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第一部
旅のはじまり
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きみの見た 空の青さを知っている
───────
目を覚まして真っ先に目に映ったのは、見慣れた家族の顔だった。
「アル、目が覚めたか……!」
「アルちゃん……良かった」
アルゼイドとティアが身を乗り出して声をかけた。
ターニャも彼らの後ろに控えていて、ほっと安心したような顔をしていた。
「ここは……俺の部屋か……。俺は……」
自分のみに何が起きたのか、朧気な記憶を反芻しながら体を起こそうとすると、胸に鋭い痛みがはしった。
「いっ……つつ……」
痛みに耐えかねて起こしかけた体を再びベッドに沈めた。
「まだ無茶しちゃだめよ……治癒の魔法はかけてるけど、アルちゃんが思ってるより傷はずっと深いんだから」
傷。
胸に手を当てて傷跡に指を這わせる。
派手に切りつけられてはいるが急所は外れていた。
その傷のおかげで朧気だった記憶が確かな輪郭をもって形になった。
「そうか……俺は……」
イーリスに斬られた。
そして気を失ってしまったらしい。
胸が痛んだ。
斬られた傷とは違う、また別の痛みだ。
気落ちするアルテアを見て、事情を察しているのか、アルゼイドが話し始めた。
「今回のことは……父さんの力不足でお前や……ひいては領民を危険な目に合わせてしまった。すまなかった」
その顔は後悔の念に染まっていた。アルテアが確認しただけでも多くの死者がいた。
実際はもっと多いのだろう。
アルテアも、アルゼイドがそこまで落ち込む姿を見たのは初めてだった。
「……父さんのせいじゃないさ。あれくらい大規模な襲撃に対処するのは軍隊でもなきゃ難しいだろ。……犠牲者の数は?」
「……まだ確認中だ」
「負傷者は私と奥様で治癒にあたりほぼ全ての者は一命をとりとめましたが……それでも助からなかった者もいます。犠牲者はかなりの数にのぼるでしょう」
アルゼイドを補足するようにターニャが言う。
「すまなかった……お前を危険な目にあわせただけでなく、辛い思いもさせてしまった」
イーリスのことだろう。
「……父さんは、知ってたの?」
「知っていたわけではない。だが薄々、何かあると思ってはいた。本当に気がついたのはほとんどお前と同じタイミング……あの魔力を感知してからだ」
「……そっか」
「アル……」
項垂れるアルテアに励ましの言葉を掛けようとするアルゼイドをティアが制した。
それに応じてアルゼイドも言葉を切った。
今はひとりにしてあげよう。
そういう気遣いだろう。
「アルちゃん。お母さんたちは下に戻ってるわね。今はただ、ゆっくり休んで傷を治すのよ」
「ああ、そうだな。明日、異端狩りや闇狩りがやってきてまたばたばたするだろう。お前も何か聞かれるかもしれんが……黙っておけばいいさ。対応は全て父さんがやる、ゆっくり休め」
「ありがとう、二人とも。ターニャも」
「もったいないお言葉です。ごゆっくり休んで下さい、坊ちゃん」
そうして三人は部屋を出た。
ひとり残されたアルテアは、改めてイーリスとの出来事を思い出す。
勇者。
世界の剣であり、盾。世界の守護者。
その肩書き通り、圧倒的な戦闘力だった。アルテアには彼女の動きをまるで追えなかった。
天と地ほどの実力差。殺そうと思えば殺せたはずだ。だが自分は生きていた。きっと手加減されたのだろう。
自分は彼女に助けられたのだ。イーリスが割って入らなければリーベルトに殺されていたかもしれない。
不甲斐ない。アルテアはシーツを握る小さな手を震わせた。
彼女が最後に見せた顔が頭から離れない。
アルテアは決意したような顔で真っ直ぐ天井を見つめた。
「俺は……俺は、あいつを」
───────
「おーい!もっと右に寄せろ!そう、そう……あー!今度は行きすぎだ!下手くそが!」
「なんだと、てめー!もっぺん行ってみろ!ぶん殴るぞ!」
「あー!?やれるもんならやってみろ!」
「ちょっと、あんたたち!喧嘩してないで真面目にやんな!寝る家が無いままでもいいのかい!」
