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第1話 春に咲く記憶
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朝の通学路を、うす桃色の花びらが風に乗って舞っていた。まだ制服の袖に少し重みがある三月。卒業式の翌日という、中途半端な季節の狭間に、俺――桜庭湊はひとりで歩いていた。
昨日まで通っていた学校は、もう制服を着て通う場所じゃない。だけど足が自然とその方向を向くあたり、自分でも笑ってしまう。
正門の前で立ち止まると、校庭の奥にある桜が満開だった。ちょうど十年前のあの日と、まったく同じ光景だった。
十年前。高校三年の春。
俺には好きな人がいた。
隣のクラスの三浦詩織――明るくて周りの中心にいるような女の子だった。存在感があるのに、どこか儚げで、桜のように一瞬で散ってしまいそうな笑顔をする。
そんな彼女に、ずっと言えなかった言葉がある。
「好きだ」というたった一言。
その一言さえ言えていれば、俺たちは違う未来を歩んでいたのかもしれない。
風が校庭を抜けて、花びらをさらっていく。
ポケットの中で鳴ったスマホの通知に気づいて画面を見ると、東京にいる高校時代の友人からだった。「久しぶりに集まろうぜ」とだけ書かれている。
俺は返信を打つ手を止めたまま、空を仰ぐ。
十年。
時が経っても、あの日のままの場所がある。だけど、俺たちはあの頃とは違う。
そう思うと、胸の奥が少しだけざわついた。
翌週、上京する電車の中で窓の向こうを流れる景色を眺めていた。
社会人になって五年、地方のニュース制作会社に勤めていた俺は、異動をきっかけに東京へ戻ることになった。
東京、という言葉に胸の奥が少しだけ熱くなる。
それは、夢を追っていた十代の記憶か、それともまだ言葉にできなかった恋の続きか、自分でもわからなかった。
車内ではサラリーマンや学生がそれぞれの時間を過ごしている。イヤホンから流れる音楽が耳を包む。何気なく窓に映る自分の顔を見ると、十年前より少し大人びていた。
俺ももう二十八。恋なんて、もう誰かの時間の中に置いてきたと思っていた。けれども、春の空気がそれを思い出させる。
桜が散るころ、きっとまた同じ夢を見ている。
東京駅に着くと、人の波に飲み込まれた。スーツケースを引く手に少し汗が滲む。人の多さも空気の速さも、すべてが昔と変わらない。
ホームを抜けて改札を出た瞬間、胸の奥で何かが鳴ったような気がした。
人混みの向こう、駅前のカフェの前に立つ女性の姿が目に入った。
ふと視線が合う。
一度は見失った記憶が、風のように戻ってくる。
髪は少し短くなっていたけど、あの頃と同じ黒髪。
小さなイヤリングが春の光を受けて揺れていた。
まさか、と思った。
でも、その微笑みを見た瞬間、俺は確信した。
「……詩織?」
思わず口をついて出た声に、彼女が振り返る。
びっくりしたように目を丸くして、そしてゆっくり笑った。
「湊くん? すごい……偶然だね」
その声は、十年前と何も変わっていなかった。
この東京の雑踏で再会するなんて、ドラマみたいだと笑いそうになるけれど、胸の鼓動は笑えないほど早かった。
気づけば俺たちは、駅前のカフェに入っていた。
窓際の席で向かい合うと、最初の数分は当たり障りのない会話ばかりだった。仕事のこと、地元の話、共通の友人。
けれど、どんな話をしても、心のどこかに十年前の沈黙が横たわっている。
カップの縁に指を置きながら、彼女が少し視線を落とした。
「ずっと東京にいたの?」
「うん、こっちでデザインの仕事してる。忙しいけど楽しいよ」
「そっか……夢、叶ったんだね」
「うん。でも、あの頃の湊くんも、記者になりたいって言ってたでしょ。どう?夢、追えてる?」
「まあ、なんとかかな」
笑いながら答えたものの、胸の奥が少しだけ痛む。
彼女の笑顔がまぶしすぎて、直視できなかった。
「みんなで集まるんでしょ?誰来るの?」
「多分、矢野と中村。あの頃のメンバー。」
「懐かしいね。楽しみ。」
会話は続いていたけれど、言葉を交わすたびに時間の流れが重くのしかかる。十年という年月が、机の上に見えない線を引いているようだった。
けれども、別れ際になって、彼女は少しだけ躊躇するように言った。
「ねえ、湊くん。よかったら、また連絡していい?」
「もちろん」
即答してから、自分の声が少し上ずったのに気づいた。
彼女は小さくうなずいて笑った。
「じゃあ、またね」
そう言って人混みの中に消えていく背中を、しばらく見送った。
その白いコートの裾が風に舞って、桜の花びらと混ざり合った。
駅前の音が遠くに霞んでいく。
手の中のスマホが、彼女の連絡先をまだ保存していることに気づいた。高校の卒業前夜、勇気が出せなくて何も送れなかったメッセージアプリ。その未送信の文章が、今も残っていた。
指先が震える。
「好きだった」
その五文字が消えずに残っている。十年前の、あの日のまま。
俺はスマホを見つめながら、深く息を吐いた。
