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一話 連鎖反応
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『おばぁちゃん、最近調子が悪いのよ。健、今度の連休にでも帰って来られない?』
実家から電話がかかってきた時、僕は嫌な予感がしていた。同年代のお年寄りよりも、比較的元気なばぁちゃんだったけれど、去年の春頃から、体調を崩しがちになっていたからだ。
父が病死してから、僕を育てる為に、母は働きに出ていたので、僕にとってばぁちゃんは、育ての親のような存在である。
「全く、拝み屋なんていつまでもやっているから、寿命が縮まるんだよ」
僕は、炎天下の中で汗を拭くと、誰に言うでもなく独り言を呟く。
人口二千三百人の離島、辰子島。
この島にある雨宮神社で、僕の物心がついた時から、ばぁちゃんは巫女兼、拝み屋のような事をしていた。
僕が成人して人並みに稼げるようになると、ばぁちゃんは拝み屋家業一本となり、母が巫女として神社の管理をしている。
ちなみに、爺ちゃんも早くに亡くなってしまっているので、雨宮家の男手は僕だけである。
そんな僕も都会に憧れを抱き、高校を卒業すると、辰子島を出て北関東にある工場に就職した。家族には、いずれお前が家業を継ぐのだから、巫覡の修行をしろと口酸っぱく言われているのだが、のらりくらりとかわしている。
母もばぁちゃんも、口ではそういうものの、僕を快くこの島から送り出し、時々仕送りなどをして応援してくれているので、感謝している。
――――チリン、チリン。
背後から、自転車のベルを鳴らす音が聞こえ、僕は振り返った。坂道を、小学生の男子二人組が、騒ぎながら立ち漕ぎして、必死に坂を登っている。
「元気だなぁ」
この坂を登りきり、三股に割れた道の真ん中を通ると、雨宮神社へと続く三十段ほどの階段が見えてくる。僕は子供の頃から、毎日そこを昇り降りしているので、島の子供達の中でも、随分と足腰が鍛えられている方だろう。
しかし、都会に出てからは便利さに胡座をかいて、体がなまってしまっているなぁ。
やはり、駅前のジムに通うべきか……?
僕は、そんな事を考えながら汗を拭き、少年達が坂を登り切る様子を目で追うと、体が硬直した。
「…………っ」
今まで、煩いくらい大合唱していた蝉の声が、一斉に消えた。
蝉だけではない、この辰子島に住んでいる人の声、車の音、鳥の声、潮騒までも、存在していた全ての音が、誰かに消し去られてしまったかのように、なくなってしまった。
無音の中で夏の太陽だけが、ギラギラとアスファルトと、傾斜に立つ僕を容赦なく照らし、坂の上に佇んでいる異質な人を、陽炎のように映し出していた。
まるで、遊女の肌襦袢のような真赤な着物を着た女が立っている。
遠くからでも分かる位に肌は青白く、長い黒髪はほつれて汚らしい。まるで髪が伸びる古典的な日本人形が、大人の女性になってしまったかのように、錯覚した。
異様な雰囲気を醸し出す、赤い着物の女は全体的に色褪せている。人相は不透明な黒い硝子越しに映る顔のように、ぼんやりとしていて、はっきりとしない。
「…………駄目だ」
僕にも、ばぁちゃんと同じように霊感というものが備わっている。雨宮家はそういう家系なんだそうだ。霊視ができて、死んだ人間と交流する事ができる。
だが、日常生活において霊が視えるという特技は、あまり便利ではない。どちらかというと、生活に支障をきたす場合が多いので、普段は視えないように制御している。
なのに、あの坂の上に佇む赤い着物の霊は、僕のシャットダウンした器官を無視して姿を現したのだ。それだけ、あの霊の力が強いと言う事なんだろう。
実家の雨宮神社に戻るには、この道を登らなければ辿り着けない。
(――――関わりたくない。僕は関係ないんだ。視なければ良いだけ。視なければ意識をする事もない)
僕は目を閉じると、霊視を強制的に終了させようとしたが、無駄だった。恐らくあれは悪霊の類ではあるが、視えていると気取られなければ、問題はない筈である。
一歩踏み出したものの、足首に重石でもつけられたような重量を感じた。
僕は、動揺している事を相手に気取られないように、平然を装いつつ坂道を登る。坂は蜃気楼のように湯気が立ち込め、熱中症になりそうなくらい暑く、頭がくらくらして倒れそうだ。
僕は呼吸を荒らげながら、重い足を引きずって登っていく。
(久しぶりの坂道だから、こんなに重いのか? いや、違う……)
足首になにか、猫や小型犬のような生き物がしっかりと絡み付いているような気がして、僕は思わずそれを見てしまった。
肉塊だ。
まるで、羊水の中で蠢く胎児のように、肉塊が僕の足に纏わりついている。
僕が赤い着物の女に近付くと、震える肉塊から、胎児が進化するように、小さな水掻きの手が、僕の足に縋り付く。そして、その肉塊から赤ん坊がぐずりだすような声が聞こえた。
僕の動悸は激しくなる。
早く、早く神社の鳥居を潜らなければならない。
目の端に映る、赤い着物の女が段々と迫って来て、異様な匂いに吐き気がした。
鉄錆の匂いと、肉が腐ったような香りが風に乗って漂ってくる。赤い着物の女に近付くにつれて、赤ん坊の泣き声はさらに大きくなっていき、悲鳴のように激しくなってきた。
赤い着物の女は、側を横切ろうとする僕に関心はないようで、深く項垂れたまま、微動だにしない。
彼女は、僕が良く知っている歌を口ずさんでいるようだが、頭の中は霧がかったように、曲名が思い出せなかった。
ああ、煩い。五月蝿い。うるさい。ウルサイ。
(鼓膜が破れそうだ)
赤い着物の女の横をすれ違う瞬間、僕の手首が強く掴まれ、思わず女の顔を視てしまった。
視たんだろうか?
