イマジナリーライン

あずま

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ブドウはお互いを見ながら熟す

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 幼なじみに恋をしている、と言えば、よく言われる言葉がある。「いつから好きだったの? 」「幼なじみを好きになるってどんな感じ? 」「ライクがラブになるってこと? 」少なくとも夏生は、いつからなんて覚えていないし、どんな感じもクソもないと思っている。
 そして一番否定したいことは、ライクがラブになるという現象についてだった。
 夏生の中で、酢谷への感情からライクが消えたことは無い。ライクもラブも、友愛も恋愛も、ずっと隣り合わせで存在していて、時間とともにどんどんむくむくと大きくなっていくだけ。行き場を失った感情は言葉という形になることもなく、ただ毎日を宙ぶらりんにやり過ごしている。

 だが、たまにその好意を、疑ってしまうこともある。本当に自分はこの男のことが好きなのか? こんなにも残酷に感情を弄んでくる相手のことを、本当に好意的な目で見ることができているのか? あまりにも長い時間付き合ってきた感情だから、もう引き下がれないだけなんじゃあないのか?
 誓って言おう。恋に落ちるのに、時間は必要ない。だが恋をしている時間が延びれば延びるほど、情が生まれてしまう。

 そうでもなければ、チンケな体育館の舞台の上でラブソングを歌うあいつに、こんなにも数々の感情が生まれるはずがない。夏生はぼんやりと腕を組みながら、残酷で晴れやかな恋の歌を聴いていた。
 あいつは本当に、この歌の歌詞に共感して歌っているのだろうか。陶酔にわたあめをぶち込んだみたいな、それでいて、しつこいくらい自信のなさを込めた、この歌の歌詞を。
 それを見て、ただ一色の嫉妬に苛まれるわけではない自分にも、とことん嫌気が差す。結局伊藤夏生という男は、酢谷海里が笑って自分の感情の赴くままに身体を動かしているならば、それだけで幸福感を覚えてしまう人間なのだ。
 とは言え、それだけで満足できるほど、短絡的な人間でもいやしないのだが。「そんな怖い顔すんなよ。」男子かと思うほど砕けた口調で、隣の女声が諌めてくる。「 『幼なじみ』なら、見りゃあわかるでしょ。あいつが心から望んで、あの歌を歌っていないことくらい。」他でもないこの女の口から、自身と酢谷の関係性を語られるのは、ひどく寒気がした。
「……なに、それは『恋人』だからわかること? 」別に稲垣当人は嫌味として語ったわけではないだろうに、夏生は嫌味の応酬とでも言うように、嫌味で返した。咄嗟に、稲垣は顔をゆがめて吐きそうなアクションをする。「恋人ぉ? やめてよ、そんなんじゃないから。」
 わかっている。わかっている上で、あえて言葉にした。そんな自分に、反吐が出る。それを見透かしたのか、『吐く』アクションを終えた稲垣は、すっと静かに体勢を無表情かつ真剣なものに戻し、「あんたが一人にしか恋できないのと、あたしが誰にも恋できないのは、一緒なの。」告白のような神妙さと、ため息のような軽さを混じえて、空気へと吐き出した。

 夏生も稲垣も、お互いの視線を重ねることなく、ただただ部外者の顔をしながらまっすぐに舞台上の輝かしい青春を眺めていた。今日は言わば翌日の文化祭に向けたリハーサルのようなもので、初めて舞台の上で歌い終えた酢谷は安心感からか肩の力を抜き、太陽に似た天真爛漫な笑顔でこちらに大きく手を振った。
 それに対し、稲垣が小さく、手のひらだけで振り返す。酢谷の挙動が、稲垣に向けてのものだったのか、隣で腕を組んでいた夏生に対するものだったのか。真意は当の本人にしか分かりえないが、稲垣が小さく反応したことにより、少なくとも周囲はそれを愛の告白と同義だと判断したらしかった。
 はやし立てるような騒ぎ声を聞くだけで、夏生は容易に理解する。あぁ、そうか。夏休みの間にこんなくだらない演目が付け加えられたのは、結局この空気とかいう怪物に呑まれてしまったからなのか。

