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第30話 愛していると言える今日
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春が、風と光を連れてやって来た。
雪の名残を覆い隠すほど草花が一斉に芽吹き、丘の上に建つ家はあたたかな緑の波に包まれている。
湖は陽を反射してきらめき、空と溶け合うように穏やかだ。
遠くでは子どもたちの笑い声が響き、鳥たちが巣を作る音が混ざる。
そこに立つアイラは、眩しそうに目を細めた。
庭先にはディランが立っている。
鍬を持ち、土を均しながら振り返り、穏やかな笑みを浮かべて。
「ディラン様、もうお昼ですよ」
「今日は一仕事多かったから、腹が鳴る」
「まったく……あなたは変わりませんね」
そう言って彼女は布に包んだ昼食を持って外へ出た。
緩やかに風が吹く。白いシャツの袖が揺れ、花弁が一枚、ディランの肩に舞い落ちた。
「それ、似合いますよ」
「花なんて飾る柄じゃない」
「そんなことありません。あなたは誰より優しい人なんですから」
「剣より花を褒められるとはな。……悪くない」
笑いながら木陰に座る二人。
簡素な木の机に並べられたのは、パンとスープ、そして焼きたての魚。
「これ、少し焦げちゃったんです」
「焦げても旨いだろう。お前が作ったなら」
「適当なことを言って」
「本気だ」
ディランはスープをすすり、柔らかく目を細めた。
香草の香りが舌にひろがる。平凡な昼食が、こんなにも幸せに満ちるとは――。
食事を終えると、二人は並んで丘に腰を下ろした。
風が髪を撫で、湖面がきらめく。
アイラは深呼吸をして、微笑む。
「この空気、懐かしい……王都にいた頃は、空を見上げる余裕なんてありませんでした」
「その分、これから好きなだけ見ろ」
「そうですね」
彼女は手を伸ばし、流れる雲を指差した。
「ほら、あの雲。あなたの横顔みたい」
「……どこが」
「真っすぐで、少し硬いところ」
「悪口か?」
「褒めてるんですよ」
二人の笑い声が、春の風に溶けて遠くまで流れていく。
しばらく沈黙が続いた後、ディランが静かに口を開く。
「お前がこうして笑えるようになるまで、随分時間がかかったな」
「ええ。でも、遅くなっても生きててよかった。本当に」
「……俺もだ。お前を守れたこと、それだけで生きる理由になる」
「あなたにそう言われると、泣きそうになります」
「泣くな。春の青空が霞む」
「もう……相変わらずですね」
アイラは彼の肩にもたれ、視線を空に向けた。
その瞳にはもう、恐れも迷いもない。
「ディラン様」
「なんだ」
「ずっと、伝えたかった言葉があるんです」
彼は軽く息を呑み、そっと彼女の顔を見つめた。
風がふたりの間を通り抜け、花が一輪落ちる。
「私は、あなたを愛しています」
アイラの声は、風に溶けるように静かだった。
「あなたに出会って、やっと自分を好きになれたんです。
過去の私も、間違った選択も、すべて意味があったと思える。
あなたの手を握れたから――そう信じられたから、私はもう一度生きられた」
そして小さく笑った。
「これからも、何度でも言わせてください。私はあなたを、愛しています」
ディランは何も言えなかった。
剣を振るうよりも、どんな命を救うよりも、
彼の心を震わせた言葉だった。
「……俺のほうこそ、救われたんだ」
彼は真剣な眼差しで彼女の肩を引き寄せる。
「お前がいなければ、俺はただ戦いに沈む男で終わってた。
だが、お前が俺の手を取ってくれたから、こうして春を迎えられた」
アイラは微笑みながら頷いた。
「幸せですね、私たち」
