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私の譲れないもの
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槐と言う名前を口にした瞬間に涙が溢れてきた。
消された記憶が次々と思い出されていくような感覚に、くるみは戸惑う。
由利とお昼ごはんを食べて、彼女がはじめの空蝉の姫だと聞いてから、いったいどれ位の間自分は記憶を失っていたのだろう。
くるみは不安になって心臓が不規則に動くのを感じた。観光案内をしていたと言う話しだし、お昼を一緒に食べて、なんらかの事情で槐やみんなの記憶が無いまま、由利と一緒に過ごしたのだろうか。
「叔父さん、今日は何日?」
「今日は三月三日だよ、橋本さんが東京からくるからひな祭りの日に観光案内するってはしゃいでたじゃないか。くるちゃん熱でもあるのかい?」
(そんな記憶は私には無いし、由利さんとお昼を食べたのはもっと前だよ……! いったいどうなってるの?)
――――半年間もの間、槐たちの記憶は消え、全く自分の身に覚えのない由利との楽しい思い出が存在し、自分の知らない所で周りの人たちに共有されている。もしかすると、昨日まで自分にも由利との楽しい思い出があったのかも知れないが、綺麗さっぱり忘れていた。
半年間、心のどこかで取れない棘のような違和感が記憶を呼び覚ましてくれたのだろうか。
大切な鬼達の姿はどこにも無く、みんなを描いたはずの画用紙や、みんなで一緒に作った飾り付けも全て無くなってしまって、くるみは心が抜け落ちたような気がした。
怪訝そうな顔で自分を見つめる叔父を振り切るように、エプロンを再び外すと店を飛び出す。
「くるみちゃん、今日はもうお休みしてていいからね! もう暗くなるから早めに帰ってくるんだよ」
心配した叔父の声が背中から追い掛けてくるが、くるみは構わず夕暮れの中、自転車を走らせた。
槐がくるみと共にいる為に、従兄弟として彼女の人生に干渉した。カフェ『彩』を『妖』にすると言う悪戯をし、猫又の漣を看板猫に迎えた。
槐の部下であるツンデレの雅が店員になって、お腹を空かせた鵺を保護した。源樹に攫われた時も、みんなは命懸けで助けにくれたのに涙が溢れてきた。
忘れる事が出来ない大切な思い出が達が、自分から抜け落ちてしまった事にショックを隠せなかった。
「――――くるみさん。どこに行くつもりなの?」
自転車を漕いでいると前方にぼんやりと人影のような物が浮かび上がった。驚いてくるみは急ブレーキをかける。
夕暮れ時に春らしい装いの黒髪の美女が柔らかく微笑んでいた。思わずくるみは息を飲むと『初めの空蝉の姫』を見つめた。
「槐と初めて出会った場所に行くの、由利さんどいて」
「どうして? せっかく絵本作家デビューも決まって、カフェと両立して頑張っているのに、鬼に会いに行かなくてもいいでしょ?」
どうやら、半年間の間で本格的に絵本作家デビューも決まったようだ。中学生からの夢が叶うのは嬉しいはずなのに、それよりも今はもっと大切なものがある。
「槐とみんなに会わなかったら、私はスランプから抜け出せなかった。みんなが居てくれたから私は絵が描けるようになったの……だから、どいて由利さん」
「――――朱点童子が、貴方から自分たちの記憶を消すように私に頼んだのよ、くるみさん。鬼と関わらないで現実の世界で幸せになって欲しいと願ったから。そんな彼の気持ちを踏みにじるの?」
槐が、自分の記憶を消して欲しいと願った事を知ってくるみは目を見開いた。それが本当なら、どうして自分の気持ちも聞かずに記憶を消してしまったんだろうという悲しみと、もう逢えないかも知れないと言う絶望感に涙を流した。
誰よりも、くるみの事を考えていた槐は絵本作家として現実の世界で、幸せになってくれる事を望んでいるのだろうか。尊重してくれる気持ちは嬉しいけれど、自分の願いは違うんだと叫びたくなる。
「東海出版で、絵本作家、イラストレーターになるって聞いてくるみさんのお母様も喜んでいたでしょう?
