裏切られた令嬢は冷たい公爵様に拾われて、最愛の奥方として満たされる〜婚約破棄された夜、隣国で見つけた真実の幸福〜

sika

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第12話 抱きしめられた温もり

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夜空は月を隠していた。  
曇り空から冷たい風が吹き下ろし、冬の始まりを告げるような空気が屋敷を包んでいた。  
アリアは庭園の片隅、枯れ葉が積もった小径に一人立っていた。  
涙の跡は乾ききらず、頬を撫ぜる風に冷えていく。  
それでも部屋には戻れなかった。  
あのままでは、心がどうにかなってしまいそうだった。  

――私は、ただ、隣にいたかっただけ。  
その願いが拒まれたわけではない。  
けれど一線を引かれたことで、自分の存在がどこにあるのかわからなくなっていた。  

「……アリア。」  

低く、聞き慣れた声が闇の中から響く。  
胸が跳ねた。  
振り向くと、灯りを手にしたレオンハルトがそこにいた。  
光が彼の輪郭を縁取り、銀の髪が柔らかに揺れている。  

「どうして外にいる。こんな寒さの中で。」  
少し咎めるような言葉。それでもどこかに焦りの気配が混じっていた。  

「考え事をしたくて……部屋にいると、息が詰まってしまうんです。」  
「……そうか。」  
言葉を失ったように彼はしばらく黙ったのち、アリアのすぐ傍まで歩み寄る。  
近づくほどに、彼の体から温度と力強い香りが伝わってくる。  

「風が強い。戻ろう。」  
肩に触れようとする手をアリアは静かに避けた。  

「レオンハルト。私、あなたの邪魔ですか。」  
「邪魔……?」  
予想しなかった言葉に、レオンハルトが眉を寄せた。  

「あなたはいつも私を気遣ってくださいます。でも、それは“責任”の形なんでしょう? 婚約という名目のためだけに、私を守ろうとしている。」  
「違う。」  
「本当に?」  
震える声で問う。  
自分でも、もう何を求めているのかわからなかった。ただ、確かめたい気持ちが止められなかった。  

「あなたは優しい。けれど時々、本当にここにいないみたいに遠いのです。」  

言葉の終わりが風に溶けた瞬間、アリアの目の前で彼の姿が揺れた。  
レオンハルトは一歩踏み込み、次の瞬間には彼女を腕の中に引き寄せていた。  

「離れたいのか。」  
耳元で低い声がする。  

「……わかりません。」  
「なら、このままでいい。」  

腕の力が強くなる。  
アリアの頬が彼の胸に触れ、鼓動が聞こえた。  
強くて、早くて、抑え込んだような脈。  
まるで長い時間閉じ込めていた感情が、ようやく解き放たれたかのように。  

「俺はお前を“契約の女”だと思ったことは一度もない。」  
息を吐くように言われた言葉に、胸の奥が熱くなる。  
「だが、怖いんだ。お前を見ていると、忘れる。俺が何を失ったのか、何を背負っているのかさえ。」  

「それでも……私を遠ざけるの?」  
「お前は優しすぎる。俺に情を向ければ、お前が傷つく。」  
「もう傷ついています。」  
思わず、アリアは顔を上げてしまった。  
涙が滲む視界の中、レオンハルトの灰色の瞳がまっすぐに彼女を映している。  

「あなたが私を、守りたいと言ってくれるたびに嬉しいのに……そのたびに、遠くに行ってしまう気がするのです。」  
「アリア……」  
彼の顔に迷いが浮かぶ。  

沈黙が二人を包む。  
風が庭木を揺らし、葉がさらさらと音を立てた。  

「私には、あなたの痛みは癒せないかもしれません。でも、一人で抱えなくてもいいでしょう?」  
その言葉に、レオンハルトの瞳が揺れた。  
「俺には、お前に見せられないものがある。」  
「それでもいい。見せたくないのなら、見ません。けれど、あなたの隣にいることを……拒まないで。」  

アリアの声は震えながらも、どこか底に熱を秘めていた。  
レオンハルトは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。  
次の瞬間、彼はもう一度強く抱きしめた。  

「どうすればいいかわからないんだ。」  
その言葉は告白にも似ていた。  
彼の肩が小さく震える。  
アリアは静かに目を閉じ、その背にそっと手を添えた。  

温もりが伝わる。  
夜の冷たさよりも、過去の痛みよりも確かな体温。  

どれほどそのままでいたのだろう。  
やがてレオンハルトはゆっくりとアリアを離した。  
その瞳にはいつもの強さはなく、静かに凍った湖のような深さがあった。  

「……王都へ向かうのは変わらない。」  
「ええ。」  
「お前はここに残れ。セドリックと執事を頼む。俺が戻るまで、何があっても危険な場所に近づくな。」  
「わかりました。」  
声は震えていたが、逆らわなかった。  
今の彼には、責任と覚悟しかないことを、アリアは理解していた。  

「レオンハルト。」  
「なんだ。」  
「無事に戻ってください。……お願いです。」  
彼が苦笑したように見えた。  
「命令の口調ではないのか?」  
「それでは、想いが伝わらないから。」  

その言葉に、レオンハルトは何も言わず、ただ彼女の髪に触れた。  
指先が震えていた。  

「必ず、戻る。」  

約束、というより祈りのような響きだった。  

***  

夜が更けても、アリアは眠れなかった。  
レオンハルトの温もりが、まだ腕の内側に残っているようだった。  
胸の奥で、何か新しい感情が芽を出していた。  
それは恋慕というにはあまりにも静かで、それでも消せない灯。  

扉の外で控えていたセドリックが、優しく声をかけてくる。  
「公爵様はすぐに出立の支度を始められました。」  
「そう……ですか。」  
「他国との関係も絡んでいるようです。王城で何が起こるか、誰にも読めません。」  
「そんな状況でも、彼は行くのね。」  
「ええ。あの方は常にそうです。誰よりも人を思うのに、その思いを隠したまま剣を振るう。」  
「……その優しさが、きっと彼を傷つけてしまうのね。」  
セドリックは小さくうなずいた。  

「アリア様、彼に光を与えられるのは、あなたかもしれません。」  
「私に?」  
「はい。あの方の孤独は誰にも届かぬほど深い。けれど、あなたを抱きしめた時――あの背中の緊張が、ほんの一瞬だけ解けた。」  

心臓が強く打つ。  
その一言で、すべての感情が溢れそうになった。  

「ありがとう、セドリックさん。」  
「いえ。……どうか、公爵様を信じてお待ちください。」  

「ええ、必ず。」  
アリアは夜空を見上げた。  
雲の切れ間から月が顔を出す。  
その光はどこか頼りなく、それでも確かに世界を照らしていた。  

温もりはまだ腕の中に残っている。  
それを思い出すたびに、心臓が熱を帯びる。  

彼の背に向かって伸ばした手は、届かなくてもいい。  
それでも、彼の無事をただ祈りたかった。  

冷えた空気の中、アリアは胸の前で手を重ねた。  
レオンハルトの帰還を願うその祈りが、小さく夜に溶けていった。  

(第12話 終)
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