イマジナリーライン

あずま

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一輪の花だけが春をつくるのではない

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 酢谷栞は幸せな娘であった。銀行で働く父と、専業主婦の母の間に生まれ、周囲の友人関係に恵まれながら何度か恋を重ね、高校、大学と進路を進めた。それはまるで順風満帆極まりない人生ゲームのようで、栞はことあるごとに「もっと面白いことがあればいいのに」という贅沢な悩みを口にしていた。
 大学は文学部に進み、国語の教員免許を採るためにそこそこ勉強した。同期には高い志を持って教員を目指す友人もいたが、栞はと言えば『なんとなく免許を持っていた方がいい気がしたから』というふんわりとした理由で教職課程を履修していたため、成績もしっかり全部そこそこだった。
 文学部を選んだ理由も、ちょっと読書が好きで、楽そうだと感じたから。それこそ周囲には本の虫という言葉では言い表せないほどの常軌を逸した本好きがわんさかいたし、小説家になるなんて夢を当たり前のように口にしてはとんでもない文字数の作品を書いている人もいた。でもそんな姿たちがキャンパスの中で日常になろうとも、栞の生活に組み込まれることはなかった。
 大学卒業後は、アルバイトしていた塾に就職し、一年後、同じようにアルバイトから就職した同期の男性と結婚した。彼とは三年の交際期間を経た上での結婚だったし、お互いに不安はなかった。ただ結婚の理由は、プロポーズや時期を見て、といったものではなく、栞が妊娠したためだった。
 順風満帆だと思っていた。少なくともこのときまでは、栞にとってイレギュラーな出来事は、やや年の離れた弟だけだった。

 ただこの弟も、栞の順風満帆な人生に荒波を立てることはしなかった。いや、というかあの弟に、そんな大それたことができるとは思えない。
 弟の存在は順風満帆な栞の人生においてたしかに異物だったが、栞の人生を大きく揺るがし、深く暗い影を落としたのは弟ではなかった。流産したのだ。いずれ結婚をしたいと考えていた男性と、家族になるきっかけを与えてくれた胎内のもうひとつの命は、突然散り去ってしまった。
 人生で初めての絶望であった。あまりのショックで理由はよく覚えていないが、もう子どもはできないとも言われた。毎日を泣き暮らし、出勤もできなくなり、夫に合わせる顔もなく、すごすごと実家に戻ってただただ時間を絶望のためだけに費やした。
「ごめんなさい。」栞は何度も謝った。「お父さんもお母さんも、孫ができるって喜んでいたのに。産んであげられなくてごめんなさい。」
 そんな栞のために、母は毎日栞の好物を食卓にあげ、全身を抱き締め、何度も何度も言い聞かせてくれた。「栞がそんなに思い詰めることないわ。海里だっているし、お母さんは栞が元気なだけで十分すぎるくらい、幸せなんだから。」
 夫は毎日仕事終わりに栞の顔を見に来てくれたし、優しい言葉を浴びせるようにたくさんかけてくれた。父は山のように買っていた安産祈願の御守りを全部捨て、「ずっと家に居てもいいんだからな」と繰り返し言ってくれた。

 優しさに包まれていた。父も母も夫も、栞をよく知る近所のおじさんやおばさんも、栞の傷に触れないよう、優しく癒してくれた。
 そんな中、弟だけは相変わらずだった。栞が小学三年生のときに産まれた弟は、栞にとって怪物だった。
 ひと言で言えば度を超えて鈍臭いのだ。毎日のように服を汚していたし、ついさっき言ったことを忘れているなんてことも一度や二度ではなかった。小学校にあがる前に登校の練習と称して、ひとりで徒歩十分の距離にある小学校まで行かせようとしたときなんかは、家の前で思いっきり転んでぐずぐず泣きながら、新品のランドセルに大きい擦り傷を残していた。
 鈍臭いだけなら、まだ対処のしようもあったかもしれないだろう。実際、両親は弟に『何回も指さし確認すること』など、『鈍臭くとも社会で円滑に生きていく方法』を口を酸っぱくして言い聞かせていた。でも残念ながら、弟は鈍臭いだけではなかった。

