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第3話 桜の下で言えなかったこと
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金曜日の夜、渋谷の街は仕事帰りの人たちでざわめいていた。街頭ビジョンの光が宙に揺れて、冷たい風が頬を撫でる。まだ春の始まりだというのに、都会の夜は熱を帯びていた。改札を出た瞬間、人の波に押されながらも、俺はスマホの時計を見た。十八時五十八分。約束の時間まであと二分。
カフェ・リュミエールは駅から少し離れた裏通りにある。十年前と変わらず、そのガラス扉の向こうには小さな灯りが温かく滲んでいた。懐かしさと緊張が混ざる。扉の前に立つと、胸の奥が微かに痛んだ。
中に入ると、ドアベルがやわらかく鳴った。香ばしいコーヒーの香りと、低くかかった音楽が重なって、時の流れがいくらか遅く感じられる。
視線を巡らせたその先、窓際の席に詩織がいた。
グレーのコートを脱いで膝に置き、スマホを見ていた彼女が顔を上げる。目が合った瞬間、自然と笑みがこぼれた。
「ごめん、ちょっと早く着いちゃって」
「いや、俺もさっき来たところ」
ありきたりな会話なのに、なぜか声が上ずる。彼女の前のカップには、コーヒーの表面に薄く光る輪が残っていた。
「ここの味、やっぱり好き。懐かしいね」
その言葉に頷きながら、俺は同じブレンドのコーヒーを注文した。
十年前と同じ席、同じ店、同じ香り。けれどその間にあるものはあまりにも多い。
「東京にはもう慣れた?」
「まあ、久しぶりだけど落ち着いたかな。人は多いけど、やっぱりこの街は空気が速いね」
「分かる。私も最初の頃、息が追いつかなくて毎日ヘトヘトだった」
詩織はそう言って笑った。頬にかかる髪を指で払う仕草が、昔と変わらないようで、でもどこか大人びていた。
「どんな仕事してるの?」
「デザイン会社。広告とかパッケージとか、そういうの。好きなことだから続けられてるけど、やっぱりしんどい時もあるかな」
「それでも笑って言えるの、すごいよ」
「ううん、湊くんの方がすごいと思う。ニュース作ってるって、責任の重さが違うでしょ」
「まあ、責任っていうより、逃げ場がないって感じかな。毎日が締切との戦いだよ」
互いに笑いながら、少し肩の力が抜けた。
少し沈黙が訪れる。カップを置く音だけが響いた。
「ねえ、覚えてる?ここで話したあの日のこと」
詩織がぽつりと口を開く。
「あの日?」
「卒業式の二週間前。放課後、偶然会って、湊くんが『疲れた顔してるけど大丈夫?』って言ったの」
「……覚えてるかも」
詩織が照れくさそうに笑った。「あのとき、進路のことで悩んでたんだ。東京に出るのが不安で。でも、あの一言でちょっと救われた」
「俺は何もしてないけどな」
「してたよ。こうやって会って話してると、あの頃のこと一気に思い出す」
彼女の瞳が窓の外の光を映す。新しい照明の明かりが、まるで夜桜のようにゆらめく。
その横顔を見ていたら、胸が痛むほど懐かしくなった。
しばらくして、食事を終えると二人で歩くことになった。渋谷の駅前を抜けて、少し坂を上ると夜風が頬を滑っていく。
「昔もこんなふうに歩いたよね」
「そうだな。あの帰り道、話したこと全部覚えてるよ」
「え、全部?」
「うん。詩織が言ってた。『桜ってさ、人の記憶を閉じ込めるみたいだね』って」
「そんなこと言ったっけ」
笑って肩をすくめる彼女。
歩道脇の桜並木には、早咲きの枝がいくつも開いていた。夜風に揺れて、淡い光をつくる。
その下で足を止める。
「桜、もう咲き始めてるね」
「うん。この場所、好きなんだ。季節の始まりみたいで」
詩織は言葉を続けるように、小さく息を吐いた。
「実はね、最近まであんまりこういう季節のこと、見ようとしなかった。忙しくて余裕がなかったのもあるけど……」
「それだけじゃない気がする」
「うん。たぶん、思い出したくなかったんだと思う」