「食事の配給はこっちだよー!家が焼けちまった人は村の中央広場まで来てくれー!」
村は喧騒で満ちていた。
その喧騒の中を、少年が赤い髪をたなびかせ、歩いている。
あてはない。
ただ、村の皆の様子が見たかったからだ。
異端教徒の暗躍に端を発したイーヴルの襲撃から数日。
村は再興の真っ只中にあった。
人とはたくましいもので、村民に多くの死者を出し村中のほとんどの家屋は燃え落ちてしまっていたが、それでも挫けずに皆は復興に励んでいた。
少年はその光景を尊敬めいた顔で見つめる。
「アルくーん!!」
不意に呼ばれた自分の名前。
それに反応して少年は声の方へと顔を向ける。
「よう、ノエル」
少年──アルテア・サンドロッドは駆け寄る少女に手をあげて応えた。
「あ、アル、くんっ……!」
少女はアルテアの前まで来ると足を止めてぜぇぜぇと膝に手をついて呼吸を整えた。よほど急いで走ってきたのか、少女のふっくらとした柔らかそうな頬を汗がつたい、それが落ちて地面にいくつかシミを作った。
「だいじょうぶか……?」
そう声をかけながら腰を屈めて少女の顔を覗き込んだ。すると少女はなんとも間の抜けた悲鳴をあげて尻もちをつく。
「ひゃ、ひゃわああ……!!」
「シャッー!!」
「うおおっ!?」
少女の悲鳴に反応して、少女の影から一匹の小さな猫──もといケットシーが飛び出してアルテアに襲いかかった。突然のことに流石のアルテアも面食らって大きく後ろへ仰け反った。
一瞬、お互いの視線がぶつかり、なんとも言えない空気になる。
「す、すまんな……驚かせて。ジルバーンも、落ち着けよ」
「う、ううん……私の方こそ、ごめん。ほら、ジルも、謝って」
主人の意向を無視してケットシーことジルバーンは「シャーッ!」となおもアルテアに威嚇を続けていた。何か嫌われることでもしただろうかと少しショックを受けつつノエルに手を差し伸べた。
ノエルは差し出された手を取って立ち上がり、おしりに付いた土ボコリをパンパンと何度か叩いて落とした。
「くくっ、まるで喜劇だの──ふぎゃあっ!」
堪えきれずアルテアの腰元でクツクツと笑いをこぼす魔導書をドン!と強めに叩いた。
「え、今の声って……」
「幻聴だな。きっとまだ疲れが抜けてないんだろう。まあ、あまり気にするな」
腰にぶら下げた魔導書に人格が宿っていることは、まだ誰にも話していない。魔導書の中に宿る人格曰く、悪気はないとのことではあるが、かつて世界中で暴れ回っていたことは事実であるらしい。
そんなわけのわからぬ存在を傍に置いていると知られたら、少し面倒なことになるだろう。だから今はまだ黙っていることにしている。
そんなこととは露知らず、金がかった茶髪の少女──ノエルは突如聞こえた謎の声に、すわ幽霊かと宝石のような翠緑の瞳に若干の怯えを見せていた。そんな彼女を落ち着かせる意味も込めて、アルテアは強引に話を進める。
「それで、どうしたんだ?俺に何か用があるんじゃないのか?」
「あ、うん……その、特に用はないんだけど……もう出歩いて平気なのかなって……」
「ああ、そうなのか。俺は大丈夫だよ。母さんの治癒魔法は超一流だからな。王都から来た宮廷魔道士も舌を巻いてたくらいだよ」
宮廷魔道士といえば王国を代表する魔法使いの集まり、つまり魔法使いの中でも凄腕のエリートである。
アルテアの母、ティアはその凄腕が白旗を振るほどの回復魔法の使い手であった。
母の魔法の腕前がかなり凄いということは当然知っていたが、まさかそれほどだとは思っておらず、アルテアも宮廷魔道士と同じく驚愕していたのは秘密だ。
「そっか……でも、家で安静にしてたほうがいいんじゃない……?」
「まあ、そうかもしれないんだが……連日、見知らぬ人が大勢訪ねてきててな。とてもじゃないが落ち着かないよ」
多数の死者を出した異端の暗躍、そしてイーヴルの襲撃は国内外を問わず大きく取りざたされた。
調査という名目で連日、王都から派遣された騎士団や魔法使い、また依頼を受けた冒険者ギルドの闇狩り、教会の者が押し寄せていた。