「ああ。どんな敵を倒すよりも、この時間が一番尊い」
ディランは額を彼女の額に寄せた。
「俺も言わせてくれ。アイラ、愛している」
彼女は瞳を閉じ、泣き笑いのままその声を受け止めた。
「……やっと、聞けました」
「言うまでそんなにかかったか」
「ええ。随分、じれったかったです」
「これからは、毎日でも言う」
「本当ですか?」
「嘘をつく性格か、俺が?」
「いいえ。そうではありません」
彼女は小さく笑いながら、彼の胸に顔を埋めた。
太陽が高く昇り、湖面が眩しく光る。
風に乗って花びらが舞い、二人の肩に降り積もる。
世界が柔らかく包まれたように暖かかった。
やがて、丘を登ってきた子どもたちが遠くから叫ぶ。
「先生ー! お花の冠できたよ!」
アイラは笑顔で立ち上がった。
「すぐ行くわ!」
ディランがその手を取る。
「行こう。二人の国の子どもたちが待ってる」
「ふふっ……“二人の国”なんて、大袈裟です」
「そう思うか? 家も畑も、そしてお前も。俺の世界の全部だ」
「……はい。あなたがいるなら、ここが私の国です」
手をつないだまま、二人は丘を下りていく。
足元に咲く花は、どこまでも続く春の絨毯。
湖面を渡る風が頬をくすぐるたびに、彼女は幸せを実感した。
王も国も遠くにあり、過去の痛みも春風に溶けていく。
彼女はもう、誰かのために生きているだけの人ではない。
隣に立つ男と共に、「今」を生きるひとりの女性だった。
丘の上から鐘の音が響く。
それはこの国の新しい朝を告げる音。
その音を聞きながら、二人は互いを見つめた。
「……ねえ、ディラン様」
「ん?」
「今日も言ってください」
ディランは少し照れくさそうに息を吐き、優しく微笑んだ。
「愛している」
「……ふふ、やっぱり好きな言葉です」
春の風が二人を包み、やがて遠くの空へと流れていく。
過去も運命も赦し終え、いま確かに生きている。
愛していると、素直に言える今日がある限り――彼らの未来は、永遠に続く。
終
雪の名残を覆い隠すほど草花が一斉に芽吹き、丘の上に建つ家はあたたかな緑の波に包まれている。
湖は陽を反射してきらめき、空と溶け合うように穏やかだ。
遠くでは子どもたちの笑い声が響き、鳥たちが巣を作る音が混ざる。
そこに立つアイラは、眩しそうに目を細めた。
庭先にはディランが立っている。
鍬を持ち、土を均しながら振り返り、穏やかな笑みを浮かべて。
「ディラン様、もうお昼ですよ」
「今日は一仕事多かったから、腹が鳴る」
「まったく……あなたは変わりませんね」
そう言って彼女は布に包んだ昼食を持って外へ出た。
緩やかに風が吹く。白いシャツの袖が揺れ、花弁が一枚、ディランの肩に舞い落ちた。
「それ、似合いますよ」
「花なんて飾る柄じゃない」
「そんなことありません。あなたは誰より優しい人なんですから」
「剣より花を褒められるとはな。……悪くない」
笑いながら木陰に座る二人。
簡素な木の机に並べられたのは、パンとスープ、そして焼きたての魚。
「これ、少し焦げちゃったんです」
「焦げても旨いだろう。お前が作ったなら」
「適当なことを言って」
「本気だ」
ディランはスープをすすり、柔らかく目を細めた。
香草の香りが舌にひろがる。平凡な昼食が、こんなにも幸せに満ちるとは――。
食事を終えると、二人は並んで丘に腰を下ろした。
風が髪を撫で、湖面がきらめく。
アイラは深呼吸をして、微笑む。
「この空気、懐かしい……王都にいた頃は、空を見上げる余裕なんてありませんでした」
「その分、これから好きなだけ見ろ」
「そうですね」
彼女は手を伸ばし、流れる雲を指差した。
「ほら、あの雲。あなたの横顔みたい」
「……どこが」
「真っすぐで、少し硬いところ」
「悪口か?」
