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断章-赫い終焉(前)

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 周囲一帯で、炎の波がらめいている。

 古い神殿の中だった。室内には煙と熱気が充満し、既に天井のはりにまで赤い舌が燃え移り、奥に鎮座ちんざするエウレネ像の横顔はだいだい色に照らされていた。

 言うまでもなく、現世の光景ではない。これはフェイデア界にいた勇者サリスの、最期さいごの時の記憶だ。

 恋人であるメルティアと共に人間の軍勢ぐんぜいから逃れ続けていたが、連日の不眠と戦闘で2人共とうとう精魂も底をつきようとしていた。いくら魔王を倒した勇者と聖女といえども、援軍もなく全人類に攻めたてられては、あらがうべくもない。

 俺=サリスは炎の壁をかき分け、己の肉が焼ける感覚にまゆをひそめながらも、エウレネ像のもとへと急いでいた。そこには愛しい人が、像にもたれかかったまま、床に座りこんでいる。

「……この神殿の周囲も、多数の兵に囲まれている。もしこの炎を突破できたとしても、なお2万の軍勢と斬り結ばなくてはならん。その中には十二勇者や聖騎士クラスの手練てだれもいる。もう……」

 その後の言葉を、サリスは飲みこんだ。もはや逃れるすべはないとはいえ、諦めの言葉を恋人に告げるのは、矜恃きょうじが許さなかった。

 メルティアも泥とすすで肌も衣服も黒く汚れ、顔色も青ざめていた。身体の所々ところどころに出血もみえる。すでに魔力が底をつき、普段なら彼女の身体を無意識状態でも自動的にいやしてくれる"女神の加護”さえも発動しないらしい。

 しかしそんな状態にあっても、炎であかく輝く彼女からは、いささかも可憐かれんさと高貴さが損なわれてはいなかった。

 この夜、一旦は追手おってを振りきり山奥に入ると、そこで偶然にも打ち捨てられたようにたたずむちかけた無人のエウレネ神殿を見つけた。2人は一時の休息をもとめその中へ入ったが、すぐに人類軍に居所を察知されることとなった。そして神殿は包囲され、外側から火を放たれたのだった。くり返すが、この時点で2人には抵抗する力は残されていなかった。

「そうですか」

 サリスの報告を受けたメルティアは、動揺どうようもみせず、ただ静かにそう返した。その毅然きぜんとした態度に、むしろサリスの心がり動かされた

「……すまない、全人類に崇拝されるべき聖女である貴女あなたを、こんな境遇に巻きこんでしまった。俺などと関わったばかりに」

 サリスは血がにじむほど、己のくちびるを強くみしめた。

 女神エウレネは、フェイデア界であまねくあがめられている光の女神である。天から降りそそぐ陽光はエウレネの慈悲じひとされ、世の生命・自然・作物のすべてに恵みを与えてくれる。エウレネ教団の神官たちは神聖魔法を駆使して人々の傷病を癒す活動にはげみ、そのことから庶民の人気は絶大だった。フェイデアで信仰される三大神の中で最も多くの信徒を有し、教団の規模も最大だった。

 そのエウレネの祝福を受け、女神の代理として人類で唯一"光魔法"をあやつることができる聖女がメルティアなのだ。全人類から崇拝すうはいされる、と形容しても決して誇張ではない。

 聖都せいとの大神殿でおこなわれる礼拝式れいはいしきでは、大広間にもうけられた祭壇さいだんに彼女1人がのぼり、信徒を代表して女神に祈りを捧げる。その姿を、つめかけた数百数千、時には万をこえる人々が女神へそそぐのと同じ敬虔けいけんな眼差しで見上げているのだった。サリスも1度だけ、その式に居合わせたことがある。仲間でもあり恋人でもある女性が、自分には届かない遠い存在だと思い知らされたような痛みを胸に覚え、その後長く尾を引くことになった。傭兵あがりの身分いやしき自分では、所詮しょせん彼女には釣り合わないのではないか……

 そんな栄光に満ちた聖女が、今全人類から迫害を受け、悲惨ひさんな最期をむかえようとしているのだ。"叛逆の勇者"サリスの連れ合いとなったばかりに……己をいくら呪っても呪いきれない思いがした。

「何を言うのです」

 サリスの謝罪を受けたメルティアは驚いたように、そしてどこかサリスを責めるようにさけんだ。

貴方あなたのせいなどではありません。私は自分の意思で貴方を愛し、貴方の妻となった。正式な挙式こそあげてはいませんが、私はもう身も心も貴方に捧げております。そのことに何の後悔もありません。今でもあなたとわせてくれたエウレネ様への感謝は、一片もそこなわれていません。むしろ私の方こそ……」

 そこでメルティアは疲れたようにうつむいた。すでにしゃべることも辛いはずだった。

「この苦境くきょうは、私が招いたようなものです。あなたは私のために、皇女殿下との婚約を反故ほごにしてしまった。そのことで皇帝陛下の不興ふきょうを買い、人類への造反などという根も葉もない疑惑を持たれるきっかけとなってしまった。私などに取り合わず、皇女さまと一緒になっていれば今頃、」