高純度の魔鉱石の原産地であるアーカディア大黒穴に隣接するこの領地は、各国が虎視眈々と狙っている地域でもある。
不祥事とも言える大事件。王国は各国──特に帝国から管理不足の指摘を受けてその占有権を脅かされないよう、事後処理に必死なのだ。
「……アルくんの家は領主代行だもんね、大変だよね……でも、その……体は平気でも……」
そこでノエルは言い淀んで口を噤んだ。だが、アルテアには彼女が何を言いたいのかはっきりとわかっていた。
「……イーリスのことなら大丈夫だよ。もう答えは出してる」
イーリス。わずか数ヶ月だが共に過ごした大切な存在である。その彼女が勇者だと知ったのはつい先日だ。
思えば彼女と初めて会った時、自分に似ていると感じたのは、彼女の背負う宿命が前世の自分が求められていたものと重なったからなのかもしれない。
だからこそ彼女をこのままにはしておけない。
ノエルも既にイーリスのことは知っていた。
「アルくんは……どうするつもりなの」
ノエルがおそるおそる聞いた。ノエル自身もうっすらとはわかっていた。
アルテアがどうするつもりなのか、そしてそれを聞いてしまったら、自分が深く傷つくことになるだろうことも。
だが聞かずにはいられなかった。ノエルにとっても、イーリスという少女は大切な存在だったからだ。
「俺は……イーリスを勇者の役目から解放する。あいつを、普通に笑って暮らせる世界に連れ出してやる。……たとえどれだけかかっても」
勇者の使命に囚われた彼女を切り捨ててこの世界を去ることはできない。前世の自分たちのような存在を見捨ててしまうことはしたくない。
前世の世界を変える前に、手始めにこの世界の理を変えてやろう。
これは反逆だ。世界に対する、運命に対する反逆だ。
「どうして……?死んじゃうかもしれないんだよ。それでも、やるの?」
「ああ。あいつは俺にとってかけがえのない、大切なひとだからだ」
アルテアは蒼穹の瞳で真っ直ぐにノエルを見て、そう告げた。その答えは、かつてアルテアに想いを告げた少女にとって決定的な答えだった。
ノエルの顔が一瞬、悲痛に歪み、そしてそれを隠すように顔を伏せた。
「……やっぱり、そう言うと思ってた」
声は震えていた。それでも彼女は顔を上げて、微笑んだ。
「……それでこそ、私の大好きなアルくんだね」
「ノエル──」
「私、先に行くね」
ノエルは何かを言いかけるアルテア制し、決意を秘めた顔でそう告げて踵を返して駆け出した。その姿を見て、アルテアも決意を新たに彼女の去っていったのとは違う方向へと歩き出した。
───────
夕焼けが照らす丘の上。
アルテアはひとり、目を閉じて風を感じていた。ほどよく冷たい風が体を吹き抜ける感触が思考を透きとおらせていく。
あの日、イーリスは泣いていた。
来るなと言われた。
来たら殺すとまで。
だが、アルテアにとってまるで関係なかった。
そんな言葉はアルテアの想いを挫く言葉たり得ない。
彼女が殺せないほど強くなればいいだけのことだ。
「ハク」
魔導書を呼ぶ声には強い意志がこもっていた。
「……なんだ」
「俺を……強くしてくれ。この世界の……いや──あらゆる世界の誰よりも」
「ふん……あらゆる世界とは大きく出たのぅ」
「お前なら出来る。違うか?」
魂操魔法で魂魄を融合した時に確かに見た、少女の記憶。
数多の世界を渡り歩き、神をも屠った神滅の魔女。
灰の魔導書に宿る存在、ハクもまた、まぎれもなく超越者である。
だからこそ、アルテアは請う。
「まあ、お主が弱いままでは……この前のようなことがあった時、私も気が休まらん」
彼女なりの肯定だ。
短い付き合いだが、アルテアは彼女のことがなんとなくわかる。
「しかし……お主の考えている方法と私のとる方法はおそらく一致していると思うが……それは普通の人間なら間違いなく命を落とす。お主もそうなるかもしれん。それでもやるか?」
いつになく真剣な声音のハクに、アルテアは即座に頷いてみせる。
「俺は死なない。お前との約束も必ず果たす」
根拠はない。だが不思議と確信があった。
「よかろう……ならば、わたしがお主を誰よりも強くしてやる。音を上げるなよ」
「ああ。望むところだ」
