幸福物質の瞬間

伽藍堂益太

文字の大きさ
上 下
9 / 19

幸福物質の瞬間 9

しおりを挟む
渋谷隆弘 1

 発泡酒のプルタブを上げると、プシュッといい音がした。多分俺は、この音を聞くために生きている。これがビールだったらいうことないが、発泡酒でも充分うまい。飲めるだけで幸せなのに、文句を言う奴の気が知れない。一日二本のこれが、俺の生きがいだ。
 スナック菓子の袋を開く。ジャンクな匂いが部屋に充満する。多分俺は、この匂いを嗅ぐために生きている。自営の小売店をやっているうちの商品を、勝手に拝借。何を仕入れるか、チョイスは俺なので、お気に入りのストックには事欠かない。一日一袋のこれも、俺の生きがいだ。
 発泡酒が一本空くと、俺はタバコに火をつけて、空き缶を灰皿代わりにした。別にうまいと感じているわけではない。ただ習慣になってしまって吸っているだけだ。学生の頃、喫煙室に行くみんなについていって、気がついたら自分も吸うようになっていた。我ながら、えらく事務的に吸うもんだと思いつつ、禁煙はできずにいる。
 仕事が終わって夕飯を食い終わって、深夜のこの時間が俺の至福の時だ。最近腹が引っ込まなくなってきたから、やめなきゃならんと思いつつも、この幸せな時間をなくすなど、拷問に等しい。先輩が先輩面して、三十代になったら腹は出るばっかで痩せないとか言っていたが、それは事実だった。俺も三十代半ばにして、この腹はまずいんじゃないかと思う。他が太っているわけではないから、腹だけがぽっこり出て、どうにも間抜けだ。普段はベルトとエプロンでお茶を濁している。珍しく可愛いお客さんが来た時は、腹筋に力を込めて、胸を張って誤魔化すが、筋肉が自分の体から撤退していくのを止めずに眺めている生活が続いて久しい。
 二本の発泡酒を飲み終えて、俺はパソコンを立ち上げた。大型の液晶のデスクトップだ。動画を見るにはもってこいで、そのために買ったと言っても過言ではない。昔はネットゲームも多少はかじっていたが、最近はすっかりご無沙汰だ。
 カチカチとクリックして、動画のフォルダを開き、そしてヨレヨレのスウェットを膝まで下げた。カーソルを滑らせて、今日はどの動画にしようかと、迷い箸をする。
「これだな」
 コレクションの中でも、特にお気に入りの逸品だ。ダブルクリックすると、動画が開き、流れ出す。東京のターミナル駅、その改札付近。今年の春のものらしい。冒頭を見るだけでもう、俺の体は反応し始めていた。
 下腹部にドクドクと血が流れていくのを感じる。陰茎はみるみる硬度を増して、ボクサーパンツのマドから勝手に飛び出した。右手は無意識にそれを掴む。マウスを左手に持ち替えた。
 動画は流れる。妊婦が高校生に何事か喚き散らしていた。もう幾度となくこの動画を見ているが、いまだに何を言っているのかは分からない。
 右手が陰茎をしごく。激しく激しく、何度も何度も、親指の付け根が攣りそうになるほど強い力で。
 画面の中で喚き散らしていた妊婦が、胸を押さえて、地面に膝をついた。そして、苦しさのためか、醜く顔を歪ませる。
 自分の呼吸がどんどん激しくなるのを感じていた。もみあげを汗が流れる。
 妊婦が地面に額を擦り付けた。俺の睾丸は腫れ上がったみたいに、もう出せもう出せと、暴れまわる。亀頭の充血は限界に達して、睾丸と肛門の間がひくひくと痙攣する。
 妊婦が動きを止めた。力なく地面に横たわる。妊婦の周りにいる人たちが慌てる。しかし、もう遅い。
 俺の脊髄を、得も言えぬ快感が走り抜けた。尿道から、火山が噴火したみたいに精液がほとばしる。その後も、ドクドクドクドクと止めどなく、だらしなく垂れ流れる。
 スイッチが切り替わったように、冷静な自分が戻ってきた。また、床を汚してしまった。マスターベーションをする前はどうも冷静でいられない。先にティッシュなり用意しておけばいいものを、何度も同じ失敗をしている。