 弟はとにかく喋らなかった。栞のことはおろか、父や母も呼ぶことはなく、伝えたいことがあるときはわざわざ近くまで寄って服の裾を控えめに引っ張るような子どもだった。近所の人に挨拶されても返事すらできず、家族がいればその背後に、ひとりだったら全力疾走でその場から逃げていた。あまりにも必死に逃げたために、迷子になったことだってある。
 鈍臭いだけでなく、極度の引っ込み思案。鈍臭くてもせめて愛嬌があれば、人に好かれて多少なりとも生きやすいだろうに。
 弟のそんな態度にイライラした栞が声を荒らげたことも数え切れないほどあるが、海里は毎回目をぎゅっと瞑るか、逆に無表情の暗い目で床を見つめているだけで、謝ることも言い訳もしなかった。
 そんな弟も、なぜか隣の家に住む同い年の男の子にだけは心を許しているらしかった。「本当にいい子でね、幼稚園でも海里のお世話をしてくれているみたいなの。朝も一緒に園バスに乗ってくれるし、毎朝ね、こう、こうやって、海里の寝癖を直してくれるのよ? 」
 母は本当に嬉しかったらしく、毎日のように隣の家の男の子の話を笑顔でしていた。「栞、覚えてない? 幼稚園にあがる前もよく遊んでくれたんだけどね。ただ、お母さんがちょっと厳しい方みたいで、公園で遊んでいても早くに帰っちゃうことが多かったんだけど……。今は四六時中海里と一緒にいてくれて、挨拶もできないあの子の代わりにご近所さんにもちゃんと挨拶を返してくれるの。お陰でこの前、斜向かいの鈴木さんに『海里くんも安心ねぇ』なんて言われちゃった! 」

 栞の母は少女のような人だった。春爛漫といった笑顔と声音で、思春期の娘とのお喋りを楽しむのは、毎日のように日課であった。「へぇ、なんでそこまでしてくれるんだろうね。」いつだったか、栞は相槌の中に疑問を織り交ぜた。「あいつ、姉の私から見てもめっちゃ面倒なのに。」
「そんなこと言わないの。世界でたったひとりの姉弟でしょう? 」あれは小学校高学年ほどの時分だっただろうか。弟が幼稚園に入りたてだったから、それくらいのはずだ。母のお気に入りである春色のエプロンも、あの頃はまだそこまで色褪せていなかった。

 栞にって、弟は怪物だった。それはきっといつまで経っても変わらない認識で、一挙手一投足全ての理由が理解できない七歳歳下のモンスターは、小学生になってようやっと栞のことを『姉ちゃん』と呼んだ。たしか、夕飯ができたからとかで呼び出された、他愛もないタイミングだった。
 弟のことは理解できない。ただあの瞬間ばかりは、『約六年もかけてようやく私はこの怪物の信頼を得られたのだ』と、謎に誇らしい気持ちで充足感を覚えていた。
 それから栞にとって弟との交流は、ゲームを攻略するような感覚になっていった。だが弟は本当に雲を掴むような性格をしていて、悩みを訊き出そうとしても煙に巻き、いつの間にかこちらのくだらない恋愛相談を吐露しているばかりだった。