アルテアはそう言って腰の魔導書を手に取りページを開いた。
「【ハーモニクス】発動。同調を開始する」
それは、最強を目指す少年の旅の始まりを告げる言葉だった。
───────
目を覚まして真っ先に目に映ったのは、見慣れた家族の顔だった。
「アル、目が覚めたか……!」
「アルちゃん……良かった」
アルゼイドとティアが身を乗り出して声をかけた。
ターニャも彼らの後ろに控えていて、ほっと安心したような顔をしていた。
「ここは……俺の部屋か……。俺は……」
自分のみに何が起きたのか、朧気な記憶を反芻しながら体を起こそうとすると、胸に鋭い痛みがはしった。
「いっ……つつ……」
痛みに耐えかねて起こしかけた体を再びベッドに沈めた。
「まだ無茶しちゃだめよ……治癒の魔法はかけてるけど、アルちゃんが思ってるより傷はずっと深いんだから」
傷。
胸に手を当てて傷跡に指を這わせる。
派手に切りつけられてはいるが急所は外れていた。
その傷のおかげで朧気だった記憶が確かな輪郭をもって形になった。
「そうか……俺は……」
イーリスに斬られた。
そして気を失ってしまったらしい。
胸が痛んだ。
斬られた傷とは違う、また別の痛みだ。
気落ちするアルテアを見て、事情を察しているのか、アルゼイドが話し始めた。
「今回のことは……父さんの力不足でお前や……ひいては領民を危険な目に合わせてしまった。すまなかった」
その顔は後悔の念に染まっていた。アルテアが確認しただけでも多くの死者がいた。
実際はもっと多いのだろう。
アルテアも、アルゼイドがそこまで落ち込む姿を見たのは初めてだった。
「……父さんのせいじゃないさ。あれくらい大規模な襲撃に対処するのは軍隊でもなきゃ難しいだろ。……犠牲者の数は?」
「……まだ確認中だ」
「負傷者は私と奥様で治癒にあたりほぼ全ての者は一命をとりとめましたが……それでも助からなかった者もいます。犠牲者はかなりの数にのぼるでしょう」
アルゼイドを補足するようにターニャが言う。
「すまなかった……お前を危険な目にあわせただけでなく、辛い思いもさせてしまった」
イーリスのことだろう。
「……父さんは、知ってたの?」
「知っていたわけではない。だが薄々、何かあると思ってはいた。本当に気がついたのはほとんどお前と同じタイミング……あの魔力を感知してからだ」
「……そっか」
「アル……」
項垂れるアルテアに励ましの言葉を掛けようとするアルゼイドをティアが制した。
それに応じてアルゼイドも言葉を切った。
今はひとりにしてあげよう。
そういう気遣いだろう。
「アルちゃん。お母さんたちは下に戻ってるわね。今はただ、ゆっくり休んで傷を治すのよ」
「ああ、そうだな。明日、異端狩りや闇狩りがやってきてまたばたばたするだろう。お前も何か聞かれるかもしれんが……黙っておけばいいさ。対応は全て父さんがやる、ゆっくり休め」
「ありがとう、二人とも。ターニャも」
「もったいないお言葉です。ごゆっくり休んで下さい、坊ちゃん」
そうして三人は部屋を出た。
ひとり残されたアルテアは、改めてイーリスとの出来事を思い出す。
勇者。
世界の剣であり、盾。世界の守護者。
その肩書き通り、圧倒的な戦闘力だった。アルテアには彼女の動きをまるで追えなかった。
天と地ほどの実力差。殺そうと思えば殺せたはずだ。だが自分は生きていた。きっと手加減されたのだろう。
自分は彼女に助けられたのだ。イーリスが割って入らなければリーベルトに殺されていたかもしれない。
不甲斐ない。アルテアはシーツを握る小さな手を震わせた。
彼女が最後に見せた顔が頭から離れない。
アルテアは決意したような顔で真っ直ぐ天井を見つめた。
「俺は……俺は、あいつを」
───────
「おーい!もっと右に寄せろ!そう、そう……あー!今度は行きすぎだ!下手くそが!」
「なんだと、てめー!もっぺん行ってみろ!ぶん殴るぞ!」
「あー!?やれるもんならやってみろ!」
「ちょっと、あんたたち!喧嘩してないで真面目にやんな!寝る家が無いままでもいいのかい!」
「食事の配給はこっちだよー!家が焼けちまった人は村の中央広場まで来てくれー!」