分からない。認識ができないのだ。
吐きそうなくらい目眩がするから、僕は熱中症なのかもしれない。
間近で赤い着物の女の顔を直視している筈なのに、それが映像として、僕の頭の中に入ってこないのだ。
『うしろのしょうめんだーーあれ ツ カマエ タ』
ただ、血のように真赤な口が限界まで開いて、ゲラゲラと僕を嘲笑っている。女の甲高い笑い声が遠くなっていき、やがて僕は意識を失った。
「健」
坂道で意識を失った僕は、次の瞬間、ばぁちゃんの部屋に居た。縁側から涼しい風が吹き抜けていく。
僕はいつの間にか正座をしていて、ばぁちゃんと膝を突き合わせていた。
巫女服を着て、乱れた白髪混じりの髪を結ったばぁちゃんは、元気がなく少しやつれた表情で僕を怖い顔で見つめている。
「ばぁちゃん……なんで」
「健。あんたは、あれと関わったら駄目だよ」
そう言うと、ばぁちゃんは両手を広げてパン、と大きく柏手を打った。その瞬間、携帯のアラームが鳴って僕はようやく目を覚ました。
「なんだ夢、か……?」
ピピピピ、というアラームの規則正しい音が、僕を現実に引き戻して安堵する。悪夢を見たせいで、寝汗で体はびっしょりになっていた。
実家から電話がかかってきた時、僕は嫌な予感がしていた。同年代のお年寄りよりも、比較的元気なばぁちゃんだったけれど、去年の春頃から、体調を崩しがちになっていたからだ。
父が病死してから、僕を育てる為に、母は働きに出ていたので、僕にとってばぁちゃんは、育ての親のような存在である。
「全く、拝み屋なんていつまでもやっているから、寿命が縮まるんだよ」
僕は、炎天下の中で汗を拭くと、誰に言うでもなく独り言を呟く。
人口二千三百人の離島、辰子島。
この島にある雨宮神社で、僕の物心がついた時から、ばぁちゃんは巫女兼、拝み屋のような事をしていた。
僕が成人して人並みに稼げるようになると、ばぁちゃんは拝み屋家業一本となり、母が巫女として神社の管理をしている。
ちなみに、爺ちゃんも早くに亡くなってしまっているので、雨宮家の男手は僕だけである。
そんな僕も都会に憧れを抱き、高校を卒業すると、辰子島を出て北関東にある工場に就職した。家族には、いずれお前が家業を継ぐのだから、巫覡の修行をしろと口酸っぱく言われているのだが、のらりくらりとかわしている。
母もばぁちゃんも、口ではそういうものの、僕を快くこの島から送り出し、時々仕送りなどをして応援してくれているので、感謝している。
――――チリン、チリン。
背後から、自転車のベルを鳴らす音が聞こえ、僕は振り返った。坂道を、小学生の男子二人組が、騒ぎながら立ち漕ぎして、必死に坂を登っている。
「元気だなぁ」
この坂を登りきり、三股に割れた道の真ん中を通ると、雨宮神社へと続く三十段ほどの階段が見えてくる。僕は子供の頃から、毎日そこを昇り降りしているので、島の子供達の中でも、随分と足腰が鍛えられている方だろう。
しかし、都会に出てからは便利さに胡座をかいて、体がなまってしまっているなぁ。
やはり、駅前のジムに通うべきか……?