せっかく、親子の絆をもう一度結べるチャンスをくれたんだから……私達がずっと友達になってあげる。私と一緒にいたら、くるみさんの家族が亡くなった後も時が止まった世界で、一緒に楽しく暮らせるよ」
由利の背後に、数人の女性が立っていた。年齢は高校生から母親と同年代くらいまでで、どの人も、知らない人ばかりだったが懐かしく感じられる。
だが、くるみは頭を振った。
母親の希望通り東海出版社で仕事をしても、これから先、人生のあらゆる選択でぶつかり合い、母親のご機嫌を取って自分を殺さなければいけないのは嫌だと思った。
「私は、お母さんの為に絵を描いているんじゃないよ。人間でも、物の怪でも喜んでもらえる人のために描いてる。
悲しいけど、実の親子でもわかりあえない関係の人達もいるんだよ、私達みたいに。
私はもう、大人だから……自分で責任を持てるよ。
永遠の命なんて興味ない……槐達と永遠に過ごせなくてもいい、限られた時間でも思い出を作るの! だから、邪魔しないで!」
くるみが叫ぶと由利が怯み、彼女の背後の透明な空間が、ガラスが割られたように粉々になる。
思わず悲鳴をあげて、空蝉の姫達が身を守るように身を低くした。なんらかの異変に気付いて由利が結界を張ったのだろうが、彼女が思うよりもくるみは空蝉の姫としての能力が強力だったようだ。
由利の術が破られると驚愕するように彼女を見た。他の空蝉の姫達もみんな戸惑い、自分を恐れるかのような視線を向けている。
「驚いた……私の結界を破るなんて。貴方って本当に力が強いんだね。仕方ないわ、私達の仲間としてこのまま迎えようと思っていたのに。これが最後のチャンスよ。
絵本作家としての夢も無くなっちゃうし、お母さんとも関係は悪いままだよ? それに朱点童子はもう、この土地にはいないかも知れない。それでも私達と一緒に来ないの?」
由利はくるみの意志が固いと知ると、不機嫌そうな表情で問いかけた。空蝉の姫の仲間たちの冷たい視線が突き刺さるが、くるみはそれを振り払うように由利の誘いを断った。
槐がこの土地から離れたという由利の指摘は正しいかも知れないが、それでも心のどこかで信じていた。
「ごめんなさい。譲れないの……私にとってあの鬼達が友達で家族で、恋人なの」
そう言うと、くるみは自転車のハンドルを握って勢い良く漕ぎ始めると、彼女たちの脇を通った。
由利に記憶を消されて、空蝉の姫達と楽しく過ごしていても、心の中で小骨が喉に刺さったような違和感を覚えていた。
だから、無意識のうちに皆との記憶を取り戻そうとして由利にかけられた術を無効化した。
空蝉の姫の仲間は悪くはない、でも自分には槐達が必要だった。
(――――私の譲れないものはみんなだよ。槐に会いたい。会わなくちゃ)
初めて迷い込んだあの場所に、くるみは全速力で自転車を走らせた。もう、空蝉の姫の声は聞こえない。
✤✤✤
自転車を止めると、くるみは日が傾き始めた空を見上げた。薄暗い小道を歩くのは物理的にも勇気がいったが、携帯の明かりを頼りに歩き始めた。
あの日のように神楽に使う鈴の音は聞こえない。
半年も経てば、幸せに暮らしているかのように見えた自分を諦めて、別の土地へ移住したかも知れないと思うと不安で泣き叫びそうになる。
「槐! どこ、どこにいるの!?」
叫んでも聞こえるのは虫の声や鳥の声だけだった。くるみの頬に涙が伝って、草むらをかき分けて歩いてもあの幻想的な紅葉の沼にはたどり着く事が出来なかった。
ずいぶんと歩いて、小さな森を抜けると古い有刺鉄線に囲われた溜め池のある場所に出た。
「槐……ひっく、えんじゅ、……なんで? お前を、おいて、どこにも、行かないって、言ったのに、ひっく、槐、会いたい、会いたいよ。みんなに、ひっく、会いたい……!」
くるみはフェンスの前でしゃがみ込むと子供のように泣いた。
槐の事をこんなに好きなのに、自分が人間だから朱点童子と一緒にいる事ができないんだろうか、彼を不安にさせてしまうような素振りを自分がしてしまったのだろうか、と次々と止めどなく負の感情が湧き上がってくる。
どれくらい泣いていただろう、それでも涙は枯れず息が苦しくなる。
「――――くるみ、こんな所で泣いておったら鬼に攫われてしまうぞ」
ふわり、と上着がかけられ聞き覚えのある優しい声がすると、くるみはしゃがみこんだままゆっくりと振り返った。