村は喧騒で満ちていた。
その喧騒の中を、少年が赤い髪をたなびかせ、歩いている。
あてはない。
ただ、村の皆の様子が見たかったからだ。
異端教徒の暗躍に端を発したイーヴルの襲撃から数日。
村は再興の真っ只中にあった。
人とはたくましいもので、村民に多くの死者を出し村中のほとんどの家屋は燃え落ちてしまっていたが、それでも挫けずに皆は復興に励んでいた。
少年はその光景を尊敬めいた顔で見つめる。
「アルくーん!!」
不意に呼ばれた自分の名前。
それに反応して少年は声の方へと顔を向ける。
「よう、ノエル」
少年──アルテア・サンドロッドは駆け寄る少女に手をあげて応えた。
「あ、アル、くんっ……!」
少女はアルテアの前まで来ると足を止めてぜぇぜぇと膝に手をついて呼吸を整えた。よほど急いで走ってきたのか、少女のふっくらとした柔らかそうな頬を汗がつたい、それが落ちて地面にいくつかシミを作った。
「だいじょうぶか……?」
そう声をかけながら腰を屈めて少女の顔を覗き込んだ。すると少女はなんとも間の抜けた悲鳴をあげて尻もちをつく。
「ひゃ、ひゃわああ……!!」
「シャッー!!」
「うおおっ!?」
少女の悲鳴に反応して、少女の影から一匹の小さな猫──もといケットシーが飛び出してアルテアに襲いかかった。突然のことに流石のアルテアも面食らって大きく後ろへ仰け反った。
一瞬、お互いの視線がぶつかり、なんとも言えない空気になる。
「す、すまんな……驚かせて。ジルバーンも、落ち着けよ」
「う、ううん……私の方こそ、ごめん。ほら、ジルも、謝って」
主人の意向を無視してケットシーことジルバーンは「シャーッ!」となおもアルテアに威嚇を続けていた。何か嫌われることでもしただろうかと少しショックを受けつつノエルに手を差し伸べた。
ノエルは差し出された手を取って立ち上がり、おしりに付いた土ボコリをパンパンと何度か叩いて落とした。
「くくっ、まるで喜劇だの──ふぎゃあっ!」
堪えきれずアルテアの腰元でクツクツと笑いをこぼす魔導書をドン!と強めに叩いた。
「え、今の声って……」
「幻聴だな。きっとまだ疲れが抜けてないんだろう。まあ、あまり気にするな」
腰にぶら下げた魔導書に人格が宿っていることは、まだ誰にも話していない。魔導書の中に宿る人格曰く、悪気はないとのことではあるが、かつて世界中で暴れ回っていたことは事実であるらしい。
そんなわけのわからぬ存在を傍に置いていると知られたら、少し面倒なことになるだろう。だから今はまだ黙っていることにしている。
そんなこととは露知らず、金がかった茶髪の少女──ノエルは突如聞こえた謎の声に、すわ幽霊かと宝石のような翠緑の瞳に若干の怯えを見せていた。そんな彼女を落ち着かせる意味も込めて、アルテアは強引に話を進める。
「それで、どうしたんだ?俺に何か用があるんじゃないのか?」
「あ、うん……その、特に用はないんだけど……もう出歩いて平気なのかなって……」
「ああ、そうなのか。俺は大丈夫だよ。母さんの治癒魔法は超一流だからな。王都から来た宮廷魔道士も舌を巻いてたくらいだよ」
宮廷魔道士といえば王国を代表する魔法使いの集まり、つまり魔法使いの中でも凄腕のエリートである。
アルテアの母、ティアはその凄腕が白旗を振るほどの回復魔法の使い手であった。
母の魔法の腕前がかなり凄いということは当然知っていたが、まさかそれほどだとは思っておらず、アルテアも宮廷魔道士と同じく驚愕していたのは秘密だ。
「そっか……でも、家で安静にしてたほうがいいんじゃない……?」
「まあ、そうかもしれないんだが……連日、見知らぬ人が大勢訪ねてきててな。とてもじゃないが落ち着かないよ」
多数の死者を出した異端の暗躍、そしてイーヴルの襲撃は国内外を問わず大きく取りざたされた。
調査という名目で連日、王都から派遣された騎士団や魔法使い、また依頼を受けた冒険者ギルドの闇狩り、教会の者が押し寄せていた。
高純度の魔鉱石の原産地であるアーカディア大黒穴に隣接するこの領地は、各国が虎視眈々と狙っている地域でもある。
