冷たい桜

七三 一二十

文字の大きさ
上 下
7 / 8

(7)

しおりを挟む
 或いは被害妄想だったかもしれないが、惨めな敗北感に苛まれていた。前を向いて胸を張る気にすらなれず、俯いて歩いていた。多分妹も同じだったのだろう。

 だから正面からいきなり強い光線を当てられた時は、完全に不意を突かれてたたらを踏んでしまった。後ろからついてきた千依ちよりが背中にぶつかるのがわかった。

「君たち、高校生か?こんな時間に何をしているんだ」

 頭上から高圧的な声が降ってきた。目に突き刺さるライトの光の向こうに、厳めしい帽子と厳めしい制服に身を包んだ、大柄な厳めしい男が立っている。どうやら巡回中の警官に目を付けられてしまったらしい、とわかった。

「ったく、まだいたのかよ。こんな時間にふらふら遊び歩きやがって。親が泣くぞ」

 今夜見つけた夜遊びの不良学生は僕たちだけではなかったようだ。それらを取り締まるための巡回の途中だったのだろう。成程、考えてみればこの樹々深い公園は、人目を避けて溜まるには格好の場所かもしれない。

「ほら、学校と名前は?」

 ライトを腋に挟み、器用に手帳を取り出してメモの用意を始める。端から僕たちを高校生以下だと決めつけている態度だった。

 僕は言葉に詰まった。或いは咄嗟に大学生か社会人だと言い張れば切り抜けられたかもしれないが、この沈黙で自分たちが補導の対象年齢だと認めてしまったようなものだ。ライトの向こうにうっすら見える中年男の頑迷そうな表情が、「下手な言い訳は通用しないぞ」と脅しつけているようで、足が竦んだ。自分にはアドリブの才能がない、と思った。

 だがもちろん、ここで正直に自分達の素性を言うわけにはいかない。地元の学生ではなく遠くから家出中だとわかれば連れ戻されることは必至だし、ひょっとしたら例の浦澤うらさわの件で指名手配されているかもしれないのだ。

「おら、無駄な足掻きはよして正直に白状しろ。学生証は? 持ってないのか?」

 警官は徐々に募る苛立ちを隠そうともせず、乱暴な口調で問いを重ねてくる。腋を冷たい汗が伝っていった。目を泳がせながら懸命に思考を巡らせようとしたが、混乱した頭ではこの場を切り抜ける妙案など浮かびようもなかった。

 不意に、横から腕を取られた。何事かと思って振り向いた時には、千依が僕の腕を引っ張りながら脱兎のごとく、警官のいる側とは反対方向へ小道を走り出していた。迷っている余裕はなかった。前後の見境もつかないまま、僕は妹に倣って慣性に身をゆだねるように駆け出した。

「あ! 待て、ガキども」

 後ろから警官の罵声と地を蹴る足音が押し寄せてくる。捕まったら終わりだ、と思った。心臓が急ピッチで跳ね上がった。

 もと来た道を無我夢中で逆走する僕の頬は加速度的に火照っていき、寒冷な夜の大気がその頬を冷まそうとするかのように撫で、過ぎ去っていく。走っている最中に樹々がざわめくような音が聞こえた。くさむらの陰で肌を重ねていた男女が物音に慌ててその場を離れたり野次馬根性を発揮してこちらを覗きにきたりしたのだろう、とは後になってから思い当たったことで、この時はそんなことに構っている余裕はなかった。

 急激な運動に晒された身体は多量の酸素を欲した。必死に息を吸い込むと、咽るような水の香りが口内に染み入ってきた。気が付くと、さっきの枝垂桜に囲まれた池の周囲を走っていた。

 元々運動能力に長けている方ではない。慣れない走行に足がもつれ、その弾みで先を行く妹の手を離してしまった。前のめりに膝をつき、慣性で背負っていたリュックを前方に放り出す形になった。まずい、と思った時には、左肩を後ろから掴まれる感覚があった。

 ごつごつした掌が僕の肩を強く握り、痛みに思わずうめき声をあげる。ついで後方へと引っ張られ、バランスを崩して後ろ向きに倒れそうになる処を、脇の下から固い腕が差し込まれ、羽交い絞めにされた。

「おら、捕まえたぞ! 手を焼かせるんじゃねえ」

 後ろから僕を抑えつけた警官が、耳元で大声をあげる。生温い息に加えて飛び散る唾が顔にぶつかり、気色が悪かった。警官の締め上げは強く、関節が悲鳴を上げ、激しい運動を唐突に止められたことも手伝って、息が苦しい。

 意識が遠のいていく気配を感じた。目の前の池の水が、広がる墨汁のように夜の闇と溶け合っていくのがみえた。ここまでか、と自分の内部の遠いところで諦観のつぶやきが聞こえる。