 信頼は、まぁ、得ていたのだろう。でも、悩みを告白されるほどではなかった。大学生になると、ただひとり暮らしをしたいという理由で県外に出たため、一年のうち数えるほどしか弟と会わなくなった。両親はよく遊びに来たが、弟は夏休みだろうが休日だろうが絶対来なかった。「伊藤さんのところの子と、遊ぶらしいのよ。」母はよく零していた。
 栞の母は、お隣さんと馬が合わないようだった。幼稚園の頃はまだ努力して付き合いを重ねていたようだが、小学校に進学すると、お隣さんはあからさまに距離を置いてきたと言う。母は愚痴や悪口を言うような人ではないから、よく眉を困った角度にするだけで、ため息を吐いていた。
 それでも、幼なじみの男の子に感謝はしていたらしい。「いい子なのよ、本当に。小学生のときもそうだったけど、中学生になっても毎日毎日迎えに来て一緒に行ってくれるの。海里、陸上部に入ったでしょう? でもあの子は部活にも入らないで、たくさんお勉強しているみたいで。塾がないときは、海里の部活が終わるのを待って一緒に帰って来るの。」
 そう語る母の表情は甘く柔らかかったが、同時に違う感情も滲ませていた。そして栞の中では、安心よりも母も抱えていたであろうその『違う感情』の方が勝っていた。「怖いよね、その子。」母と団らんする度に、母の作ったケーキを頬張りながら、何度も言った。「なんでそこまでしてくれるんだろうね。」
「……そうよねぇ。」最初の頃は『そんなこと言わないの。ありがたいじゃない? 』と返していた母だが、何度も同じような返しをすれば、音を上げたようにそう零していた。
「ねぇ栞。あなた知ってた? 海里ね、小学校でいじめられていたの。」その後にいかにも深刻そうな声音で続けられたのは、そんな『何度も』が数え切れないほど重ねられた頃だった。「……そうなんだ。」鏡に映るように、深刻そうな声で答えたが、そんなことはとっくに知っていた。
 弟が小学生の頃、高校生だった栞はもちろん実家に居た。隠しごとをしたがるくせに、嘘が下手な弟の変化にも、一緒に過ごしていれば当然気付いていた。気付いた上で、悩みを訊き出そうとしたのだ。それでも、弟は下手くそに笑うだけで、自分の話はなにひとつしなかった。してくれなかった。
「幼稚園の頃もあったみたいで。先生から何度も言われたから、私から海里に訊いたのよ? 何回か、ね。でも、海里はなにも言ってくれなかった。『学校楽しいよ』って、優しく笑うの。」私、あの子のことがわからないわ。そう零す母の姿は、幼い頃に見たものより随分と小さく見えたっけ。

 わからない、と言うが、栞はわかる気がしていた。弟の生態が、ではない。そんなものはきっと一生わからない。
 わかるのは、弟をいじめたくなる心理の方だ。そんなこと、普通の姉なら思わないのかもしれないが。
 それでも、あんなにも鈍臭くて、自分の意見も言わなくて、会話をしようとしても下手くそに笑って自分のことはひと言も話そうとしないやつ、家族以外の関係性でそばにいたとしたら、できる限りお近付きになりたくないというのが普通だろう。だからこそ、お隣さんの男の子が理解できなかった。なんで、どうしてそこまで弟に尽くすのだろう。
「……好き、とか? 」一度誰にも聞かれない場所で呟いた。すぐにかぶりを振って、強く否定したけれど。
 だってふたりはどちらも男だし、そんなことがあるわけがない。栞だって、だれかのことを狂うくらい好きになったことはあるが、ちゃんと相手は異性だった。全てをなげうってこの人に認められるためだけに息をしていたいと思ったこともあるが、そんな恋愛は大抵うまくいかないということも知っている。


「男同士で、あるわけないじゃん。」一年前は絶望しか滲みこんでいなかったベッドを撫でながら、栞はふと過去の呟きを思い出し、否定した。やっぱり自分は幸福だ。人生で初めて起きた大きな喪失は、栞から多くのものを奪ったけれど、また平穏に戻ってくることができた。意識せずとも、頬には微笑が座っていた。
 あれから、夫とは別れようとも思った。肯定と愛で溢れた実家は落ち着いたけれど、同時に少しだって居たくはなかった。たったひとりになって自責だけに時間を費やしたかったけれども、でもずっと誰かがそばにいてもほしかった。
 そんな不安定な時間を乗り越えられたのは、両親と夫の献身のお陰だった。優しい言葉は栞の心をほぐし、ゆっくりと前を向かせてくれた。時間は要したが、またふたりで暮らせるようになったし、塾の生徒を見ても微笑ましい気持ちが前に出てくれるようになった。

 だからこそ思う。私はちゃんと恋愛できている、ちゃんとした人間だ。
 同じ両親から産まれたんだから、弟である海里がそんな『おかしなこと』に巻き込まれるはずがない。いや、というか巻き込まれた、だけで済むのだろうか。弟も弟で、無償の奉仕をずっと甘受し続けているということは、もしかしたら。
「……いや、ないでしょ。」栞はもう一度、首を横に振った。そう言えば、一年前実家に閉じこもっていた頃、弟がなにか言っていた気がする。なんだっけ、悩み云々というよりも、挙動のおかしさが目について、苛ついたことしか覚えていない。
 まぁ、忘れたということはどうだっていいということだ。栞は前向きだった。どうせ、ただ弟があまりにも鈍臭いから目を離せないだけで、幼なじみのよしみで目をかけてくれているだけだろう。名前もうろ覚えの隣人のことは頭から追い出し、栞は自室を出た。
 ちょうど同じタイミングで、隣の自室から出てきたであろう弟が、栞に気付く。

