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第10話 恋人という言葉
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翌朝、薄い光が窓の隙間から差し込み、目を覚ました。
寝覚めの悪い朝だった。体は休んでいたはずなのに、心が一晩中動いていたような感覚が残る。
ベッドの脇のスマホを見ると、詩織からの通知が入っていた。短いメッセージ。
「昨日はありがとう。もう大丈夫。ちゃんと休んでるから、心配しないでね」
その一行に胸が静かに熱くなる。
安堵と同時に、少しの寂しさも混じる。彼女が“ありがとう”で締めくくるとき、それは距離を戻そうとしている時の言葉だと、なんとなく感じ取ってしまう。
コーヒーを淹れていると、カップの中の湯気が昨日の病室の光景を思い出させた。
白いシーツ、彼女の寝顔、そしてゆっくり笑った瞬間。
十年前も同じことを思った。
“この笑顔を守りたい”――あの時の気持ちはまだ消えていない。
けれど、今の彼女にはもう誰かが隣にいる。
恋人という言葉が、彼女にとって現実の形を持ちはじめている。
午前中、会社に向かう電車の中で、ぼんやりと外を眺めていた。
東京の街は今日もいつも通り動いている。通勤する人、車の列、ビルの窓に映る朝の光。
動き続ける世界の中で、自分だけが時間の外側にいるような気がした。
スマホを開くと、昨日の詩織とのやり取りが画面に残っている。
指先が再び返信欄を開いたが、文字が出てこない。
「ゆっくり休めよ」とか、「また話したい」とか、簡単な言葉さえ浮かんだだけで喉が詰まるような苦しさがあった。
午後の仕事は、編集局全体を巻き込んだ企画会議だった。
来月から新しい春の特集号に合わせ、街と人の「再会」をテーマにするという。
川崎編集長がメモを配りながら言う。
「桜庭、お前が担当してる再開発地区の撮影、来週やるぞ。そこ、デザイン協力にアークデザインが入ってる」
心臓がわずかに沈んだ。
「……了解しました」
仕事だ。逃げることはできない。
職業として冷静に対応するべきだとわかっていながら、あの名前を聞くだけで、自分の感情がどうしても波立ってしまう。
会議が終わると、久我が隣に寄ってきた。
「お前、顔色悪いぞ。平気か?」
「徹夜明けみたいなもんだ」
「もしかして、また“彼女”関係か?」
「違う。それはもう終わった話だ」
そう言い聞かせるように答えるが、久我は肩をすくめて笑った。
「嘘つけ。お前の顔、昔フラれた時と同じだぞ」
その言葉が冗談に聞こえなかった。
「……いいんだ、もう」
手元のペンを握る。修正用紙に文字を書き連ねようとして、ふとペン先が止まった。
“恋人”という言葉がノートの端に浮かんで見えたのだ。
それは他人のものになった単語。もう使う資格のない言葉。
仕事を終える頃には、空がオレンジから群青に変わっていた。
編集局を出ると、夜風に混じって花が散る匂いがした。
春はまだ完全には終わっていない。
駅へ向かう途中、通りの向こう側に小さなカフェがあり、ガラス越しに灯りが見えた。
どこか見覚えのある空気。近づいてみると、「Café Lumière」と書いた看板――十年前と同じカフェだった。
もう閉店間際なのに、客が一人だけ座っていた。
その姿を見た瞬間、胸が跳ねた。
詩織。
驚いて足を止める。彼女は気づかないまま、ノートパソコンを開いて何かを打ち込んでいた。
店内の光が髪を照らして、肩に落ちている。
しばらくガラス越しに眺めていたが、迷いの末に扉を開いた。
ドアベルが鳴り、彼女が顔を上げる。
驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。
「湊くん……」
「偶然だな。ここ、まだあったんだ」
「うん、今日たまたま通りかかって入ってみたの。落ち着く場所、昔から好きでね」
