ねぇ父さん、という枕詞を置いて。「この前塾の帰りにTSUTAYA寄ったんだけどさ、父さんの言ってた映画、見当たらなかった。」
 純粋無垢な疑問と、底のように暗い諦観が漂う夏生の質問に、父は一瞬目を見開き、困ったように柔らかく微笑んだ。「ひとりで行ったのか? 母さんにバレたら大変だぞ? 」そう言う父の目の奥は、数年前の光景が浮かんでいるのだろう。
 母の「心配だから」というわがままのせいで持たされていた携帯電話から夏生の所在地を割り出し、店内で人目もはばからず泣き喚いた母の小さな背中。確かにあんなもの、もう二度と見たくはないが。
 それでも、気になってしまったのだ。「大丈夫。ちゃんと携帯の電源切ってから行ったよ。」母には、充電が切れたという言い訳も用意した。そこまでしても、夏生の中にはどうしても自分で解明したい好奇心があったのである。
「ほら、前父さんが言ってた。男女の恋愛だけじゃなくて、同性同士の恋愛映画もあるって、何本か勧めてくれたやろ? だからそのとき探してみたんだけど、見当たらなくて。」悩んでなんかいない、絶対に。海里への気持ちを後悔したことなんて一度もないし、これからだってないと断言できる。
 だれに笑われようが、なじられようが、その相手が海里当人でさえなければ、傷つくことすらないだろうと、そう思っていた。だけれど今は、今だけは『普遍』という曖昧なものにすがりつきたい。さも当然のように同性を愛している他人の姿を、たとえそれがフィルムの中のつくりものだったとしても、観てみたい。

「……お前も苦労するなぁ……。」そんな夏生の思いに対しても、父はいつものように、他人事でしかない相槌を返すだけだった。父は身長に見合った大きな手のひらで息子の頭を撫でると、なぜか諭すように穏やかな口調で語り出した。
「お前、もしかしたらラブロマンスとかの棚を見たんじゃないか? 」父の声は、いつものようにさらっと耳を通り抜ける。夏生の小さな頷きを確認したらしい父は、唇を結んで嘆息すると、なぜか悲しそうに眦を垂れさせた。「あぁ……そりゃあないだろうな。『そういう』作品があるとしたら、まずヒューマンドラマの棚だよ。」
 まぁそもそも置いていない店舗も多いだろうけどな。なんていう父の付け足す声も、やっぱり夏生の身体の中には留まらなくて。どうして、だって恋愛映画でしょ、と吐息に混じらせて呟けば、父はまた息を吐いた。今度のそれは、説明に困って吐いた嘆息ではなく、聞き分けのない息子に手を焼いたような、そんな溜息だった。
「まぁ……ああいうのは恋愛を描いているっていうよりも、認められない関係の切なさというか、不遇な扱いを受けている世情を描いているからなぁ……。ううん……。」夏生の感情に気付いているのか、それとも気付かまいとしているのか。父は言葉を選びながら、夏生から目を逸らし、剃り残しの見える顎をすり、と人差し指で撫で。数秒の後、あっ、とわざとらしく声を上げた。
「ほら、夏生も見たことあるだろ? ゆるされぬ恋の物語! 身分違いとか、不倫とか……ああいうのと同じだよ!」『マディソン郡の橋』、『イングリッシュ・ペイシェント』。父の口から発される映画の名前は、どれも名作だった。父からしたら、それはとても適切な説明だったのだろう。得意げに鼻を鳴らし、目を輝かせ、口は結んだままだったが口角は上に向いていた。
 対して夏生は、それに合わせて自身の体温が急激に下がっていくのを感じていた。あぁ、この人は俺の言いたいことを汲み取ってはくれないのだ。汲み取ろうとすらしてくれないのだ。実の父親に対して、こんな底なし沼のような諦観を抱くなんて、思ってもいなかった。
 父のことは嫌いじゃない。でも、尊敬からはひどく遠い位置にいる人であった。
「なるほど、わかったよ、父さん。」自分でもわかる、頬が軽く痙攣している。それでも父の目には、『聞き分けのいい愛息』の笑顔に映ったんだろう。父はわかりやすくほっと息を吐くと、ベッドから腰を上げた。

 それじゃあ、父さんはもう帰るな? 部屋は好きに使ってくれていいから。そんな声も、重い空気の中でずん、と沈み、夏生の身体にまでは届かなかった。
 軽い音で襖が閉じられた途端、意識していたわけでもないのに肩の力が抜ける。父の足音が階段を下りるのを確認してから、夏生は自室を出て右手にあるドアを押し開けた。壁一面に広がるスクリーンと、向かい側に背もたれのついたひとりがけのソファがひとつだけ。
 この部屋だけは、父の自室だけは、母が足を踏み入れることがない聖域であった。

 悪い人じゃ、ないんだよな。DVDを押し込みながら、口からはそんな言い訳じみた呟きが溢れ出る。父も母も、別に悪い人じゃあない。
 妻が手に負えないから息子に押し付けることで距離を置く選択をしたことも、帰ると言って向かう家がここ以外にあることも。不安が行き過ぎて息子に過干渉をすることも、隣人のママ友を見下して精神の安寧を図っていることも。
「……かわいそ。」口からこぼれた哀れみの声は、自分でもゾッとするほど無機質だった。

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