 夏生の今年の夏は忙しかった。と言うよりも、忙しくした、と言う方が正しいかもしれない。
 酢谷も酢谷でアルバイトの予定を詰め込んでいたようだが、そんな酢谷にほんの少しでも会わないよう、夏生は夏休みの予定を図書館での勉強で塗りたくった。当然、酢谷と会う可能性の高い『文化祭の準備』なんか、絶対行かなかった。
 傍観を決め込んでいたものの、今は少しでも酢谷と距離を置きたかった。都合のいいときだけ縋るような目で見つめられたり、かと思えば自分なんか眼中にないと宣告するような焦がれた目で他者に目を奪われたりするのも、目にしたくはなかったのだ。
 ころころ変わる豊かな表情を楽しむ余裕すらなかった、と言うのが一番正しいだろう。そうやって現実逃避のごとく勉強に打ち込んでいる間に、文化祭の演目にはフリー枠として酢谷がボーカルであるバンドが組み込まれ、稲垣はそれを許し、そして酢谷のアプローチに振り向いた。ただそれだけ、なにもおかしくはない。
 クラスの演目は変わらず演劇だったが、少なくともクラスメイトの半数は演劇よりも酢谷の愛の告白たる舞台に浮き足立っているようで。夏休みの間の準備期間も、本業である稲垣は先導して準備に勤しんでいたらしいが、酢谷は浮き足立ったクラスメイトにもみくちゃにされ、流されるがままに初めて触るギターの練習に奔走したらしい。

 全部、『らしい』でしか締められない自分の言葉に、夏生は思わず嘆息する。全部見ていたかったという親愛に似た独占欲と、見ていれば止められたかもしれないという後悔のような煙が五指の間をすり抜けた。愛おしい人の生きとし生ける瞬間を、この目で見逃してしまったことが、いやに腹立たしくて仕方がなかった。
 ある種人間らしからぬとも言えるそんな感情が生まれたのは、夏生にとって初めてのことであった。夏生にとって、酢谷ほど画になる人間もいない。自分ではなく、恋愛という感情に突き動かされて笑い、同時に場の空気を壊したくないと傷よりも深く硬い表情を浮かべるのも、縋る相手を失って感情の全てに蓋をする姿も、全部全部カメラに収めたいと希うほど、愛おしくて仕方がなかった。

 その衝動に気付いた途端、はたと目が覚めた気がした。あぁそうか、そうだ、カメラに収めればいいんだ。足の爪先から走るように鳥肌が波紋を見せ、脳天までびりりと電流が刺さった。自分はやはり、平凡な人間とは根本的に違うのだとすら思った。
 どこか遠くで冷めた声で、老いた自分がただの逃避だろうと息を吐いた気がしたが、そんなものはかぶりを振れば消え去る。「……あんた、なんて顔してんの。」隣から喉の奥で感情を押し隠したかのような声が針の穴を抜けてくるが、夏生にとってはやっぱり酢谷の挙動以外は雑音でしかなかった。


 稲垣莉央の目に映る伊藤夏生の表情には、どこか既視感があった。だが、リアルで観たことはない。この既視感は、スクリーンの奥で観たものだ。『メメント』『オールド・ボーイ』『その夜の侍』。復讐を描いた映画で観た覚えのある、暗すぎるがゆえに一筋の光すら吸収しないような本当の深淵。そんな暗いふたつの眼球すら覆い隠す長い前髪には、彫られたように深い影が佇んでいた。
「や……」稲垣の声は、思わず裏返った。「やめなよ、その顔。酢谷に見られたら、逃げられるよ? 」努めて明るい声をあげたが、そんな努力を嘲笑うように喉からは掠れた細い声しか出なかった。
 稲垣の脳裏に、『嫌な予感』が映像化される。病的なまでに不健康的な色をした伊藤夏生の手のひらが、健康的な肌色の男性らしく隆起しつつある酢谷の喉仏を押し潰す。節くれだつ長い五指は、それに高揚したように薄い皮膚に覆われた首を一周し、両の手で抱擁するかのように握り締めるのだ。
 畏怖か、陶然か。稲垣莉央はごくりと生唾を飲んだ。ただ真っ先に、そんな姿は見たくないと強く思った。それもある種のエゴではあったが、稲垣にとって自分の感情の起因なんてものはどうだってよくて、ただ言い訳するより前に、立ち去ろうとする伊藤の腕を掴んだ。