彼女はノートを閉じて向かいの席を指した。
「座る?」
「少しだけ」
席に着くと、店内に流れる静かなピアノの音が心に沁みた。
「仕事はもう大丈夫なの?」
「うん、やっと落ち着いた。まだ若干怒られたけど」
「怒られるうちが花だよ」
「そうだね」
笑い合う。この距離、この時間、この香り。十年前と同じなのに、決定的に違う何かがある。
彼女の指には、細い銀のリングが光っていた。
「……それ、」
「うん、彼がくれたの」
言葉にならない。
「彼ね、今回の件で会社に残ることにした。私も支えるって決めたの」
その声に迷いはなかった。
彼女はまっすぐ前を向いていた。
それを見た瞬間、胸の奥のどこかが静かにほどけていく。
涙ではなく、ただ、静かな解放のような感覚。
「そっか」
「うん。でも、こうしてまた湊くんと話せたこと、ほんとに良かったと思ってる」
「俺も。あの時、言えなかったことが全部言えた気がする」
「ふふ、ようやくだね」
「うん。十年越しだから」
お互いに笑って、照れくさくなって目を逸らす。
コーヒーの香りが席の間に漂い、店内の時計の針が静かに動いていく。
「これからどうするの?」と彼女が聞く。
「仕事続けるよ。取材のペースも上がってるし、いずれは自分の特集を作りたいと思ってる」
「湊くんらしいね」
「詩織は?」
「彼と新しいプロジェクトを立ち上げるつもり。忙しくなると思うけど、今度こそ無理はしない」
その言葉にうなずく。
「頑張れよ」
「うん。ありがとう」
会計を済ませて外に出ると、夜風が柔らかく肌を撫でた。
少し離れたところで詩織が振り返る。
「また、春が来たらここで会おうか」
「……いい思い出になるな」
「ううん、約束だよ」
そう言って彼女は笑った。
あの頃よりも大人の笑顔。けれど、誰よりも優しい表情だった。
少しずつ遠ざかる背中を見送りながら、初めて心の底から思った。
“彼女が幸せなら、それでいい。”
それが十年追い続けた答えだった。
夜空を仰ぐと、桜の花びらが街灯に照らされて落ちていく。
そのひとひらが靴先に触れ、春の終わりを告げていた。
(続く)
寝覚めの悪い朝だった。体は休んでいたはずなのに、心が一晩中動いていたような感覚が残る。
ベッドの脇のスマホを見ると、詩織からの通知が入っていた。短いメッセージ。
「昨日はありがとう。もう大丈夫。ちゃんと休んでるから、心配しないでね」
その一行に胸が静かに熱くなる。
安堵と同時に、少しの寂しさも混じる。彼女が“ありがとう”で締めくくるとき、それは距離を戻そうとしている時の言葉だと、なんとなく感じ取ってしまう。
コーヒーを淹れていると、カップの中の湯気が昨日の病室の光景を思い出させた。
白いシーツ、彼女の寝顔、そしてゆっくり笑った瞬間。
十年前も同じことを思った。
“この笑顔を守りたい”――あの時の気持ちはまだ消えていない。
けれど、今の彼女にはもう誰かが隣にいる。
恋人という言葉が、彼女にとって現実の形を持ちはじめている。
午前中、会社に向かう電車の中で、ぼんやりと外を眺めていた。
東京の街は今日もいつも通り動いている。通勤する人、車の列、ビルの窓に映る朝の光。
動き続ける世界の中で、自分だけが時間の外側にいるような気がした。
スマホを開くと、昨日の詩織とのやり取りが画面に残っている。
指先が再び返信欄を開いたが、文字が出てこない。
「ゆっくり休めよ」とか、「また話したい」とか、簡単な言葉さえ浮かんだだけで喉が詰まるような苦しさがあった。
午後の仕事は、編集局全体を巻き込んだ企画会議だった。
来月から新しい春の特集号に合わせ、街と人の「再会」をテーマにするという。
川崎編集長がメモを配りながら言う。
「桜庭、お前が担当してる再開発地区の撮影、来週やるぞ。そこ、デザイン協力にアークデザインが入ってる」
心臓がわずかに沈んだ。
「……了解しました」
仕事だ。逃げることはできない。
職業として冷静に対応するべきだとわかっていながら、あの名前を聞くだけで、自分の感情がどうしても波立ってしまう。
