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好きな人を忘れるか【幻想堂のお客様】

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「今日はどんな味でしょうかね?」
「ここのコーヒーを飲むことがやみつきになりそうです」
 水沢はにこりとしてひとくちひとくち味わいながら飲み干した。
 レジには妹のアリスがいて、お金を支払う際に水沢にひとこと言った。

「未来はこれから起こること以外にもたくさんあるの。ほんの一例だから、楽しんできてね。今日1日は彼のこと忘れちゃうわよ」
 時羽の妹が水沢に説明する。

「彼?」
 水沢は彼のことを既に忘れていた。思い出しそうで思い出せないむずがゆい感じがするが、水沢は思い出したいという気持ちにはなっていなかった。

「ひさしぶりじゃねーか」
 ガラの悪そうな男が近づいてくる。
「誰ですか?」
「俺だよ、元カレのこと忘れたのか?」
「あなたのことなんて知りません」

 全く知らない男が近づいてきた。新手のナンパだろうか?

「じゃあさ、俺がおまえに晩飯おごるから」
「なにそれ? 新手のナンパ?」
「忘れたなら思い出させてやろうか?」

 少し強引なタイプの男性は嫌いではなく、むしろ水沢の好きなタイプだった。そして、よく見ると彼の顔立ちや声はかなり好きなタイプだということに気づく。彼は自分の夢を語り、そのために定職にはついていないという話だった。

「俺はおまえと付き合いたい」
 真剣な顔で迫られると、ドキドキが止まらなかった。


♢♢♢

「いかがでしたか?」
 気づくと水沢は先程までいた店内に戻っていた。
「あれ? 私ここにいたのですか?」

「2パターンありましたが、どちらにしたいですか? 忘れるだけならば1週間程度の寿命で結構ですが」
「忘れても、私は彼のことを好きになってしまうようです。今はふられた状態なので、少し時間を置いて様子をみます。久々に彼に会えてうれしかったけれど、本当にこのまま一緒になっていいのかよくわからないんです」

「時間はたっぷりありますよ。今度は純粋にコーヒーを飲みに来てください」
「飲みに来るだけでもいいのですか?」
「もちろんです。ここは本来喫茶店ですから。運命をおためししたければそれも可能ですがね」
 にこやかに時羽は見つめた。

「もしかして、水沢さん?」
 ふりむくと知っている顔の男性がいた。優しく整った顔は変わっていなかった。
「あなたは大学の同級生だった木下君……」
「俺はここの常連なんだ。まさか水沢さんに会うなんて、偶然だね」

 木下君は水沢が学生時代に少し憧れていた学生で、特別仲良くなることもなく、卒業してしまった知り合いだった。

「実は、友達と映画に行く予定だったんだけど。ドタキャンされたんだ。もしよければ一緒に行かない?」
「私でいいの?」
「この映画なんだけどさ、興味あるかな?」
 木下は映画の内容をスマホで見せた。

 この喫茶店には不思議な魔力があって、偶然をひきよせる力があるのかもしれない。目に見えない縁を感じた水沢は新しい気持ちに切り替える。ふられたらそこで終わりにしよう。悲しい気持ちにふたをした。

 外に出ると、まるで別な世界のような都会の喧騒感が押し寄せる。道路に面しているので、空気の汚れがひどい。アスファルトに照り付けた太陽が直射日光をそのまま反射していた。道路に熱がこもって空気中には排気ガス。こんなに都会の空気は濁っていたのだろうか? 今まで気づかなかった。落ち着いてまわりを見たらもっと新しいことに気付けるのかもしれない。そして、ここへ来ればまたおいしいコーヒーが飲める。そう思うと失恋の心も少し癒された。失恋の辛さを話すことができるお店があるというだけで、心に余裕ができた。あの店は都会のオアシスなのかもしれない。

 二人の影が歩道に長くのびる。それは、偶然という名の縁なのかもしれない。

「アリスちゃんは、小学生なのになかなかしっかりしてるわね」
 雪月風花の指定席となった窓際の一番奥の席でにこやかにコーヒーを飲む。

「お兄ちゃんなんかと仲良くしてくれている雪月さんにはいつも感謝しています」
「ここのコーヒーが好きだし、このお店にいると落ち着くんだよね。滅多に笑わない時羽君の営業スマイルも見ることができるし」
「滅多に笑わなくて悪かったな」
「お兄ちゃん無愛想だし、目つき悪いからね」
「おい、俺を悪く言うなよ」
「雪月さんってお兄ちゃんのこと好きなの?」
「好きだよ」

 当たり前のように好きだと言う雪月に、時羽は罠が潜んでいるのではないかと警戒する。時羽バリアが炸裂していた。雪月の言う好きの意味は時羽にとっての幼稚園児が好きだと言っている程度の認識で、恋愛感情を変に意識することもない。精神年齢が幼いことは、幻想堂ですらどうにもできないらしい。
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