「……あ。」弟は、しばらく目をぐるぐると回して気まずそうに逡巡したかと思うと、ついさっき閉じたばかりのドアノブに手をかけ、ひねろうとした。約一年経ってもうとっくに立ち直ったというのに、まだ気を遣うつもりでいるのか。気を遣うならもっと上手くやればいいのに。栞は見兼ねて小さく息を吐くと、「海里さ、あのお隣さんとはまだ仲良いの? 」なんとなく、本題に切り込んだ。
 弟の手が止まる。「……あ、かお? 」そんな名前だったっけ。栞は視線を弟の後方にやったまま、小さく頷いた。「あぁ……かお、一月に引っ越しちゃったんだよね……。」どこに引っ越したのかも、連絡先もわからない。
「え、そうなの? 」思わず、素っ頓狂な声があがる。「うん。年明けてすぐくらい。」母はそんなことを言っていただろうか、と思ったが、すぐに合点がいく。この一二年の間に結婚出産流産を体験した栞のことで手一杯で、そんなときにお隣さんの話なんてする余裕はなかったのだろう。
 弟の背後の窓から差す、夏らしい暑さの残る木漏れ日を見ながら、栞は問う。「へぇ、なんでまた? 」弟は、そんなじりじりとした陽光の中に溶けてしまいそうだった。「……さぁ。わかんない。」
 嘘だ。栞は直感で思った。弟はきっと、理由を知っている。知った上で、栞を傷心だと決めつけて、腫れ物扱いした上で気遣って嘘をついたのだ。……まぁ、ただ単に姉と会話をしたくないだけなのかもしれないけれど。
 そんな些細な違和感に苛ついた栞は、そこにあるかもしれない傷を突っついた。「……なぁんだ、あんたたち、恋人なのかと思ってた。」がたん、ごとん、がたん。弟の方角から、大袈裟な音がする。一瞬電車でも走っているのかと思ったが、このあたりに電車は走っていやしない。
 音がした方を見ると、弟は持っていたコップを落としたらしい。幸い中身は入っていなかったようだが、それを拾おうとしたらしい弟は派手に転び、またバランスを崩して倒れ込むような体勢になっていた。その派手な事故に目を細めながら、栞はまた短く息を吐いた。
「そ、そんなわけないじゃん。おれ、そんな無責任じゃないし……。大体、前も言ったじゃん、かおはただの幼なじみで、『兄ちゃん』だって……。」「兄ちゃん? あれが? 」言葉を口にした瞬間、はっとする。あれ、私、前にも全く同じ反応をした。

 がばっ、と、音が鳴るかと思うくらい強い勢いで、弟の顔がこちらを向く。栞の肩はびくりと跳ねた。「あ、……ごめん。」小さな罪悪感からか、弟の目が揺れる。が、視線が離れることはなかった。「忘れてる、よね……? 」ふるふると震える目は、なぜか涙よりも寒気を感じさせた。ぶるりと震え、雷に撃たれたような衝撃に、栞の目が眩んだ。
 あぁ、そうだ。栞は季節外れの寒気を覚えながら、遠くを見た。どうして、今の今まで忘れていたのだろう。たしかにあのときの自分は傷だらけだったけれど、だからこそ、他人の傷には疎く、肉親ならば傷付ける権利があると思い上がっていたけれど。でも、まさか自分が相手につけた傷を忘れるような人間だとは思っていなかった。
 栞は人生で初めて、自分をひどく醜い存在のように感じていた。自分の幸福は、もしかしたら誰かの我慢の上に成り立っているのかもしれないとすら感じた。
 学生時代、授業で教授が言っていた言葉をふと思い出す。『今ある日常は、差別の上に成り立っていると思いなさい』。あれはなんの授業だったか。講義室の一番後ろの席で、携帯をいじりながら聞いていたということしか覚えていない。
 栞は幸福な娘である。その自覚を胸に、栞は今一度弟の目を見た。その姿はモンスターではなく、人間だった。
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