「あれは形だけの婚約だった。皇帝は自分の一族の中に"勇者"の肩書きを加え、はくをつけたかったのだ。皇女とも数えるほどしか会ったことがなかったし、向こうも内心では俺のような下賤げせんの男は嫌っていただろう。あなたが気に病むことではない」

 サリスの言葉を聞いたメルティアは一瞬、何か言いたげな眼差しを送ってきたが、結局言葉は続かなかった。

 魔王討伐の任にいて旅立つ直前、人類最大の国家であるガルベイン帝国皇帝から「娘と婚約してくれ」と要請ようせいされた。サリスは無造作むぞうさにその申し出を受けた。栄誉をサリスにうばわれた貴族や隣国の王族からは嫉視しっしされたが、サリスとしてはそんなものに関心はなかった。ただ断っても何かと面倒なことになりそうだし、自身の恋愛や結婚についてもどうでもいいと思っていたから、承諾の返事を投げただけの話である。彼は何物にもわずらわされることなく、魔王を倒すことに全力をかたむけたかった。皇帝も一時の気まぐれでそんな話を持ち出しただけで、時間がてば霧散むさんするだろう……

 その後に出発した旅の途中で、サリスは共に戦う同士だった聖女メルティアと恋に落ちたのだった。そして魔王討伐後、ガルベイン皇帝の元をおとずれ、皇女との婚約を断るむね申し出た。

 ……彼の目論見もくろみは甘かったと言わねばならない。皇帝の不興ふきょうを買い、帝国を追い出されるくらいのことは予測していた。しかし婚約を断ったことから「人類最大の皇家と姻戚いんせきになることを拒むのは、いずれ人類に反旗はんきひるがえそうとたくらんでいる証左しょうさである」という論法につなげられるとは、思いもしなかったのだ。サリスという男は、己の保身には無関心だった。

 もちろんそれだけが理由ではなく、その後も様々な要因が重なって彼は"人類の叛逆者"の汚名を着ることとなったのだが……その端緒たんしょが皇女との婚約破棄はきだったことは、いなめない事実だろう。だがそのことで、メルティアを責める気はつゆほどもなかった。

「俺は元々、皇女にも皇家の権門けんもんにも興味はなかった。それに俺が愛した女性はあなただけだ。俺が婚約を断ったのは俺の意思、それが悪手だったとしても、すべての責は俺にある。自分のせいだなどと、考えないでくれ」

「……ではあなたも、ご自分を責めるのはおやめください」

 メルティアはサリスの胸に身を投げた。もちろん光琉のようなベヒーモスの突進ではなく、「ふわり」という擬音ぎおんが似合いそうな静かな抱擁ほうようである。

「わたしはうれしいのです。こんなに愛している人の胸の中で最期の時を迎えられるなんて、女としてこれほどの幸福があるでしょうか。でも、ひとつだけ約束してほしい。サリス様、来世でもまた、わたしのそばにいてくれますか?」

「神かけて誓おう……いや、俺は誓う神など持ち合わせていないが、あなたとの約束は決してたがえない。何度生まれ変わろうが、俺が愛するのはあなたひとりだ」

 今にして思うと、余計なことを言ってくれたものである。いや、サリスもこの時は、目の前の恋人と来世で実兄妹になるとは予想もできなかったのだが……

「うれしい……メルティアは果報かほうな娘です。エウレネ様、あなたのしもべが最期の願いをお聞き届けください。次に生まれ落ちた世でも、サリス様と生涯を共にできますように……」

 胸の中でメルティアは赫く照らし出されたエウレネ像を見上げ、一心に祈っていた。その顔はどこまでも穏やかで、非業ひごう最期さいごが迫ってなお一点の曇りも浮かんではいなかった。

 ううむ、こうして思い出しても、何とも健気けなげな女性だなあ。朝っぱらから兄貴とキスできないからって暴れ散らしていた類人猿系女子にも、爪のあかせんじて呑ませたいぞ……あ、あれ同一人物か。

 しかし、胸の中の聖女とは対照的に、サリスの心は暗い影におおわれていた。

 なぜ、メルティアがこのようなむごい末路を迎えねばならないのか。彼女は聖女として、これまで身をけずって人類に尽くしてきた。女神の代理人として、年端としはもいかぬ身で巨大な教団を支え、光魔法の治癒力で多くの貧しい傷病者を無償で救い、そして何より彼女の光魔法がなければ人類をおびやかす魔王を打倒できなかった。その計り知れぬほどの献身への報いが、罪人として焼き殺すことだというのか。自分を、”叛逆の勇者”サリスを愛してしまったという、ただそれだけの理由で!

 この時、サリスの中には自分が”叛逆者”に仕立て上げられたことへのいきどおりはなく、ひたすらメルティアにこのような過酷な運命を背負わせたすべてのものを、呪いたい想いがあふれていた。彼は手にした”聖剣”を―すでに刀身は存在せずとなってしまった聖剣を、血が滲むほど強く握りしめた。

 炎の一角が揺らめき、赫い波の中から黒い影が飛び出してきたのは、その時である。

 それは、2人にとって救い手となる存在――などではなかった。
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