「褒めてるんですよ」
二人の笑い声が、春の風に溶けて遠くまで流れていく。
しばらく沈黙が続いた後、ディランが静かに口を開く。
「お前がこうして笑えるようになるまで、随分時間がかかったな」
「ええ。でも、遅くなっても生きててよかった。本当に」
「……俺もだ。お前を守れたこと、それだけで生きる理由になる」
「あなたにそう言われると、泣きそうになります」
「泣くな。春の青空が霞む」
「もう……相変わらずですね」
アイラは彼の肩にもたれ、視線を空に向けた。
その瞳にはもう、恐れも迷いもない。
「ディラン様」
「なんだ」
「ずっと、伝えたかった言葉があるんです」
彼は軽く息を呑み、そっと彼女の顔を見つめた。
風がふたりの間を通り抜け、花が一輪落ちる。
「私は、あなたを愛しています」
アイラの声は、風に溶けるように静かだった。
「あなたに出会って、やっと自分を好きになれたんです。
過去の私も、間違った選択も、すべて意味があったと思える。
あなたの手を握れたから――そう信じられたから、私はもう一度生きられた」
そして小さく笑った。
「これからも、何度でも言わせてください。私はあなたを、愛しています」
ディランは何も言えなかった。
剣を振るうよりも、どんな命を救うよりも、
彼の心を震わせた言葉だった。
「……俺のほうこそ、救われたんだ」
彼は真剣な眼差しで彼女の肩を引き寄せる。
「お前がいなければ、俺はただ戦いに沈む男で終わってた。
だが、お前が俺の手を取ってくれたから、こうして春を迎えられた」
アイラは微笑みながら頷いた。
「幸せですね、私たち」
「ああ。どんな敵を倒すよりも、この時間が一番尊い」
ディランは額を彼女の額に寄せた。
「俺も言わせてくれ。アイラ、愛している」
彼女は瞳を閉じ、泣き笑いのままその声を受け止めた。
「……やっと、聞けました」
「言うまでそんなにかかったか」
「ええ。随分、じれったかったです」
「これからは、毎日でも言う」
「本当ですか?」
「嘘をつく性格か、俺が?」
「いいえ。そうではありません」
彼女は小さく笑いながら、彼の胸に顔を埋めた。
太陽が高く昇り、湖面が眩しく光る。
風に乗って花びらが舞い、二人の肩に降り積もる。
世界が柔らかく包まれたように暖かかった。
やがて、丘を登ってきた子どもたちが遠くから叫ぶ。
「先生ー! お花の冠できたよ!」
アイラは笑顔で立ち上がった。
「すぐ行くわ!」
ディランがその手を取る。
「行こう。二人の国の子どもたちが待ってる」
「ふふっ……“二人の国”なんて、大袈裟です」
「そう思うか? 家も畑も、そしてお前も。俺の世界の全部だ」
「……はい。あなたがいるなら、ここが私の国です」
手をつないだまま、二人は丘を下りていく。
足元に咲く花は、どこまでも続く春の絨毯。
湖面を渡る風が頬をくすぐるたびに、彼女は幸せを実感した。
王も国も遠くにあり、過去の痛みも春風に溶けていく。
彼女はもう、誰かのために生きているだけの人ではない。
隣に立つ男と共に、「今」を生きるひとりの女性だった。
丘の上から鐘の音が響く。
それはこの国の新しい朝を告げる音。
その音を聞きながら、二人は互いを見つめた。
「……ねえ、ディラン様」
「ん?」
「今日も言ってください」
ディランは少し照れくさそうに息を吐き、優しく微笑んだ。
「愛している」
「……ふふ、やっぱり好きな言葉です」
春の風が二人を包み、やがて遠くの空へと流れていく。
過去も運命も赦し終え、いま確かに生きている。
愛していると、素直に言える今日がある限り――彼らの未来は、永遠に続く。
終
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