「なに。」返ってきたのは、いつも以上につっけんどんで冷たく、無味無臭な声だった。あまりにも暗い目は、相対しているはずの稲垣の姿すら映さず、ただじっとりと雨のような湿度で全ての負の感情だけを深く吸い込んでいた。
 あぁ、そうだ。稲垣莉央は、場違いにも納得に溜飲を下げた。スクリーンの中だけじゃあない。この目は、リアルでも見たことがある。私の視界からはひた隠しにされてきたものだけれど、たしかに見たことがある。
 文化祭のフリー参加枠で、バンドをやることが決定したとき。いや、それよりもっと前。自分の感情の在り処すらわからず、迷子になった子どものようにうろうろと視線を走らせた後、全てを諦めたようにひっそりと、黒のクレヨンで塗り潰すみたく、目から光という光を消し去った、あの。
「なに。」逡巡から呼び覚ましたのは、さっきよりも苛立ちが増した低い声。莉央ははたと目を覚まし、ぱちぱちと瞬きをしてから、スイッチを切り替えた。
 怯えてはならない。怯んでもならない。泰然と構え、いくつもの暗い感情で雁字搦めになって失われたこの男の正気を、少しでも戻さなければならない。
 稲垣莉央にとって、伊藤夏生も酢谷海里も、大切な友人であった。いや、もっと正確に言うならば、優先順位としてはむしろ伊藤の方が上だった。だからこそ、この男の中に蔓延っているであろうおぞましい誤解を解き、自分の想像力が掻き立てる凶行を、想像の中で閉じ込めておきたかったのだ。

「ちがうから。」だのに、稲垣莉央の口から出たのはただの否定でしかない。「ほんとに、付き合ってないから。なんなら最近は、告白すらされてないから。」強すぎる否定は肯定を孕む。


 その言葉が嘘ではないと理解しながらも、真実を言っていないだけだということくらいは夏生とて容易に理解できた。理解できてしまった。
 まるで自身の腕を掴む手が皮膚を這い上がる蛆虫だとでも言うような目で一瞥しながら、夏生の声は地響きのように深く唸る。「どうでもいい。」言ってから、夏生は自分の感情を理解する。あぁ、そうだ。どうでもいいのだ。
 稲垣の言葉が本当だろうが、ふたりの距離がこの夏の間に急接近していようが、どうだっていい。ふたりの間に何があって稲垣が酢谷の愛に振り向き、どうして公衆の面前での酢谷のラブソングを受け入れることになったのかなんて、心底、本当に、どうだっていい。
 あいつの目に映ることができないのなら、俺はこの目に映るあいつの姿をフィルムに収めて飼い殺してしまいたい。夏生の欲望は今やそれただひとつになっていた。
 どす黒く渦巻いていただけの感情が無音ながらに言葉となった途端、目の奥が窄まり、口角が上がるのがわかった。芸術なんてとどのつまり、欲の発散だ。簡単な話だったのだ、もっと、もっと早くこの感情を、芸術という禍々しいものに昇華してぶつけてやればよかったのだ。

 伊藤夏生という男は、意思が決まると行動が早い男であった。うっそりと湿りきった感情が、自身の体躯を覆い尽くすよりも前に、想い人の両肩を掴んで恐喝のごとく『映画を撮らせてほしい』と叫び散らしたい衝動に駆られていた。
 それは猪突猛進の上を行くほどの、手が付けられない愚直さであったが、そんな性質でもなければこれまでの人生全てを一人の人間に預けられやしない。改めてその狂気に慄いた稲垣は、自身の握力がうっすらと引いていくのを感じたが、それでも彼女はなおも掴み直した。
 そしてその目線は、夏生からしたら寒気がするほど眩しいものだった。「どうでもよくないでしょ。あんた絶対勘違いしてる。私はあんたの恋を邪魔するつもりは無いし、酢谷に恋愛感情を抱く予定も無い。ただ、ただ……! 」