会議が終わると、久我が隣に寄ってきた。
「お前、顔色悪いぞ。平気か?」
「徹夜明けみたいなもんだ」
「もしかして、また“彼女”関係か?」
「違う。それはもう終わった話だ」
そう言い聞かせるように答えるが、久我は肩をすくめて笑った。
「嘘つけ。お前の顔、昔フラれた時と同じだぞ」
その言葉が冗談に聞こえなかった。
「……いいんだ、もう」
手元のペンを握る。修正用紙に文字を書き連ねようとして、ふとペン先が止まった。
“恋人”という言葉がノートの端に浮かんで見えたのだ。
それは他人のものになった単語。もう使う資格のない言葉。
仕事を終える頃には、空がオレンジから群青に変わっていた。
編集局を出ると、夜風に混じって花が散る匂いがした。
春はまだ完全には終わっていない。
駅へ向かう途中、通りの向こう側に小さなカフェがあり、ガラス越しに灯りが見えた。
どこか見覚えのある空気。近づいてみると、「Café Lumière」と書いた看板――十年前と同じカフェだった。
もう閉店間際なのに、客が一人だけ座っていた。
その姿を見た瞬間、胸が跳ねた。
詩織。
驚いて足を止める。彼女は気づかないまま、ノートパソコンを開いて何かを打ち込んでいた。
店内の光が髪を照らして、肩に落ちている。
しばらくガラス越しに眺めていたが、迷いの末に扉を開いた。
ドアベルが鳴り、彼女が顔を上げる。
驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。
「湊くん……」
「偶然だな。ここ、まだあったんだ」
「うん、今日たまたま通りかかって入ってみたの。落ち着く場所、昔から好きでね」
彼女はノートを閉じて向かいの席を指した。
「座る?」
「少しだけ」
席に着くと、店内に流れる静かなピアノの音が心に沁みた。
「仕事はもう大丈夫なの?」
「うん、やっと落ち着いた。まだ若干怒られたけど」
「怒られるうちが花だよ」
「そうだね」
笑い合う。この距離、この時間、この香り。十年前と同じなのに、決定的に違う何かがある。
彼女の指には、細い銀のリングが光っていた。
「……それ、」
「うん、彼がくれたの」
言葉にならない。
「彼ね、今回の件で会社に残ることにした。私も支えるって決めたの」
その声に迷いはなかった。
彼女はまっすぐ前を向いていた。
それを見た瞬間、胸の奥のどこかが静かにほどけていく。
涙ではなく、ただ、静かな解放のような感覚。
「そっか」
「うん。でも、こうしてまた湊くんと話せたこと、ほんとに良かったと思ってる」
「俺も。あの時、言えなかったことが全部言えた気がする」
「ふふ、ようやくだね」
「うん。十年越しだから」
お互いに笑って、照れくさくなって目を逸らす。
コーヒーの香りが席の間に漂い、店内の時計の針が静かに動いていく。
「これからどうするの?」と彼女が聞く。
「仕事続けるよ。取材のペースも上がってるし、いずれは自分の特集を作りたいと思ってる」
「湊くんらしいね」
「詩織は?」
「彼と新しいプロジェクトを立ち上げるつもり。忙しくなると思うけど、今度こそ無理はしない」
その言葉にうなずく。
「頑張れよ」
「うん。ありがとう」
会計を済ませて外に出ると、夜風が柔らかく肌を撫でた。
少し離れたところで詩織が振り返る。
「また、春が来たらここで会おうか」
「……いい思い出になるな」
「ううん、約束だよ」
そう言って彼女は笑った。
あの頃よりも大人の笑顔。けれど、誰よりも優しい表情だった。
少しずつ遠ざかる背中を見送りながら、初めて心の底から思った。
“彼女が幸せなら、それでいい。”
それが十年追い続けた答えだった。
夜空を仰ぐと、桜の花びらが街灯に照らされて落ちていく。
そのひとひらが靴先に触れ、春の終わりを告げていた。
(続く)
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