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最終章

8.

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 船は夕陽が沈む少し前に港を出た。サンリオ―二国の港は大きな湾の内側に作られている。そのため波は穏やかだ。遊覧船はまっすぐ西に進み太陽が沈むのを確認すると、左に舵をとり湾の淵に沿うように半時計周りに進む。そのままぐるりと一周まわり、ディナーが終わりころ再び西に向かって外洋に出る。

 これからの事を考えながら沈む夕日を見る。
 ココットのいる場所からはおそらくこの景色は見えないだろう。
 見せてやりたいが、見た所で感動してくれるかは微妙だな。腹が減った、夕食はまだかと言われそうだ。

 夕陽が沈んだあとは甲板中央にある階段で船内に入り食事をする。ここにはココットの好きなケーキも沢山あった。食わしてやりたいな、今頃腹を空かせているだろう。
 食欲など湧いてこないので適当に皿に食べ物をのせ席に着くと、ナターシャが真っ赤な口紅を塗った顔で微笑んできた。

 あのタイミングでココットが消えたのは明らかにこの女の命令。ということは、ナターシャはリンドバーグ侯爵が何をしているのか知っているということ。
 その笑顔の裏に隠れた本性に悍ましさを感じる。

「フルオリーニ様、どうされたのですか? 今日は少しぼんやりされているように思うのですが」
「申し訳ありません。仕事の疲れがたまっているのでしょう」
「そうでしたか、そんな時にお誘いしてくださるなんて嬉しいですわ」

 そんな時にか。今夜だからこそ誘ったのだと、思わず悪態をつきたくなる。
 誘拐した人達と一緒にココットを異国に売りさばこうなど、目の前にいる女は今俺がどれほどの殺意を抱えて対峙しているかなんて想像もしていないんだろうな。

「ここの食事はとても美味しいですね」
「そうらしいですね。乗船した知り合いが言っていました」

 この船の持ち主はペラルタ子爵家。どこかで聞いたことがある名前だと思ったら、ココットが擬態した男の名前だった。

 つまらない会話を交わしながら、酒を腹に流し込む。しかし、酔っぱらうわけにはいかない。
 ナターシャが皿にとった食事を食べ終わったところで、いい加減この空間にいるのが限界に。
 夜風にあたり気持ちを落ち着けたい。

「ナターシャ嬢、少し早いが甲板に出ないか?」
「ええ。構いませんわ」

 まだほとんどの乗客が食事をしている中で立ち上がると、エスコートを求めるような視線をよこされ仕方なく腕を差し出す。
 ため息を飲み込んで階段に向かうと、護衛の男達も後ろを付いてきた。騎士服を着てはいないが腰には剣を付けている。もちろん俺も剣は持ってきた。

 甲板に人影はなく、手摺にもたれ後方を見ると数隻の小舟が後ろを付いて来ている。

「ナターシャ嬢、あそこに小舟があるのが見えますか?」

 俺の言葉にナターシャは手すりに両手をおき僅かに身を乗り出す。
 潮風がむせ返るような香水の香りを運んできて、おもわず眉間に力が入る。

「話には聞いていますが、このあとあの小舟から花火が打ちあがるとか」
「ええ。五隻の小舟が船の前方部分を取り囲むようにして打ち上げるようです。初めは数発ずつ時間をおいて。次第にその間隔を縮め二十分ほどで終わると聞いている」

 ナターシャは楽しみですね、と目を細める。
 それが何を意味するのか分かっていて、どうして微笑むことができるのだろう。

「……幼い時、私と母が乗っている馬車が事故に巻き込まれたことがあります。私はコンスタイン公爵の名のもと医者に母の治療を優先させました」

 突然の話にナターシャは僅かに怪訝な顔をしたが、すぐ眉を下げいたわるような表情を見せる。

「そのお話は存じております。事故のせいで公爵夫人の足に後遺症が残ってしまったとか。おいたわしいことでございます」
「母の治療を優先させたばかりに、とある男爵夫妻が命を落としてしまった」
「それは仕方ありませんわ。公爵家と男爵家ですもの。公爵夫人の治療が優先されてあたりまえです」
「しかし、相手は命を落とした」
「男爵家の命など、公爵夫人の足に比べれば取るに足りないものではございませんか。身分と地位をもっているのですから、優先されて当然ですわ」

 当然、か。
 手摺を持つ手に力が入る。この女にとってココットの命などそこらへんに生えている雑草とかわりないのだろう。その命がかけがえのないもので、己の身を投げうってでも守りたい、そう思う者がいることさえ想像できないのだ。

 話をしているうちに甲板が賑やかになってきた。食事を終えて出てきた人が少しでも良い場所で花火をみようと船首へと向かう。

「フルオリーニ様、私達も前の方へいきませんか?」
「悪いが人ごみは苦手でして。ここでも良いでしょうか?」

 今いるのは船の中央付近。幾つかあるベンチもすでに埋まったことに不満を感じているようだが、気づかないふりをする。

「お客様、間もなく花火を打ちあげます」

 給仕係の声がして、さらに甲板に人が増えた所で最初の一発が夜空に上がった。

 真っ赤な大輪の華がパッと周りを照らす。かなり近くから打ち上げているので迫力もあるし音も大きい。

「綺麗ですね。私こんな間近で見るのは初めてです」
「俺もです。これだけ音が大きいと確かに好都合だ」
「えっ?」

 ナターシャの不思議そうな声を消すように次の花火が上がった。そして暫く間をおいてもう一発。

 数発聞いたところで、そろそろ頃合いかと手摺から手を放す。

「ナターシャ嬢、少々場所を変えたいのだが良いでしょうか?」
「え、ええ。どちらに? やはり船首に向かいますか?」
「いいえ、人のいない場所に。二人だけで話したいことがあります」
「まぁ!」

 何を勘違いしたのか、感嘆の声を上げ頬を染める。護衛達には少し離れるよう告げると俺達は船尾へと向かった。

 船は二階建ての作りになっている。甲板の下には先程食事をしたビュッフェ会場があり、その部屋の向こう側、船尾にあたる部分はデッキになっている。ただし、部屋に扉はなく、行くためには部屋の外側を沿うようにある細い廊下を通る必要がある。

 船の後方にある階段にまっすぐ向かう俺の腕をナターシャが引っ張る。

「あの、ここでも人はいないと思うのですが?」

 乗客はすべて船首で花火を見ている。これがこのクルーズの特色でもあるのだから当たり前のこと。

「いえ。階段をおりましょう」

 掴む手を強引に振りほどき、幅の細い階段に脚を置く。ついてこないのならそれでも良いと思っていたが、ナターシャはおぼつかない足取りで階段を下りてきた。ドレスだから足元が見えずそのスピードは遅い。

「待ってください」

 焦った声は手を貸して欲しいからだろうか。
 それともこれから向かう場所で何があるのか知っているからだろうか。
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