 いやに芝居がかっている。夏生はなぜか、そう思ってしまった。稲垣のことは嫌いだが、苦手意識があったわけでは無い。友だちと呼ばれると鳥肌が立ったが、別に離れたいと思ったことは無い。それなのに今、なぜだかこの腕にまとわりつく手を剥がしたくて仕方がなかった。
「……は? 」その嫌悪感は、最悪な形で表出した。眼下にある稲垣の丸い目が、夏生の姿を映す。その目には目薬でも差したみたく薄い膜が張られており、その潤いがより一層夏生を苛立たせた。
「そんなん信じられるかよ。散々耳障りのいいこと言って、あいつのこと弄んでるだけだろ。相手の好意に気付いておきながら泳がせて、気が向いたときだけいい顔するなんて最低だな。」まるで台本を読んでいるかのように、台詞はするすると出てきた。まるで夏生がずっと、稲垣に対してそう思っていたかのようだった。嘲笑は夏生の表情筋を刺激した。
「それで? あっちにもこっちにもいい人ヅラした八方美人は、文化祭であいつが名前を叫んで愛の告白でもすれば、その手を取るのか? いいじゃねぇか、あいつ相手なら、学生時代の醜聞にもならねぇよ。ガキの頃からの幼なじみが言うんだから間違いねぇ。」稲垣の表情はもはや、視界に入らなかった。
 ただ、ふっと腕から握る力が離れたのだけは察知し、今の隙に逃げてしまおうと思った。乱暴に手を振り払って逃げることもできただろうに、それをせずに細い五指が弛むのを待ってしまう自分がいたことに気付き、夏生は無理にでもと視線を逸らして長い前髪で目もとを隠した。

 腕から解けた稲垣の手は、てっきり力なく下ろされるだけだろうと思っていた。だがそんな想像は、風船が弾け飛ぶような破裂音によって、呆気なく裏切られた。
 ヒリヒリとした痛みが、左頬に走る。叩かれたのだと気付くまでに、ひどく時間を要した気がした。ヒリヒリ、がジンジン、と刺すような痛みに移行した頃、ようやく首が稲垣の方へと鈍く曲がり戻った。
 意図などもちろんしてはいなかったが、その目は他責に満ち満ちた暴力性があったのだろう。稲垣の目は後悔に揺れ、溢れそうになる涙を堪えるために唇を噛み、その隙間から落涙の代わりにぼろりと言葉を零した。「っ、しょうがないじゃん……! 」
 稲垣の白い手に、血管が浮き出ていた。「ひとりじゃ、耐えられなかったの……。」上擦る声に、身体から溢れ出るほどの寂しさが水溜まりのように体育館の床に滲みをつくる。その雨水を全て喉に流し込まれたかのような圧迫感に溺れかけ、全身の血がぶわりと夏生の頭に集まった。
「ふざけるな。」言いがかりだと、お門違いな言い分だと、そう自分で理解しながらも、怒りが止む気配は無かった。浮かんだ言葉を言ってはいけないと、口内の薄皮を強く噛んだが、そこで自制できるほど、稲垣に対する思いやりはなかった。
 鉄の味を感じながらも、痛覚が悲鳴を上げていたのは粘膜ではなく、頬の皮膚の方だった。指の薄皮を破るような、断絶の音がする。「……なんだよ、それ。」言ってはいけないと理解しながらも、言わずにはいられなかった。
「お前、無性愛者じゃあねぇのかよ。酢谷みたいな、最高にいい奴に恋されても揺らがないくらい、頑固で融通の効かない面倒なクソ野郎なんだろうが。そのクソ野郎な自分に、誇り持って堂々と生きてんだろうがよ。」むしろもう一度引っ叩いて、この口を無理やり閉じてほしいと切に願ってしまっていた。
「ひとりで生きていきたい、生きていけるとかいうくだらないプライド持ってるならそれを突き通せよ。てめぇのクソみてぇな寂しさで酢谷を振り回すな。」でも、稲垣の平手は飛んでこなかった。「無性愛者だって自分で区切りつけたなら、一生ひとりで生きていけよ。」
 稲垣の表情は見えなかった。「寂しさなんか、全部全部自分で抱えて独りで寂しく生きてろ。」恋愛感情も持てないくせに、欲張りなんだよ。吐き捨てた唾のような声は、蒸発するみたく体育館の床に染み込んだ。