 愚息を綺麗に拭いて、それから床をティッシュで拭いた。下半身丸出しで中年男が自慰の始末をすることほど、虚しいことがあろうか。でも、毎日のこれが止められない。いい年してと自分でも思うが、いくつになっても精力は衰えを知らない。
 彼女でも作れよと、腐れ縁の同級生に言われるが、そう簡単に言ってくれるなよと思う。俺だって彼女がいたことはあるし、童貞でもない。だが、どうにも、俺は男女交際というものには向かないらしかった。
 それはすべて、俺の性的嗜好に起因する。別に、女性の体にまったく興奮しないわけではないし、恋愛感情は女性にしか持てない。
 だがしかし、俺が何よりも性的な興奮をもよおすのは、人の死の瞬間だった。こんなこと、口が裂けても誰にも漏らせない。
 これに気がついたのは、大学に通っていた時のことだった。低いランクの大学、ネット上ではF欄とか言われるような大学で、俺もそれ相応って感じの学生で、よく図書館の視聴覚ライブラリのコーナーでビデオを見て過ごしていた。金がかからないし、穴場だった。ビデオを見ているフリをして寝ていても文句を言われない、最高の環境だった。
 ある日、なんの気まぐれか、ドキュメンタリーものを借りた時があった。別に、教養を身につけたいとか、そんな高尚な理由は一切なくて、よく寝られそうだからという理由だった気がする。ビデオをデッキに入れて、再生した。すると、流れてきたのは戦場の情景。兵士たちが傷つき、死んでいく様が映し出された。
 心拍数が上がり、呼吸は浅く激しくなり、瞳孔は開いた。そして映像が終わった時、俺は初めて気がついた。今までに放出したことがないくらいに大量の精液を、パンツの中にぶちまけていた。
 何かの間違いかと思った。人が死んだシーンで、それも、死んだのは男ばかりなのに、俺は抑えられないほどの性的興奮に飲み込まれ、あまつさえ射精までしていた。触れてもいないのに、純粋に、興奮だけで。
 そんなわけはないと、何度も確認した。確認するたびに、俺は射精した。何度も何度も、何度も確認しているうちに、俺は自ら望んで、人の死の瞬間の動画を探すようになっていた。
 ドキュメンタリーのビデオを買い漁り、コレクションするようになった。俺は普通の男女交際を諦めて、自分の欲望に素直に生きることにした。しこしことコレクションを続けていく中で、時代は流れていき、インターネットが当たり前になり、ダイヤルアップからADSLを経て、光になった。
 その過程で、俺はホームページを作ってみることにした。新卒で入った会社を一年足らずで辞めて、実家の小売店を手伝うようになっていた俺は、自分の自由な時間を持て余していたからだ。
 ネット上に落ちている、人が死ぬ瞬間の動画を探しては紹介するサイトで、その名を『幸福物質の瞬間』。人は死ぬ時に、脳から幸福物質を、具体的にはドーパミンだとかβエンドルフィンだとかセロトニンだとかを放出して、とてつもなく気持ちいい状態になるらしいことから、この名前をつけた。それプラス、人の死の瞬間を見ると、俺の脳も幸福物質をドバドバ出している実感があったってものある。
 サイトを作って、広告収入を得て、趣味と実益を兼ねられると思いきや、広告収入なんてほとんど子供の小遣いにもならない程度だった。それもそうだ。こんなニッチなサイト、それほど多くの人が訪れるわけはないのだから。
 とはいえ、一定の人気は得ることができた。常連が増えて、会員専用の掲示板を作ったりだとか、そんなことをして仲間と交流している。
 死の瞬間の動画は順調すぎるほど順調に集まっていって、その動画を保存したHDDは、今では俺の宝物だ。
 性的には非常に充実した日々を送っていて、こうして毎晩毎晩、恍惚の表情でパソコンの画面を見つめている。