不祥事とも言える大事件。王国は各国──特に帝国から管理不足の指摘を受けてその占有権を脅かされないよう、事後処理に必死なのだ。
「……アルくんの家は領主代行だもんね、大変だよね……でも、その……体は平気でも……」
そこでノエルは言い淀んで口を噤んだ。だが、アルテアには彼女が何を言いたいのかはっきりとわかっていた。
「……イーリスのことなら大丈夫だよ。もう答えは出してる」
イーリス。わずか数ヶ月だが共に過ごした大切な存在である。その彼女が勇者だと知ったのはつい先日だ。
思えば彼女と初めて会った時、自分に似ていると感じたのは、彼女の背負う宿命が前世の自分が求められていたものと重なったからなのかもしれない。
だからこそ彼女をこのままにはしておけない。
ノエルも既にイーリスのことは知っていた。
「アルくんは……どうするつもりなの」
ノエルがおそるおそる聞いた。ノエル自身もうっすらとはわかっていた。
アルテアがどうするつもりなのか、そしてそれを聞いてしまったら、自分が深く傷つくことになるだろうことも。
だが聞かずにはいられなかった。ノエルにとっても、イーリスという少女は大切な存在だったからだ。
「俺は……イーリスを勇者の役目から解放する。あいつを、普通に笑って暮らせる世界に連れ出してやる。……たとえどれだけかかっても」
勇者の使命に囚われた彼女を切り捨ててこの世界を去ることはできない。前世の自分たちのような存在を見捨ててしまうことはしたくない。
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これは反逆だ。世界に対する、運命に対する反逆だ。
「どうして……?死んじゃうかもしれないんだよ。それでも、やるの?」
「ああ。あいつは俺にとってかけがえのない、大切なひとだからだ」
アルテアは蒼穹の瞳で真っ直ぐにノエルを見て、そう告げた。その答えは、かつてアルテアに想いを告げた少女にとって決定的な答えだった。
ノエルの顔が一瞬、悲痛に歪み、そしてそれを隠すように顔を伏せた。
「……やっぱり、そう言うと思ってた」
声は震えていた。それでも彼女は顔を上げて、微笑んだ。
「……それでこそ、私の大好きなアルくんだね」
「ノエル──」
「私、先に行くね」
ノエルは何かを言いかけるアルテア制し、決意を秘めた顔でそう告げて踵を返して駆け出した。その姿を見て、アルテアも決意を新たに彼女の去っていったのとは違う方向へと歩き出した。
───────
夕焼けが照らす丘の上。
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あの日、イーリスは泣いていた。
来るなと言われた。
来たら殺すとまで。
だが、アルテアにとってまるで関係なかった。
そんな言葉はアルテアの想いを挫く言葉たり得ない。
彼女が殺せないほど強くなればいいだけのことだ。
「ハク」
魔導書を呼ぶ声には強い意志がこもっていた。
「……なんだ」
「俺を……強くしてくれ。この世界の……いや──あらゆる世界の誰よりも」
「ふん……あらゆる世界とは大きく出たのぅ」
「お前なら出来る。違うか?」
魂操魔法で魂魄を融合した時に確かに見た、少女の記憶。
数多の世界を渡り歩き、神をも屠った神滅の魔女。
灰の魔導書に宿る存在、ハクもまた、まぎれもなく超越者である。
だからこそ、アルテアは請う。
「まあ、お主が弱いままでは……この前のようなことがあった時、私も気が休まらん」
彼女なりの肯定だ。
短い付き合いだが、アルテアは彼女のことがなんとなくわかる。
「しかし……お主の考えている方法と私のとる方法はおそらく一致していると思うが……それは普通の人間なら間違いなく命を落とす。お主もそうなるかもしれん。それでもやるか?」
いつになく真剣な声音のハクに、アルテアは即座に頷いてみせる。
「俺は死なない。お前との約束も必ず果たす」
根拠はない。だが不思議と確信があった。
「よかろう……ならば、わたしがお主を誰よりも強くしてやる。音を上げるなよ」
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