 直後。

「ぎゃっ」

 警官が甲高い悲鳴をあげたかと思うと、僕を締め上げる力が途端に緩み、僕の身体はずるずると滑り落ちた。

 頬に何かが飛び散ってきた。液状のものだが、ぬめりが強くて気持ち悪い。手で拭い、掌を鼻の先まで持ってくる。さび臭い匂いが鼻を突き、ここで初めてぎくりとした。夜の闇は、血の赤を網膜まで届かせなかった。

「兄さん、はやく!」

 前方から妹の切羽詰まったような声が聞こえる。顔を上げると、左手をこちらに目一杯伸ばし、右手には何か刃物らしきものを持っていた。それが妹が地面に放り出されたリュックからいつの間にか取り出した、自分たちの自殺用具として用意していたフォールディングナイフだとは、この時は気づきが至らなかった。

 しかし刃先から何やら液状の粒が滴り落ちているシルエットが夜目にもみえたことで、何が起こったか大まかの察しはついた。

 振り返ると先ほどの警官が左肩に手をあててうずくまっていた。口元から呻き声が漏れている。

「こ、このガキども……」

 獰猛な眼光が暗がりに光ったかと思うと、猛禽類を思わせる瞬発力で僕の脇を通り抜け、千依に躍りかかった。

 ごつい手が千依の右手首を掴み、持ち上げた。

「きゃっ……」

「もう容赦しねえぞ! こんなことして唯で済むと思ってんのか」

 手首を圧迫する握力に耐えられなかったのか、千依に握られていたナイフはその手から下に滑り落ちた。

 咄嗟に身体が動いた。僕は飛びつくように地面のナイフを拾い上げると、千依に意識が集中してがら空きになっていた警官の脇腹へと、刃を喰い込ませた。

 掌を伝う、鈍い感触。

「ごふっ……」

 くぐもった声と共に、生温い液体が頭上に降ってきたのが分かった時、僕は咄嗟にナイフから手を離してしまった。力が抜け、その場に崩れ落ちた。

 目の前で熊を思わせるごつい警官が、脇腹を抑えたままふらふらとよろめいている。酔っぱらっているようにも、下手なダンスを踊っているようにも見えた。その背後には淡いライトの光を反射させた池が、まるで卑小な人間を飲み込まんとするかの如く広がっている……

 滑稽にさえみえる警官の姿が、僕に激しい恐怖を呼び起こした。全身が泡立った。尻もちをついたまま、後じさりをする。

 警官がようやく立ち止まり、ナイフを抜こうと動き出した時、視界を飛び出す影が掠めた。

 千依だった。その小さい身体を目いっぱい丸めて、肩から警官に体当たりしたのだ。普段なら小ゆるぎもしなかったろうが、腹部を刺された警官にはその衝撃を受け止めるだけの余力はなかった。巨大な影が仰向けに、安全ロープの上を優々と越え、池の中へと頭から倒れていく光景が、スローモーションのように流れて行った。

 大きな水音が、周囲の闇を打った。

 僕も千依も、咄嗟には動けなかった。特に千依は地面にへたり込んだまま、呆然と池の空虚を見つめていた。その肩が、小刻みに震えているのがわかった。周囲の枝垂桜が、まるで罪人を裁く処刑人の群れに見えた。

 虚脱した全身に無理やりに力を宿し、僕は立ち上がった。僕は千依の兄だ、と自分に言い聞かせた。

 今の水音を聞きつけて、暗がりの色情狂たちが駆けつけてくるかもしれない。その前に僕たちは立ち去らなければならない。

「千依」

 そっと声をかけてみたが、反応は無かった。

「千依っ!」

 今度は声を高め、肩を激しく揺すった。

 振り向いた妹は無表情だったが、目に涙を溜め、暗がりの中でも顔が蒼褪めているのがはっきりとわかった。魂の抜けたようなその顔は、これまで見た中で一番儚く思えた。

「……ここを離れよう、早く」

 腕を掴んで小さな身体を強引に起こすと、そのまま彼女の左手を握って走り始めた。さっきとは逆の立場になった。そんなことしかしてやれない自分に、腹が立った。妹の左手が、僕の右手を強く握り返してくるのがわかった。

 池を離れ、豪奢な桜並木の方へと走った。反対側の小道には、葉叢で淫蕩に耽る連中がいるのが分かっている。今の時間ならメイン通りでも人と出くわす可能性は少ないだろう。それに賭けた。

 とりあえず駅に向かおう、電車に乗ってこの周囲を早急に去ろう、とだけ考えていた。その先まで思いを巡らす余裕は、とても持てなかった。

 メイン通りを走る僕の視界の隅を、華麗な桜の薄紅が流れていく。美しければ美しいほど、無性に憎らしかった。このまま桜の狂気に充てられ、全ての思考を放棄してしまえたらどんなにいいだろう、と思った。

 右手に握った千依の手の柔らかな感触だけが、かろうじて僕を現実世界に繋いでいた。
しおりを挟む

処理中です...