 立ちすくんだ稲垣の影を振り払い、夏生はわかりやすく身体を翻す。謝罪を口にするつもりもなければ、これ以上非情な言葉をぶつけるつもりもなかった。それよりも今は、一刻も早くこの胃もたれするほど重い湿度の体育館から、出て行きたくて仕方がなかった。
 稲垣への行き場のない怒りと、酢谷への屈折しきった想いが肩身狭しと殴り合っているのか、薄い胸の中にはひどい痛痒感が走り続けており、夏生は思わず眉をひそめた。体育館のドアから廊下の角を曲がる瞬間、ここで酢谷の姿があったら最悪だな、でも映画だったら美味しい展開だな、なんてことをはたと思った。
「……あ、」だからこそ、その姿を視認した途端、硬直したように足が止まった。「お、おつかれ……? 」なぜか疑問符をつけて言う幼なじみの額には、季節感のない汗が幾筋も伝っていた。
 夏生の手は、意識や理性が働くより早く、酢谷の首に掛けられたマフラータオルの端を摘み、その額を少々乱雑に拭った。夏生が他所への怒りを滲ませていたからか、酢谷の薄い色味の肌が緊張したように、少しだけ桃色に染まる。
 紅潮に似たその変化を自身の視界から隠すため、夏生の手はより一層力を込めて酢谷の額や頬をぐりぐりと擦った。「ぐっ……な、なんだよぉ! 」相も変わらず少しの時差を生みながら、酢谷は慌てたような制止の声をあげる。
 幼児がじたばたと手足を動かすようなその挙動に、夏生の頬が若干緩む。表情に笑みが戻ったことを確認し、夏生の手はマフラータオルを離し、酢谷の視界を開放した。汗の滲んだタオルから放たれた丸い目は黒黒と光っており、そこに自分の姿が映っているという事実だけで、全てをゆるしたくなった。

「帰る? 」夏生のゆるんだ表情に安心したのか、酢谷は口を半開きのままにして訊ねる。「おれもリハ終わったし、かおと久しぶりにご飯食べたりしたいし。」酢谷はたどたどしい手つきで、さっきまでの夏生よりも乱暴に自身の顔を拭いながら、やや早口で言い訳のようにまくし立てた。
「あ、いや、もちろん、かおの予定さえよければだけど、さ? 」「酢谷。」がしがしと音が鳴るほど強く顔を擦る酢谷の手首を掴み、止める。咄嗟にばちりと合った視線は、どこか痛く、そしてその先にある酢谷の目は悲しみのような色で揺れ動いていた。
「頼みたいこと、あるんだけど。」掴んだ手首からはみ出した自分の人差し指で、つうっと酢谷の手の甲に浮かぶ薄桃色の血管をなぞる。たったそれだけのことで、酢谷の肩は過剰に跳ね、瞳孔はぎゅうっとすぼまった。

 そんな小さいながらにも大きい反応のひとつひとつが、どうしようもなく愛おしい。夏生は思わず嫣然と微笑み、弄ぶように親指で手首の内側で浮き立った血管を撫でた。
「や、やめろよ! 」暑さ以外の理由で紅潮したであろう酢谷の頬は、林檎のように真っ赤で。酢谷自身も自分の顔の温度が上昇していることを察したのか、振り払った手も巻き込んで、両手でマフラータオルを掴むとそのまま無造作に顔を覆い隠した。「た、頼みってなに。」
 それでも、世にも珍しい、強気で高慢な幼なじみからの『頼みごと』は気になったのか。飴玉のように大きく丸い目をタオルの端から覗かせながら、ころころとした声音で訊ねてきた。
「……あぁ。」振り払われた手で自身の額を拭いながら、夏生は呟くようにそれを口にする。「映画、撮らせてほしい。」
 届いたか届かなかったか、曖昧なくらいの小さな声量だったが、酢谷の手からぽとりと落ちたタオルの端を見れば、聞こえたのだと容易に理解できた。「……まじ? 」目も口もぽかん、と開け、酢谷の全身が疑問を提示する。
「まじ。」その姿がなんだかおかしくて、そしてまた同時にどこか照れくさくて、夏生は汗を拭う振りで自身の口もとを隠した。だがその声は、隠しきれない喜びに上気していた。

