冷徹王太子の婚約破棄から始まる、偽りの婚約と本物の恋

sika

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第1話 婚約破棄の朝

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侯爵家の庭園に、薄桃色の光が落ちていく。夜明け前の空気は張り詰めていて、吐息が白く揺れる。  
リディア・エルサレットはその中にひとり立ち、懐かしい香りのする花々を見つめていた。  
それは彼が好んだ花だった。淡い白のユリ。静謐な佇まいでありながら、内に誇りを秘める強い花。  
そして彼――王太子アレクシスは、花と同じく冷たい美しさを持つ男だった。

今日、この花園に彼と最後に立つことになる。  
王宮から届いた正式な通達には、たった一文が添えられていた。  
「本日、婚約破棄を告げる」  
その筆跡は、彼自身の手によるものだ。彼が署名したということは、王家の意志でもある。

リディアは手紙をもう一度見つめ、小さく息をついた。  
悲しみでも怒りでもない。ただ淡い諦め。  
心のどこかで、こうなる日が来ることは分かっていたのだ。

アレクシス王太子との婚約が決まったのは二年前。  
リディアは名門侯爵家の娘で、学問にも礼儀にも優れ、誰もが認める相応しき存在だった。  
けれどアレクシスにとって、彼女は常に「義務」でしかなかった。  
政略と名誉のための結びつき。恋など入り込む余地もなかった。

それでも、彼を好きだった。  
目の前の冷たいその人に、温もりを見つけたくて、必死に心を伸ばしてきた。  
けれど、彼は一度も振り向かなかった。  
そして今、ようやく終わる。

「お嬢様、王太子殿下がお見えになりました」

侍女ミラの声に、リディアは姿勢を正す。  
鏡を確かめることもせず、胸の前で両手を組んだ。  
もう泣かない――そう決めていたから。

しんとした空気を割るように、靴音が響いた。  
振り向けば、日差しに淡く照らされた金の髪。まっすぐな背。  
アレクシス・グランベルク王太子。  
いつ見ても、彼の姿は完璧だった。冷徹な光を宿した青い瞳は、感情のかけらすら見せない。  
けれど、今日はどこか違った。  
それは、終わりを告げに来る男の覚悟が、沈んだ影を作っていたからだ。

「リディア・エルサレット」  
低く、澄んだ声。呼ばれるだけで胸が痛くなる。  
「本日をもって、我々の婚約を解消する」

やはり言葉にされると、胸の奥を針で突かれたように痛んだ。  
けれどリディアは微笑んだまま、静かに頭を下げた。  
「……畏まりました、殿下。理由をお聞かせ願えますか?」

「君とは釣り合わぬ」
短く、そして残酷な答えだった。
「君は、王室に相応しくない。心の通わぬ婚約を続けるのは双方にとって不幸だ」
「そう……ですか」

冷たく聞こえるその声の奥に、ほんのわずかな迷いがあった。  
リディアはそれに気づいたが、敢えて指摘はしなかった。  
それが彼なりの優しさだと知っていたから。  
それでも、胸の奥に焼けるような痛みが広がっていく。  
「殿下、私は……」  
言葉を探すうちに、アレクシスの背後に影が差した。  
軽やかな笑い声。  
「まあまあ、殿下。そんな言い方をしては可哀想ですわ」

声の主は、金髪を巻いた少女――レティシア・ベラミア。  
近衛卿の娘で、王都中が噂する「王太子の恋人」だ。  
彼女は楽しげにリディアを見下ろした。  
「だって、殿下が私をお選びになったのですもの。エルサレット嬢には、これでお引き取り願うのが筋でしょう?」

ああ、やはり。  
この瞬間を見せつけるために呼ばれたのだ、と理解する。

ミラが怒りを抑えきれずに震えるのを、リディアは軽く制した。  
ゆっくりとアレクシスの方を見上げ、笑みを浮かべた。  
「承知いたしました。祝福いたします、殿下。そして、レティシア様」

「っ……」

アレクシスがわずかに息を詰まらせたのが分かった。  
彼女の顔に涙はない。絶望もない。ただ凛とした穏やかさだけがあった。  
その表情に、レティシアの笑みが一瞬引きつった。だがすぐに取り繕う。  
「では、お互い幸せに、と言いたいところですね」

リディアはそっと口元に指を当て、微笑んだ。  
「そうですね。ああ……でも、少々ご安心くださいませ、殿下」

「……何を言っている?」

「あなた様より、ずっと誠実で、私を大切にしてくださる方が、すでにいらっしゃいますの」

静寂が落ちた。  
アレクシスの瞳がわずかに揺れる。  
レティシアが面白がるように眉を上げた。  
「まあ、婚約破棄される前に次のお相手を見つけていたなんて、案外したたかですのね」

「ええ。きっとお二人より、幸せになってみせますわ」

リディアは優雅に会釈し、くるりと背を向けた。  
庭園を吹き抜ける風がドレスの裾を揺らす。  
振り返らない。その背に向けられる王太子の視線が痛いほど刺さるのを感じながらも、リディアは歩みを止めなかった。

屋敷に戻ると、ミラが泣き出した。  
「お嬢様、あんな言葉……でも、本当にお相手など……」

「ええ、いらっしゃいますわ」

リディアは小さく笑う。  
それは嘘だった。  
けれど、真実になる日が来る。  
なぜなら、彼女の中には確かな名前があったから。  
王太子の親友にして、常に陰から彼を支えてきた公爵家の次男――エドガー・ハートフィールド。  
穏やかで聡明な青年。  
何より、かつての彼が持っていなかったもの――温もりを宿している人だった。  

「そう……エドガー様なら、私に優しくしてくださるでしょうね」

ミラが目を見開く。  
「まさか……で、でも、殿下のご学友では?」

「ええ。だからこそ、面白いと思わない?」

その声は冗談めいていたが、瞳には確かな光が宿っていた。  
決して復讐だけではない。  
彼女は自分の尊厳を取り戻すために、この世界で再び立ち上がろうとしていた。  
泣いてすがるよりも、自ら幸せを掴みに行くほうが性に合っている。  
それが、リディア・エルサレットという女だ。

しばらくして、扉の向こうから優しいノックの音が響いた。  
「リディア嬢、突然の訪問、驚かせてしまいましたか?」  
その声に、リディアの唇がかすかに動く。  
エドガーの声だった。

彼がこの朝、なぜ訪れたのか。  
それはきっと偶然ではなかった。  
運命に導かれるように、リディアの物語は静かに動き出す。  
遠ざかる王太子の背中の影を、もう追わないと決めた。この胸に芽生えた新しい感情を、噛みしめながら。  

そして彼女は、初めて本当の意味で微笑んだ。  
「ようこそ、エドガー様。ちょうどあなたにお話ししたいことがありましたの」

扉が開かれる音がして、朝の光が差し込む。  
長い夜が終わり、リディアに新しい一日が始まる。  
彼女の瞳はまっすぐに未来を見ていた。  

その視線の先には、失ったものよりも、これから得るものが輝いていた。  
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