鮮やかな紅葉、美しい朱が水面鏡に映って、錦鯉が空を泳いでいる。
ここは朱点童子の常夜、覗き込んできた槐の銀月の瞳は優しく、困ったように微笑んでいた。
「えん……じゅ!」
くるみな大粒の涙を流すと、槐の首元に抱きついた。一瞬、驚いたものの彼女の体を抱きとめると優しく抱擁した。
夢や幻覚じゃない事を確かめるように、体を密着させる。いつもの温もりと香りを感じ、落ち着かせるように、槐の大きな掌が背中を撫でるとようやく泣き止み、背中に頬を寄せた。
「ばか……勝手に消さないでよ。私の大切な記憶を、勝手に……もうどこにも行かないで。槐がそばにいないと、私……駄目なの」
「うむ。可愛すぎるな……」
槐は思わず唸るようにそう言うと、くるみを優しく包み込むように抱きしめて目を伏せた。二人の周りを鮮やかな、紅葉の葉がゆらゆらと舞い、錦鯉が二人を見守るように優雅に泳いでいる。
「俺は不安だったのだ。吉備由利に手を引けと言われたのもあるが、お前は人間で将来の夢があった。俺は血を吸う鬼で……いつか、お前の夢を潰してしまうかも知れないとな。
人間の男と結ばれる方が幸せなのかとくだらぬ事を思った。
記憶を消してもお前の事をずっと遠くから見守っていた。だが、由利がそれに気付いて結界を張りだしてな……それさえもこの俺には許されぬのかと絶望した」
くるみが顔を上げると、槐は顎を掴んだ。
由利は、槐が完全に干渉できないよう、見守る事さえも嫌って、完全に関係を絶たせようとしたようだ。
愛しそうにくるみの唇をなぞる槐は、瞳を細めて問い質した。
「のう、くるみ。どうやって俺の記憶を取り戻したのだ? どうやって吉備由利の結界を突破した」
「分からない……でも、きっと槐がいない生活は幸せじゃなかったんだよ。だって、由利さんとの思い出なんて全部吹き飛んで、槐とみんなのこと思い出したんだよ。
私、絵本作家になるのは夢だったけど……私の絵を見て喜んでくれるみんなや、カフェのお客さんがいるだけで、幸せだって気付いたの」
その言葉に、槐はたまらずくるみに口付けた。愛しそうに甘噛みし、開いた隙間から舌先を挿し込んで絡める。深くて優しい口付けに、互いの想いを確かめあった。
二人の口付けが終わると、気配を感じて二人は顔を上げる。
そのには、人間の姿で涙をこらえる漣、鬼の姿で腕を組み目を閉じる雅、そして涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった鵺がいた。
「漣ちゃん! 茨木くん! 鵺ちゃん!」
くるみは涙を浮かべて三人の名前を呼ぶと、それぞれ、少しはにかんだように笑った。
「全く、いつまで惚気が続くのかと思いましたよ。常夜で結納を済ませるつもりですか?」
「くるみぃ……やっぱり、俺……くるみの膝の上が好き。一緒にいたい、離れたくない!」
「くるみちゃん~~泣かないで~~。くるみちゃんが泣くと、僕も~~悲しくなるの~~」
槐に咎められ、彼女の元を去った三人もまた同じように遠くから見守っていた。それぞれ思いの差はあっても、カフェ『妖』が好きでそこで働くくるみの事を大事に思っていた。
「みんなの事、大好きだよ! だからもう、どこにも行かないで……みんなみたいに長生き出来ないけど、一緒に過ごしたいの」
三人は、顔を見合わせるとそれぞれ微笑んで嬉しそうに頷いた。
ふと、背後から槐がくるみを抱きしめると言った。
「くるみが、年老いてこの世を去る時が来るまで、俺たちはずっと側にいるぞ。俺は……そうだな、生まれ変わったお前を必ず探して、また夫婦になる」
くるみは頬を染めると、これ以上ないくらい幸せな微笑みを浮かべた。
消された記憶が次々と思い出されていくような感覚に、くるみは戸惑う。
由利とお昼ごはんを食べて、彼女がはじめの空蝉の姫だと聞いてから、いったいどれ位の間自分は記憶を失っていたのだろう。
くるみは不安になって心臓が不規則に動くのを感じた。観光案内をしていたと言う話しだし、お昼を一緒に食べて、なんらかの事情で槐やみんなの記憶が無いまま、由利と一緒に過ごしたのだろうか。
「叔父さん、今日は何日?」
「今日は三月三日だよ、橋本さんが東京からくるからひな祭りの日に観光案内するってはしゃいでたじゃないか。くるちゃん熱でもあるのかい?」
(そんな記憶は私には無いし、由利さんとお昼を食べたのはもっと前だよ……! いったいどうなってるの?)