「お、うおおぉ~……!ま、まじかぁ、すげぇ……! かおの映画、絶ッ対大傑作じゃん……ッ! 」数秒溜めた後、酢谷はそう声を上げた。頬はさっきよりも赤らんでおり、九月になってもしぶとく生きる蝉たちがけたたましく鳴いているような猛暑日なのに、全身はぶるぶると震えていた。
 正直、ここまで喜んでくれるとは思っていなかった。夏生の表情に、驚きが滲む。

 酢谷に映画の話はよくしていたが、酢谷自身が映画に興味を示すことはただの一度だって無かった。俺の人生を変えたのは『時計じかけのオレンジ』だ、一回でいいから観てみろ、と言っても、「えぇ……おれ映画とか途中で絶対寝ちゃうんだよねぇ……」と目を泳がせていた。それならとコメディや短尺の映画をおすすめしてみても、「英語わかんない」だの「おれバカだから、途中で話わかんなくなっちゃう」だの、とにかく言い訳を尽くして映画から距離を取っていた。
 あぁでも。いつか映画監督になるのが夢だ、という話をしたときだけは、目を爛々と輝かせていたっけ。それこそ、今みたく。
 体育館の廊下でテンションがマックスに達したのであろう酢谷は、思い切り両手を挙げ、躊躇なく夏生の身体に抱きついてきた。その衝撃によって落ちたタオルや、お互いの皮膚に張り付く汗なんか全く気にせず、ただただ無垢な子どものように、力加減すら考えていない抱擁だった。
 行き場を失った独占欲から生まれた醜い頼みごとであるという後ろめたさすら忘れ、夏生の心臓は数ヶ月ぶりに感じる直接的な体温に、思春期の男子中学生みたくうるさく鼓動した。酢谷にこの音が聞こえたっていい、なんて排他的なことすら頭の隅に置き、自分の案外筋肉質な背中に手を回そうか、たったそれだけのことに脳内を支配された。
 が、夏生が判断を下すより早く、がばりと酢谷の身体が離れる。なにか熱いものに触れた反射のような速度に、一瞬自身の感情の熱が本当にバレてしまったのではないかという不安が生まれる。
 そんな夏生に対し、酢谷の表情はただ一色の不安であった。「あ、でもおれじゃ、画にならない……。」問いかけるような疑問の形すらせず、意味もなく強い断定を孕んだ不安げな声が宙に舞う。
「おれ、イケメンじゃねぇし、演技だってできねぇし、ばかだし……。い、稲垣! 稲垣に頼めよ! 女優だし、綺麗だし、さ? かおと稲垣なら、絶対すげぇ映画になる! おれが保証する! なんだっけ、あの、すげぇ賞あるじゃん、映画の! あれも獲れるよ、おれも、雑用みたいなことなら全力で手伝うから、な? 」
 まくし立てられた自己否定と賞賛の数々は、ふよふよと目障りな小虫みたく視界にまとわりつき、夏生の機嫌をじわりじわりと落としていった。さすが幼なじみというところか、温度の低下を感じたらしい酢谷は言葉を止め、口を開いたままわかりやすく硬直した。