再会は偶然か、それとも必然か。答えなんてまだわからない。
けれど、止まっていた記憶が再び動き出したことだけは確かだった。
春の風がまた吹いていた。
(続く)
昨日まで通っていた学校は、もう制服を着て通う場所じゃない。だけど足が自然とその方向を向くあたり、自分でも笑ってしまう。
正門の前で立ち止まると、校庭の奥にある桜が満開だった。ちょうど十年前のあの日と、まったく同じ光景だった。
十年前。高校三年の春。
俺には好きな人がいた。
隣のクラスの三浦詩織――明るくて周りの中心にいるような女の子だった。存在感があるのに、どこか儚げで、桜のように一瞬で散ってしまいそうな笑顔をする。
そんな彼女に、ずっと言えなかった言葉がある。
「好きだ」というたった一言。
その一言さえ言えていれば、俺たちは違う未来を歩んでいたのかもしれない。
風が校庭を抜けて、花びらをさらっていく。
ポケットの中で鳴ったスマホの通知に気づいて画面を見ると、東京にいる高校時代の友人からだった。「久しぶりに集まろうぜ」とだけ書かれている。
俺は返信を打つ手を止めたまま、空を仰ぐ。
十年。
時が経っても、あの日のままの場所がある。だけど、俺たちはあの頃とは違う。
そう思うと、胸の奥が少しだけざわついた。
翌週、上京する電車の中で窓の向こうを流れる景色を眺めていた。
社会人になって五年、地方のニュース制作会社に勤めていた俺は、異動をきっかけに東京へ戻ることになった。
東京、という言葉に胸の奥が少しだけ熱くなる。
それは、夢を追っていた十代の記憶か、それともまだ言葉にできなかった恋の続きか、自分でもわからなかった。
車内ではサラリーマンや学生がそれぞれの時間を過ごしている。イヤホンから流れる音楽が耳を包む。何気なく窓に映る自分の顔を見ると、十年前より少し大人びていた。
俺ももう二十八。恋なんて、もう誰かの時間の中に置いてきたと思っていた。けれども、春の空気がそれを思い出させる。
桜が散るころ、きっとまた同じ夢を見ている。
東京駅に着くと、人の波に飲み込まれた。スーツケースを引く手に少し汗が滲む。人の多さも空気の速さも、すべてが昔と変わらない。
ホームを抜けて改札を出た瞬間、胸の奥で何かが鳴ったような気がした。
人混みの向こう、駅前のカフェの前に立つ女性の姿が目に入った。
ふと視線が合う。
一度は見失った記憶が、風のように戻ってくる。
髪は少し短くなっていたけど、あの頃と同じ黒髪。
小さなイヤリングが春の光を受けて揺れていた。
まさか、と思った。
でも、その微笑みを見た瞬間、俺は確信した。
「……詩織?」
思わず口をついて出た声に、彼女が振り返る。
びっくりしたように目を丸くして、そしてゆっくり笑った。
「湊くん? すごい……偶然だね」
その声は、十年前と何も変わっていなかった。
この東京の雑踏で再会するなんて、ドラマみたいだと笑いそうになるけれど、胸の鼓動は笑えないほど早かった。
気づけば俺たちは、駅前のカフェに入っていた。
窓際の席で向かい合うと、最初の数分は当たり障りのない会話ばかりだった。仕事のこと、地元の話、共通の友人。
けれど、どんな話をしても、心のどこかに十年前の沈黙が横たわっている。
カップの縁に指を置きながら、彼女が少し視線を落とした。
「ずっと東京にいたの?」
「うん、こっちでデザインの仕事してる。忙しいけど楽しいよ」
「そっか……夢、叶ったんだね」
「うん。でも、あの頃の湊くんも、記者になりたいって言ってたでしょ。どう?夢、追えてる?」
「まあ、なんとかかな」
笑いながら答えたものの、胸の奥が少しだけ痛む。
彼女の笑顔がまぶしすぎて、直視できなかった。
「みんなで集まるんでしょ?誰来るの?」
「多分、矢野と中村。あの頃のメンバー。」
「懐かしいね。楽しみ。」
会話は続いていたけれど、言葉を交わすたびに時間の流れが重くのしかかる。十年という年月が、机の上に見えない線を引いているようだった。
けれども、別れ際になって、彼女は少しだけ躊躇するように言った。
「ねえ、湊くん。よかったら、また連絡していい?」
「もちろん」
即答してから、自分の声が少し上ずったのに気づいた。
彼女は小さくうなずいて笑った。
「じゃあ、またね」
そう言って人混みの中に消えていく背中を、しばらく見送った。
その白いコートの裾が風に舞って、桜の花びらと混ざり合った。
駅前の音が遠くに霞んでいく。
手の中のスマホが、彼女の連絡先をまだ保存していることに気づいた。高校の卒業前夜、勇気が出せなくて何も送れなかったメッセージアプリ。その未送信の文章が、今も残っていた。
指先が震える。
「好きだった」
その五文字が消えずに残っている。十年前の、あの日のまま。
俺はスマホを見つめながら、深く息を吐いた。
再会は偶然か、それとも必然か。答えなんてまだわからない。
けれど、止まっていた記憶が再び動き出したことだけは確かだった。
春の風がまた吹いていた。
(続く)
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