――――半年間もの間、槐たちの記憶は消え、全く自分の身に覚えのない由利との楽しい思い出が存在し、自分の知らない所で周りの人たちに共有されている。もしかすると、昨日まで自分にも由利との楽しい思い出があったのかも知れないが、綺麗さっぱり忘れていた。
半年間、心のどこかで取れない棘のような違和感が記憶を呼び覚ましてくれたのだろうか。
大切な鬼達の姿はどこにも無く、みんなを描いたはずの画用紙や、みんなで一緒に作った飾り付けも全て無くなってしまって、くるみは心が抜け落ちたような気がした。
怪訝そうな顔で自分を見つめる叔父を振り切るように、エプロンを再び外すと店を飛び出す。
「くるみちゃん、今日はもうお休みしてていいからね! もう暗くなるから早めに帰ってくるんだよ」
心配した叔父の声が背中から追い掛けてくるが、くるみは構わず夕暮れの中、自転車を走らせた。
槐がくるみと共にいる為に、従兄弟として彼女の人生に干渉した。カフェ『彩』を『妖』にすると言う悪戯をし、猫又の漣を看板猫に迎えた。
槐の部下であるツンデレの雅が店員になって、お腹を空かせた鵺を保護した。源樹に攫われた時も、みんなは命懸けで助けにくれたのに涙が溢れてきた。
忘れる事が出来ない大切な思い出が達が、自分から抜け落ちてしまった事にショックを隠せなかった。
「――――くるみさん。どこに行くつもりなの?」
自転車を漕いでいると前方にぼんやりと人影のような物が浮かび上がった。驚いてくるみは急ブレーキをかける。
夕暮れ時に春らしい装いの黒髪の美女が柔らかく微笑んでいた。思わずくるみは息を飲むと『初めの空蝉の姫』を見つめた。
「槐と初めて出会った場所に行くの、由利さんどいて」
「どうして? せっかく絵本作家デビューも決まって、カフェと両立して頑張っているのに、鬼に会いに行かなくてもいいでしょ?」
どうやら、半年間の間で本格的に絵本作家デビューも決まったようだ。中学生からの夢が叶うのは嬉しいはずなのに、それよりも今はもっと大切なものがある。
「槐とみんなに会わなかったら、私はスランプから抜け出せなかった。みんなが居てくれたから私は絵が描けるようになったの……だから、どいて由利さん」
「――――朱点童子が、貴方から自分たちの記憶を消すように私に頼んだのよ、くるみさん。鬼と関わらないで現実の世界で幸せになって欲しいと願ったから。そんな彼の気持ちを踏みにじるの?」
槐が、自分の記憶を消して欲しいと願った事を知ってくるみは目を見開いた。それが本当なら、どうして自分の気持ちも聞かずに記憶を消してしまったんだろうという悲しみと、もう逢えないかも知れないと言う絶望感に涙を流した。
誰よりも、くるみの事を考えていた槐は絵本作家として現実の世界で、幸せになってくれる事を望んでいるのだろうか。尊重してくれる気持ちは嬉しいけれど、自分の願いは違うんだと叫びたくなる。
「東海出版で、絵本作家、イラストレーターになるって聞いてくるみさんのお母様も喜んでいたでしょう?