その声がかすかに震えた。
「何を?」と問おうとして、言葉を飲み込む。
彼女が桜の枝を仰ぐように見上げていた。
「高校の最後の頃、いろんなことがうまくいかなくて。友達とも衝突して、家のこともあって。なのに、当時好きだった人に何も言えずに終わった」
胸の奥が強く鳴った。彼女の言葉の最後に、小さく溶けるような“好きだった人”という響き。
それが自分だったかもしれない――そう思った瞬間、息が止まりそうになった。
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
詩織は少しだけ笑って、「あの頃のことだから」と肩をすくめた。
「でも、後悔はしてる。逃げたんだと思う」
「逃げた?」
「うん、自分の気持ちから。怖かったんだ。伝えたら、何かが壊れる気がして」
桜の花びらが一枚、彼女の髪に落ちた。
そっと取ろうと手を伸ばして、途中でやめる。距離が近すぎて、息がかかりそうだった。
その距離の中に、十年分の沈黙が詰まっていた。
「詩織」
名前を呼ぶと、少しだけ振り向く。
「俺も、後悔してる。何も言えないまま終わったこと、ずっと引きずってる」
「……そうだったんだ」
「でも今、こうしてまた会えた。それだけで十分かもしれないって、今日思った」
彼女は少し目を伏せて、夜風に髪を揺らした。「湊くん、変わらないね。そういうところ」
「どんなところ?」
「優しいけど、不器用なところ」
お互いに笑って、歩き出す。
駅までの道のり、言葉は少なかった。
でも沈黙が苦ではなかった。足元に落ちる桜の影が、二人の距離を少しずつ縮めていくようだった。
改札の前まで来て、詩織が立ち止まる。
「今日はありがとう。楽しかった」
「俺も」
「また、会える?」
「もちろん」
その瞬間、十年前の時間が一気に繋がった気がした。
彼女は小さく手を振り、ホームの階段を下りていった。白いコートの裾が闇に溶けていく。
人波の中に立ち尽くしたまま、俺は空を見上げた。
桜の花がまた一つ、夜の風に舞う。
あのとき言えなかった言葉が喉の奥で疼く。
“好きだ”
その一言だけが、まだ胸の奥で燻っている。
今度こそ言えるだろうか。
春の風が頬を撫でていく。
(続く)
カフェ・リュミエールは駅から少し離れた裏通りにある。十年前と変わらず、そのガラス扉の向こうには小さな灯りが温かく滲んでいた。懐かしさと緊張が混ざる。扉の前に立つと、胸の奥が微かに痛んだ。
中に入ると、ドアベルがやわらかく鳴った。香ばしいコーヒーの香りと、低くかかった音楽が重なって、時の流れがいくらか遅く感じられる。
視線を巡らせたその先、窓際の席に詩織がいた。
グレーのコートを脱いで膝に置き、スマホを見ていた彼女が顔を上げる。目が合った瞬間、自然と笑みがこぼれた。
「ごめん、ちょっと早く着いちゃって」
「いや、俺もさっき来たところ」
ありきたりな会話なのに、なぜか声が上ずる。彼女の前のカップには、コーヒーの表面に薄く光る輪が残っていた。
「ここの味、やっぱり好き。懐かしいね」
その言葉に頷きながら、俺は同じブレンドのコーヒーを注文した。
十年前と同じ席、同じ店、同じ香り。けれどその間にあるものはあまりにも多い。
「東京にはもう慣れた?」
「まあ、久しぶりだけど落ち着いたかな。人は多いけど、やっぱりこの街は空気が速いね」
「分かる。私も最初の頃、息が追いつかなくて毎日ヘトヘトだった」
詩織はそう言って笑った。頬にかかる髪を指で払う仕草が、昔と変わらないようで、でもどこか大人びていた。
「どんな仕事してるの?」
「デザイン会社。広告とかパッケージとか、そういうの。好きなことだから続けられてるけど、やっぱりしんどい時もあるかな」
「それでも笑って言えるの、すごいよ」
「ううん、湊くんの方がすごいと思う。ニュース作ってるって、責任の重さが違うでしょ」
「まあ、責任っていうより、逃げ場がないって感じかな。毎日が締切との戦いだよ」
互いに笑いながら、少し肩の力が抜けた。