 至福の時間を終えると、『幸福物質の瞬間』の会員専用掲示板を覗く。今日も同好の士が、どっかの動画を引っ張ってきて、批評をして盛り上がっているだろう。と、その前に、まずはホームページに寄せられたメールのチェックからだ。
 カウンターをガンガン回していくような人気サイトではないが、極稀にメールが来ていることもあるので、一応毎日確認することにしていた。
「どれどれ」
 フリーメールの受信ボックスを開くと、そこには珍しく一件のメールが届いていた。件名にはこうあった。
『突然申し訳ありません』
 変な荒らしではなさそうだ。いやしかし、送られて来たメールには名前がなく、アドレスだけが表示されている。捨てアド、使い捨てのメールアドレスだろうか。だとしたら、件名が丁寧でも、荒らしである可能性は否定できない。いや、自分にサイトを荒らしているという自覚がない荒らしもいる。意図的にやっている荒らしよりも、むしろそちらの方が厄介だ。善行のつもりでこちらを容赦なく攻撃をしてくる。と、いくら考えていても詮無いこと。とにかくメールの内容を見ないことには始まらない。
『初めまして。友人に紹介されて、このサイトを拝見させていただきました。非常に興味深いテーマで動画を紹介なさっていることに、感心いたしました。ところで、先日、今年の春に紹介されていた動画のひとつに妊婦が倒れ、そのまま死亡するという内容の動画があったことを、覚えていらっしゃるかと存じます。
 唐突かつ、大変不躾であるとは思いますが、その動画を削除していただきたく、ご連絡差し上げました。管理人様におきましては、寝耳に水のことかとは存じます。
 しかし、私には、どうしても譲れぬ事情がございます。と、申しますのも、実はあの動画で死亡した妊婦は、私の妻なのです。
 先日、御ホームページをよく訪れる友人が、あの動画に映っている妊婦が、私の妻なのではないかと連絡をして参りました。それで拝見したところ、やはり妊婦の容貌、駅の情景、死亡時の状況、どれもすべて、私の妻が亡くなった時の条件に合致いたしました。
 本名も名乗らず、このようなお願いをすること、大変失礼かとは存じますが、私の名を漏らすことが、動画に映る妻の名を流出させる可能性を上げてしまうのではないかと危惧したためと、遺族の心情を汲み取っていただければ幸いです。
 もし、ご希望とあらば、私の身分を証明する書類、並びに弁護士から、御ホームページに削除を依頼する書類を送らせていただきます。お返事は、こちらのメールアドレスにご連絡ください。shu-――
 良いお返事をお待ちしております』
 メールを見終わった瞬間の俺の顔は、真っ青になっていただろう。弁護士、という単語の攻撃力は、俺のようなサイトを運営しているものにとっては、ナメクジに対する塩のような威力がある。
 逆らっちゃいかん。すぐにあれを紹介した記事を削除すれば、これ以上追求する気はなさそうだ。もうすぐにやろう。今すぐにやろう。俺はすぐに記事を削除した。
 しかし、あの動画は削除するにはあまりにも惜しい。自分のHDDに残っているだけであれば、追求されることはないだろう。あれはコレクションの中でも、五指に入るレベルで興奮する。定期的にあれで射精したくなるので、失うわけにはいかなかった。
 さて、メールを返信しよう。どうすれば相手の気持ちを逆なでせずに、穏便に済ませられるだろうか。
『初めまして、当サイトの管理人をしております、渋谷隆弘と申します』
 ハンドルネームで自己紹介なんてしたら、ふざけていると勘違いされるかもしれない。それは命取りだ。両手を挙げて、どころか、腹を見せて服従のポーズを、野生を忘れた飼い犬のようにしてみせることに、なんの躊躇もない。
『削除依頼の件、承りました。当サイトは、動画投稿サイトに投稿された動画を紹介しているサイトです。当サイトの記事は既に削除いたしましたが、動画投稿サイトに投稿された動画に関しては、そちらにお問い合わせ願います。
 この度は、誠に申し訳ございませんでした。記事は完全に削除いたしました。今後、奥様の動画を取り上げることは、一切ございませんので、ご安心ください。
 重ねて、この度は、誠に申し訳ございませんでした』
 土下座に土下座を重ねるように、謝り倒した。これでもう、弁護士に突撃されたりだとか、法廷で会おうと言われたりだとか、そんな展開はないだろう。これで安心。俺はタバコに火をつけた。うまくもなんともないが、深く煙を吸い込むと、胸の淀んだ空気が更に淀んだ空気で浄化されるような気がした。
 もう今日は、掲示板で語らうような気力はない。もしかしたら、記事削除の件で盛り上がっているかもしれない。掲示板に顔を出してしまえば最後、質問攻めに合うのは必定だ。今日はもう、横になってしまおう。いつもよりかなり早い時間ではあるが、俺は隅々にまで湿気と臭気の染み渡った布団に体を横たえ、目を閉じると、さっきまで食べていたスナック菓子のゲップで不快感に包まれたまま、就寝した。

 それから後日、件のメールの男から、お礼のメールが届いた。迅速に記事を削除したことを感謝するという内容だった。俺はホッと胸を撫で下ろした。本当に、訴えられなくて良かった。
しおりを挟む

処理中です...