せっかく、親子の絆をもう一度結べるチャンスをくれたんだから……私達がずっと友達になってあげる。私と一緒にいたら、くるみさんの家族が亡くなった後も時が止まった世界で、一緒に楽しく暮らせるよ」
由利の背後に、数人の女性が立っていた。年齢は高校生から母親と同年代くらいまでで、どの人も、知らない人ばかりだったが懐かしく感じられる。
だが、くるみは頭を振った。
母親の希望通り東海出版社で仕事をしても、これから先、人生のあらゆる選択でぶつかり合い、母親のご機嫌を取って自分を殺さなければいけないのは嫌だと思った。
「私は、お母さんの為に絵を描いているんじゃないよ。人間でも、物の怪でも喜んでもらえる人のために描いてる。
悲しいけど、実の親子でもわかりあえない関係の人達もいるんだよ、私達みたいに。
私はもう、大人だから……自分で責任を持てるよ。
永遠の命なんて興味ない……槐達と永遠に過ごせなくてもいい、限られた時間でも思い出を作るの! だから、邪魔しないで!」
くるみが叫ぶと由利が怯み、彼女の背後の透明な空間が、ガラスが割られたように粉々になる。
思わず悲鳴をあげて、空蝉の姫達が身を守るように身を低くした。なんらかの異変に気付いて由利が結界を張ったのだろうが、彼女が思うよりもくるみは空蝉の姫としての能力が強力だったようだ。
由利の術が破られると驚愕するように彼女を見た。他の空蝉の姫達もみんな戸惑い、自分を恐れるかのような視線を向けている。
「驚いた……私の結界を破るなんて。貴方って本当に力が強いんだね。仕方ないわ、私達の仲間としてこのまま迎えようと思っていたのに。これが最後のチャンスよ。
絵本作家としての夢も無くなっちゃうし、お母さんとも関係は悪いままだよ? それに朱点童子はもう、この土地にはいないかも知れない。それでも私達と一緒に来ないの?」
由利はくるみの意志が固いと知ると、不機嫌そうな表情で問いかけた。空蝉の姫の仲間たちの冷たい視線が突き刺さるが、くるみはそれを振り払うように由利の誘いを断った。
槐がこの土地から離れたという由利の指摘は正しいかも知れないが、それでも心のどこかで信じていた。
「ごめんなさい。譲れないの……私にとってあの鬼達が友達で家族で、恋人なの」
そう言うと、くるみは自転車のハンドルを握って勢い良く漕ぎ始めると、彼女たちの脇を通った。
由利に記憶を消されて、空蝉の姫達と楽しく過ごしていても、心の中で小骨が喉に刺さったような違和感を覚えていた。
だから、無意識のうちに皆との記憶を取り戻そうとして由利にかけられた術を無効化した。
空蝉の姫の仲間は悪くはない、でも自分には槐達が必要だった。
(――――私の譲れないものはみんなだよ。槐に会いたい。会わなくちゃ)
初めて迷い込んだあの場所に、くるみは全速力で自転車を走らせた。もう、空蝉の姫の声は聞こえない。
✤✤✤
自転車を止めると、くるみは日が傾き始めた空を見上げた。薄暗い小道を歩くのは物理的にも勇気がいったが、携帯の明かりを頼りに歩き始めた。
あの日のように神楽に使う鈴の音は聞こえない。
半年も経てば、幸せに暮らしているかのように見えた自分を諦めて、別の土地へ移住したかも知れないと思うと不安で泣き叫びそうになる。
「槐! どこ、どこにいるの!?」
叫んでも聞こえるのは虫の声や鳥の声だけだった。くるみの頬に涙が伝って、草むらをかき分けて歩いてもあの幻想的な紅葉の沼にはたどり着く事が出来なかった。
ずいぶんと歩いて、小さな森を抜けると古い有刺鉄線に囲われた溜め池のある場所に出た。
「槐……ひっく、えんじゅ、……なんで? お前を、おいて、どこにも、行かないって、言ったのに、ひっく、槐、会いたい、会いたいよ。みんなに、ひっく、会いたい……!」
くるみはフェンスの前でしゃがみ込むと子供のように泣いた。
槐の事をこんなに好きなのに、自分が人間だから朱点童子と一緒にいる事ができないんだろうか、彼を不安にさせてしまうような素振りを自分がしてしまったのだろうか、と次々と止めどなく負の感情が湧き上がってくる。