「……いやだ。」この声には、誰よりも夏生が一番驚いた。まさか自分から、そんなわがままな言葉が出てくるとは思わなかった。「俺は、酢谷じゃないといやだ。」お前じゃないと撮らない。拗ねたような口調でそう言い切ると、酢谷の目の奥にある蛇口が捻られるのがわかった。
 落涙こそしなかったが、ふたつの飴玉がしとど濡れてゆくさまをこうして目にできるのならば、わがままも言ってみる価値があるのだろう。意識の外からはみ出した小さなわがままを正当化し、夏生は無表情だった表情筋をやんわりと綻ばせた。
「ぬ……ぬぅ……! 」そんな夏生の表情に対し、酢谷はわかりやすく相好を崩す。空気が抜けた風船のように照れと喜びを放出させる姿は、愛らしいという言葉を超えた柔らかく甘い感情を抱かせるに十分すぎる代物だった。
 感情を誤魔化そうとでもしているのか、酢谷は硬い動作で落ちたタオルを拾おうとしていたが、想像以上に動揺しているらしく、その指は中々タオルに絡まりそうにもなかった。「で? 返事は? 」しばらく眺めていたものの、大分手こずっていたため傍まで行き、拾い上げてやる。
 夏生が片手で拾い上げたそれを、未だ微妙な前屈体勢になっている酢谷に手渡すと、なにを思ったか酢谷はそのまま座り込んだ。漂う空気はどこかほの暗く、こんなにも暑いのに秋風のような切なさすら思わせた。「いいけど、一個だけ。」酢谷が言う。
「一個、約束守ってくれるんなら、協力する。」協力と言うか、撮らせてほしいって言っているんだから『撮らせてやってもいい』くらい高飛車な態度を取ってもらってもいいんだけれど。そんな小さな不満を一抹に感じながら、「なに。」夏生は短い発音で酢谷の言葉を促した。
 覗き込んだ先の酢谷の表情は、いやに真剣で、夏生は思わず息を飲んだ。水気も味も匂いもなく、ただ銅像が佇むみたく、静謐な面持ちだった。
「なまえ、よんで。」だのにその口から出るのは、舌っ足らずでたどたどしい、口内で行き場をなくした微妙な大きさの飴玉のように甘く、まろい。感情の全てを捨て去ったみたいなぞっとする表情を、スイッチを切り替えるみたく簡単かつ瞬時にやってのけるのに、口を開けばホットミルクのような温もりが顔を覗かせる。それが酢谷海里という男だった。
 思わずくらっときても、仕方がないだろう。夏生はもう数え切れないほど感じてきた当惑に口もとを押さえ、歯を噛み締めた。「……呼んでるだろ。」なんとか努めて無感情を装えば、酢谷の口角が凪のように静かに上がる。
「撮ってる間だけでいいから。」酢谷の発音は珍しく流暢で、波のせせらぎを彷彿とさせた。「撮り終わったら『今の状態』に戻っていいし、学校とか、映画とか関係ない時間も好きに呼べばいい。でもおれを撮ってる間……撮ろうと準備しているときだけは、昔みたいに呼んで。」
 酢谷の声が凪やせせらぎと言った水ならば、全身の体温が上がりきっている今の自分は火かなにかなのだろうか。なんて、よくわからないファンタジーなことを思いながら、夏生は固まった身体と熱を追い出すように、大きくかぶりを振った。
 もちろんたったそれだけのことで熱が逃げてくれるはずもなく、止まった視点の先でじっとこちらを見つめる目を捉えた途端、ぶるりと震えが走る。ひとつの季節の中で、たくさんの季節を感じさせてくれる酢谷海里という男が好きだけれど、同時に恐ろしくも思う。

「わかった。」出た声が、毅然としたものだったかはわからない。そこまで気を回す余裕はなかった。「撮ってる間だけ、な。」ただ、たった少しの肯定だけでぱあっと表情に花を咲かせられるのならば、奮い立つ本能だって悪くはない。
「……っ、へへっ。」余程嬉しかったのか、酢谷は綻んだ表情から音として喜びを零す。「お、てか呼べる? 今のうちに練習しとく? おれの名前忘れてねぇよなぁ? 」からかうように言いながら肩を小突く酢谷を見ていると、頭の隅で靄のようになっていた稲垣の絶望めいた顔が、そのまま立ち消えていくような気すらした。

 餌を欲しがる子犬のように目を輝かせ、言葉を促す酢谷を前にすると、自分の中の汚い部分が浮き彫りになっていく気がした。これはしばらく酢谷と顔を合わせないようにしてきたからなのだろうか。
 ただじくじくと痛む傷は粘土に切り込みを入れる専用のナイフのように安っぽくて鋭利だった。「うるせぇよ。」唾でも吐き捨てるように言えば、酢谷はにまにまといたずらっ子のように笑った。
 その素直で純粋無垢な表情に押され、嘆息と一緒に、数年ぶりにその名前を口にした。「『かい』。」


 それは、何度目かの絶望というぬかるみに足を踏み入れた音だった。もがいて足掻いて、こいつとのハッピーエンドを手に入れようとしているはずなのに、夏生もどこかで向かっている先が沼の底だと知っていた。
 こいつをカメラに映したときの録画起動音もきっと、同じような音がするのだろう。理解しながらも、夏生がその少年のような晴れやかな笑顔から目を逸らすことはできなかった。
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