少し沈黙が訪れる。カップを置く音だけが響いた。
「ねえ、覚えてる?ここで話したあの日のこと」
詩織がぽつりと口を開く。
「あの日?」
「卒業式の二週間前。放課後、偶然会って、湊くんが『疲れた顔してるけど大丈夫?』って言ったの」
「……覚えてるかも」
詩織が照れくさそうに笑った。「あのとき、進路のことで悩んでたんだ。東京に出るのが不安で。でも、あの一言でちょっと救われた」
「俺は何もしてないけどな」
「してたよ。こうやって会って話してると、あの頃のこと一気に思い出す」
彼女の瞳が窓の外の光を映す。新しい照明の明かりが、まるで夜桜のようにゆらめく。
その横顔を見ていたら、胸が痛むほど懐かしくなった。
しばらくして、食事を終えると二人で歩くことになった。渋谷の駅前を抜けて、少し坂を上ると夜風が頬を滑っていく。
「昔もこんなふうに歩いたよね」
「そうだな。あの帰り道、話したこと全部覚えてるよ」
「え、全部?」
「うん。詩織が言ってた。『桜ってさ、人の記憶を閉じ込めるみたいだね』って」
「そんなこと言ったっけ」
笑って肩をすくめる彼女。
歩道脇の桜並木には、早咲きの枝がいくつも開いていた。夜風に揺れて、淡い光をつくる。
その下で足を止める。
「桜、もう咲き始めてるね」
「うん。この場所、好きなんだ。季節の始まりみたいで」
詩織は言葉を続けるように、小さく息を吐いた。
「実はね、最近まであんまりこういう季節のこと、見ようとしなかった。忙しくて余裕がなかったのもあるけど……」
「それだけじゃない気がする」
「うん。たぶん、思い出したくなかったんだと思う」
その声がかすかに震えた。
「何を?」と問おうとして、言葉を飲み込む。
彼女が桜の枝を仰ぐように見上げていた。
「高校の最後の頃、いろんなことがうまくいかなくて。友達とも衝突して、家のこともあって。なのに、当時好きだった人に何も言えずに終わった」
胸の奥が強く鳴った。彼女の言葉の最後に、小さく溶けるような“好きだった人”という響き。
それが自分だったかもしれない――そう思った瞬間、息が止まりそうになった。
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
詩織は少しだけ笑って、「あの頃のことだから」と肩をすくめた。
「でも、後悔はしてる。逃げたんだと思う」
「逃げた?」
「うん、自分の気持ちから。怖かったんだ。伝えたら、何かが壊れる気がして」
桜の花びらが一枚、彼女の髪に落ちた。
そっと取ろうと手を伸ばして、途中でやめる。距離が近すぎて、息がかかりそうだった。
その距離の中に、十年分の沈黙が詰まっていた。
「詩織」
名前を呼ぶと、少しだけ振り向く。
「俺も、後悔してる。何も言えないまま終わったこと、ずっと引きずってる」
「……そうだったんだ」
「でも今、こうしてまた会えた。それだけで十分かもしれないって、今日思った」
彼女は少し目を伏せて、夜風に髪を揺らした。「湊くん、変わらないね。そういうところ」
「どんなところ?」
「優しいけど、不器用なところ」
お互いに笑って、歩き出す。
駅までの道のり、言葉は少なかった。
でも沈黙が苦ではなかった。足元に落ちる桜の影が、二人の距離を少しずつ縮めていくようだった。
改札の前まで来て、詩織が立ち止まる。
「今日はありがとう。楽しかった」
「俺も」
「また、会える?」
「もちろん」
その瞬間、十年前の時間が一気に繋がった気がした。
彼女は小さく手を振り、ホームの階段を下りていった。白いコートの裾が闇に溶けていく。
人波の中に立ち尽くしたまま、俺は空を見上げた。
桜の花がまた一つ、夜の風に舞う。
あのとき言えなかった言葉が喉の奥で疼く。
“好きだ”
その一言だけが、まだ胸の奥で燻っている。
今度こそ言えるだろうか。
春の風が頬を撫でていく。
(続く)
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