どれくらい泣いていただろう、それでも涙は枯れず息が苦しくなる。
「――――くるみ、こんな所で泣いておったら鬼に攫われてしまうぞ」
ふわり、と上着がかけられ聞き覚えのある優しい声がすると、くるみはしゃがみこんだままゆっくりと振り返った。
鮮やかな紅葉、美しい朱が水面鏡に映って、錦鯉が空を泳いでいる。
ここは朱点童子の常夜、覗き込んできた槐の銀月の瞳は優しく、困ったように微笑んでいた。
「えん……じゅ!」
くるみな大粒の涙を流すと、槐の首元に抱きついた。一瞬、驚いたものの彼女の体を抱きとめると優しく抱擁した。
夢や幻覚じゃない事を確かめるように、体を密着させる。いつもの温もりと香りを感じ、落ち着かせるように、槐の大きな掌が背中を撫でるとようやく泣き止み、背中に頬を寄せた。
「ばか……勝手に消さないでよ。私の大切な記憶を、勝手に……もうどこにも行かないで。槐がそばにいないと、私……駄目なの」
「うむ。可愛すぎるな……」
槐は思わず唸るようにそう言うと、くるみを優しく包み込むように抱きしめて目を伏せた。二人の周りを鮮やかな、紅葉の葉がゆらゆらと舞い、錦鯉が二人を見守るように優雅に泳いでいる。
「俺は不安だったのだ。吉備由利に手を引けと言われたのもあるが、お前は人間で将来の夢があった。俺は血を吸う鬼で……いつか、お前の夢を潰してしまうかも知れないとな。
人間の男と結ばれる方が幸せなのかとくだらぬ事を思った。
記憶を消してもお前の事をずっと遠くから見守っていた。だが、由利がそれに気付いて結界を張りだしてな……それさえもこの俺には許されぬのかと絶望した」
くるみが顔を上げると、槐は顎を掴んだ。
由利は、槐が完全に干渉できないよう、見守る事さえも嫌って、完全に関係を絶たせようとしたようだ。
愛しそうにくるみの唇をなぞる槐は、瞳を細めて問い質した。
「のう、くるみ。どうやって俺の記憶を取り戻したのだ? どうやって吉備由利の結界を突破した」
「分からない……でも、きっと槐がいない生活は幸せじゃなかったんだよ。だって、由利さんとの思い出なんて全部吹き飛んで、槐とみんなのこと思い出したんだよ。
私、絵本作家になるのは夢だったけど……私の絵を見て喜んでくれるみんなや、カフェのお客さんがいるだけで、幸せだって気付いたの」
その言葉に、槐はたまらずくるみに口付けた。愛しそうに甘噛みし、開いた隙間から舌先を挿し込んで絡める。深くて優しい口付けに、互いの想いを確かめあった。
二人の口付けが終わると、気配を感じて二人は顔を上げる。
そのには、人間の姿で涙をこらえる漣、鬼の姿で腕を組み目を閉じる雅、そして涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった鵺がいた。
「漣ちゃん! 茨木くん! 鵺ちゃん!」
くるみは涙を浮かべて三人の名前を呼ぶと、それぞれ、少しはにかんだように笑った。
「全く、いつまで惚気が続くのかと思いましたよ。常夜で結納を済ませるつもりですか?」
「くるみぃ……やっぱり、俺……くるみの膝の上が好き。一緒にいたい、離れたくない!」
「くるみちゃん~~泣かないで~~。くるみちゃんが泣くと、僕も~~悲しくなるの~~」
槐に咎められ、彼女の元を去った三人もまた同じように遠くから見守っていた。それぞれ思いの差はあっても、カフェ『妖』が好きでそこで働くくるみの事を大事に思っていた。
「みんなの事、大好きだよ! だからもう、どこにも行かないで……みんなみたいに長生き出来ないけど、一緒に過ごしたいの」
三人は、顔を見合わせるとそれぞれ微笑んで嬉しそうに頷いた。
ふと、背後から槐がくるみを抱きしめると言った。
「くるみが、年老いてこの世を去る時が来るまで、俺たちはずっと側にいるぞ。俺は……そうだな、生まれ変わったお前を必ず探して、また夫婦になる」
くるみは頬を染めると、これ以上ないくらい幸せな微笑みを浮かべた。
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