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ミューズの名

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 凌太が店を出た後から、ざわざわと黒い何かが迫ってくる感覚があった。チラチラと目の端に揺れるそれを捕まえようとするが、手を伸ばした瞬間自分が怯んでいる事に気が付くのだ。何か良くないものがあるのに、それに触れるのは怖い。

 それでもこれを捕まえないと状況は改善しないだろうと腹を括ったのは、凌太と記念日を祝ってから四日経ってからだ。

 予約やパネル指名の客をこなしていると、次はお待ちかねの凌太との時間まで微妙に時間が空いてしまった。エナジードリンクを片手に、ベッドに座って目を閉じた。

 トリガーになった言葉はきっと『酒』だ。凌太に聞かれて、頭に思い浮かんだ映像を再び脳内に照射しだした。

 可哀そうな、女の人の姿がすぐに浮かび上がってきた。



 声を殺して涙を流していた母さんの手には、最初は缶ビールが握られていたんだと思う。徐々にテレビで宣伝なんてされてない、マイナーなビールにへと変わっていって、最後には料理酒を雲ったガラスコップに注いで飲んでいた。一番覚えているのはこの姿だ。

 父さんは体が弱く、入退院を繰り返す人だったらしい。らしいというのは物心が着くころにはもう居なかったから。

 医療費や生活費だけでなく、心の弱い母さんは病に効くという水を高値で取り寄せたり、今考えれば眉唾以外何物でもない祈祷師を呼んだりしていたらしく、その借金が嵩みに嵩んだ。父親の世話をするため、パートでしか働けなかった母さんに返す当てなんてあるはずもなかった。

 友達がゲーム機を持って集まるのを羨んでいる事に気が付かれて『うちはお金が無いからごめんね』と言う母さんの申し訳なさそうな顔は今思い出しても胸が締め付けられる。

 ある程度成長すれば、頭はそんなにだったけど顔は割と良かったらしく、女の子たちはかなり優しくしてくれた。ごはんやお菓子をくれる子もいた。キスをすればお小遣いも貰えたから、学生時代はわりと楽しんでたと思う。でも、借金を返すようなお金はには全然足りなかった。キスをすれば、優しくすればお金をくれる人がいる事を知れたのはその後の人生を決めるためにも良い経験だった。

 高校生の時、選択授業で取った美術教師と出会って、自分が同性愛者だった事を自覚した。女の子達とキスは出来たけれど、それ以上はトライしても出来なかった。両刀ではない事も同時期に確信した。

 そういうお店に行ってみたり、教師に相談したりと自分の性嗜好について悩み始めた頃、母さんの身なりが綺麗になっていった。家に母さんよりも少し若い男が居つくようになっていって、いつの間にかいつもいる人になった。

 男の目的は、一目見た時からなんとなく気付いていたから用心していたけれど、美術教師と一線を超えたあの日、気持ちが通じ合えたふわふわとした気持ちでいたのが悪かったんだと思う。愚かにも、部屋で男と二人きりになってしまった。

 筋骨隆々とまではいかないが、筋肉質な腕で組み敷かれると同時に殴られて、抵抗する気持ちは早々に萎えてしまった。同性同士だと言うのに、鍛えた男の体はまだ思春期の育ちきっていない少年を従わせるのに十分な力の差があった。

 数時間前までの幸せな気持ちから一転し、好きでもない男の異物を体内に入れられて、俺は挿入されながら吐いてしまった。

 初めて好きな人と結ばれた日に、母親の恋人に犯されるなんて今思い出しても気持ちが悪い。まあでも初体験がレイプじゃなくて本当に良かったと思う。

 嘔吐した事に一瞬怯んだが、男は萎えずに腰を振り続け、ゴムもつけずに中で出され、腹を壊した。上も下も汚い話しだ。

 最初から俺が目当てだったのか、最初はちゃんと母さんの事が好きだったのかはもう分からない。男はその後も二人きりになる時間を無理やり作って何度も、何度も犯してきた。

 母さんは気持ちが弱い人だったから、男から引き離すのは可哀そうな気がして、ずっと耐えてた。誰にも相談できないし、慣れってのは恐ろしいもので、最初程、行為自体には嫌悪感を抱かなくなっていってた。それでも少しずつ男への嫌悪感は募っていって、いい加減犯される事にも、結果的に母さんを騙している事にも我慢出来なくなったんだ。

 言葉だけで母さんが信じてくれるとは思えなくて、覚悟を決めて襲われるところを盗撮した。確認の為動画を見返すと、その時も吐いてしまった。母さんに見せると見た事も無い取り乱し方をして、俺に泣いて謝ってくれた。今思えば、息子のセックスシーンなんて母さんもみたくなかっただろうな。しかも相手が自分の恋人で、男同士なんだし。

 母さんの幸せを壊した罪悪感と、母さんが恋人より自分を選んでくれた安心感で俺も一緒になって抱き合って二人でぐちゃぐちゃになるまで泣いた。

 母さんに対する嫌なイメージが、この時から徐々に薄れていった。お金に期待しなくなって、母親としての愛情にも期待しなくなってたのを、母さんは俺の味方だってあの時強く思えたのが大きいんだと思う。今はわりと良好な関係が築けているはず。

 彼氏だと思っていた男が息子を組み敷く様を見せられて、母さんはずっと泣いていた。泣き続ける母さんを見てると、男に対しての怒りが膨れ上がって止められなくなっていった。自分が犯された怒りより、母さんを悲しませた怒りの方が大きくなっていったんだと思う。男が帰って来た時、台所にあった包丁を持ち出して母さんと二人で男を追い出した。

 男の荷物も玄関から投げて、また二人でわんわん泣いた。母さんは何度も謝ってた。

 追い出してから生活費と借金の一部を男が払ってくれていた事を知った。

 学費も男から出ていた事を知った俺は、高校を辞めた。母さんはまた泣いたけど、どうせ馬鹿だからって慰めた。また勉強したいなって思ったら、通信制とかあるし、大丈夫だって。

 美術教師とはそのまま音信不通になってしまった。向こうから何かしらコンタクトを取る事は出来たろうに、しなかったというのはそれまでの事だったんだろう。確かに初体験の相手は彼だったし、男同士のいろはを教えてくれたのも彼だった。先生は優しかった。それだけで十分だ。

 でも、もう大人の男は信用できなくなった。
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