僕は、そんな事を考えながら汗を拭き、少年達が坂を登り切る様子を目で追うと、体が硬直した。
「…………っ」
今まで、煩いくらい大合唱していた蝉の声が、一斉に消えた。
蝉だけではない、この辰子島に住んでいる人の声、車の音、鳥の声、潮騒までも、存在していた全ての音が、誰かに消し去られてしまったかのように、なくなってしまった。
無音の中で夏の太陽だけが、ギラギラとアスファルトと、傾斜に立つ僕を容赦なく照らし、坂の上に佇んでいる異質な人を、陽炎のように映し出していた。
まるで、遊女の肌襦袢のような真赤な着物を着た女が立っている。
遠くからでも分かる位に肌は青白く、長い黒髪はほつれて汚らしい。まるで髪が伸びる古典的な日本人形が、大人の女性になってしまったかのように、錯覚した。
異様な雰囲気を醸し出す、赤い着物の女は全体的に色褪せている。人相は不透明な黒い硝子越しに映る顔のように、ぼんやりとしていて、はっきりとしない。
「…………駄目だ」
僕にも、ばぁちゃんと同じように霊感というものが備わっている。雨宮家はそういう家系なんだそうだ。霊視ができて、死んだ人間と交流する事ができる。
だが、日常生活において霊が視えるという特技は、あまり便利ではない。どちらかというと、生活に支障をきたす場合が多いので、普段は視えないように制御している。
なのに、あの坂の上に佇む赤い着物の霊は、僕のシャットダウンした器官を無視して姿を現したのだ。それだけ、あの霊の力が強いと言う事なんだろう。
実家の雨宮神社に戻るには、この道を登らなければ辿り着けない。
(――――関わりたくない。僕は関係ないんだ。視なければ良いだけ。視なければ意識をする事もない)
僕は目を閉じると、霊視を強制的に終了させようとしたが、無駄だった。恐らくあれは悪霊の類ではあるが、視えていると気取られなければ、問題はない筈である。
一歩踏み出したものの、足首に重石でもつけられたような重量を感じた。
僕は、動揺している事を相手に気取られないように、平然を装いつつ坂道を登る。坂は蜃気楼のように湯気が立ち込め、熱中症になりそうなくらい暑く、頭がくらくらして倒れそうだ。
僕は呼吸を荒らげながら、重い足を引きずって登っていく。
(久しぶりの坂道だから、こんなに重いのか? いや、違う……)
足首になにか、猫や小型犬のような生き物がしっかりと絡み付いているような気がして、僕は思わずそれを見てしまった。
肉塊だ。
まるで、羊水の中で蠢く胎児のように、肉塊が僕の足に纏わりついている。
僕が赤い着物の女に近付くと、震える肉塊から、胎児が進化するように、小さな水掻きの手が、僕の足に縋り付く。そして、その肉塊から赤ん坊がぐずりだすような声が聞こえた。
僕の動悸は激しくなる。
早く、早く神社の鳥居を潜らなければならない。
目の端に映る、赤い着物の女が段々と迫って来て、異様な匂いに吐き気がした。
鉄錆の匂いと、肉が腐ったような香りが風に乗って漂ってくる。赤い着物の女に近付くにつれて、赤ん坊の泣き声はさらに大きくなっていき、悲鳴のように激しくなってきた。
赤い着物の女は、側を横切ろうとする僕に関心はないようで、深く項垂れたまま、微動だにしない。
彼女は、僕が良く知っている歌を口ずさんでいるようだが、頭の中は霧がかったように、曲名が思い出せなかった。
ああ、煩い。五月蝿い。うるさい。ウルサイ。
(鼓膜が破れそうだ)
赤い着物の女の横をすれ違う瞬間、僕の手首が強く掴まれ、思わず女の顔を視てしまった。
視たんだろうか?
分からない。認識ができないのだ。
吐きそうなくらい目眩がするから、僕は熱中症なのかもしれない。
間近で赤い着物の女の顔を直視している筈なのに、それが映像として、僕の頭の中に入ってこないのだ。
『うしろのしょうめんだーーあれ ツ カマエ タ』
ただ、血のように真赤な口が限界まで開いて、ゲラゲラと僕を嘲笑っている。女の甲高い笑い声が遠くなっていき、やがて僕は意識を失った。
「健」
坂道で意識を失った僕は、次の瞬間、ばぁちゃんの部屋に居た。縁側から涼しい風が吹き抜けていく。
僕はいつの間にか正座をしていて、ばぁちゃんと膝を突き合わせていた。
巫女服を着て、乱れた白髪混じりの髪を結ったばぁちゃんは、元気がなく少しやつれた表情で僕を怖い顔で見つめている。
「ばぁちゃん……なんで」
「健。あんたは、あれと関わったら駄目だよ」
そう言うと、ばぁちゃんは両手を広げてパン、と大きく柏手を打った。その瞬間、携帯のアラームが鳴って僕はようやく目を覚ました。
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