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第8話 安い労働力という幻想
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第8話 安い労働力という幻想
昼下がりの王都。
シグネア・ヴァレンティスは、珍しく侯爵邸を離れ、職人街へと足を運ばせていた。
馬車の中で、テイクアが小さく首を傾げる。
「本日は、装飾工房の視察と伺っておりますが……急でございましたね」
「ええ。
例のドレスの件で、少し気になる話を聞きましたの」
扇子を軽く打ち合わせながら、シグネアは淡々と続ける。
「新規商人の裏で、下請けの職人が買い叩かれている、と」
「……王都では、珍しくありません」
テイクアの声は静かだった。
「“安く使えるならそれでいい”と考える商人は、一定数おります」
「でしょうね」
シグネアは、あっさりと同意する。
「だからこそ、確かめに来ましたの」
◇
工房街は、決して華やかではない。
だが、石畳に刻まれた傷や、長年の作業で黒ずんだ壁は、確かな歴史を語っていた。
「ヴァレンティス侯爵様!」
工房の主が、慌てて頭を下げる。
「本日はどのようなご用件で……」
「視察ですわ」
即答だった。
「仕事ぶりを、この目で拝見したくて」
主は、一瞬だけ戸惑ったが、すぐに工房の奥へ案内する。
そこには、黙々と作業する職人たちの姿があった。
一針一針に、無駄のない動き。
目は布を追い、手は迷わない。
シグネアは、しばらく無言でそれを眺めていた。
「……見事ですわね」
ぽつりと呟く。
「この技術、どれほどの年数を?」
「二十年以上になります」
職人の一人が、誇りを隠さず答えた。
「親の代から続く仕事です」
「素晴らしい」
シグネアは、素直にそう言った。
だが――。
「ですが、最近は仕事が減りまして」
工房主が、言い淀みながら続ける。
「商会からは、値下げの要求ばかりで……
“他に安いところがある”と」
その言葉に、テイクアの眉がわずかに動いた。
シグネアは、扇子を閉じる。
「安い労働力、ですか」
声は冷ややかだった。
「え、ええ……」
「聞きたいのですけれど」
シグネアは、ゆっくりと振り返る。
「あなた方の技術は、
“安くなければ価値がない”程度のものかしら?」
職人たちは、息を呑んだ。
「い、いえ!
そんなことは……」
「でしょうね」
即答だった。
「では、なぜ安売りする必要があるのかしら?」
沈黙。
誰も答えられない。
◇
「安い労働力で回る社会は、一見すると効率的ですわ」
シグネアは、工房の中央に立ち、淡々と語る。
「けれど、それは“今”だけの話」
扇子で空を切る。
「技術が正当に評価されなければ、
若者はこの仕事を選ばなくなります」
職人たちの表情が、わずかに変わる。
「やがて、優秀な職人は一人もいなくなる」
静かな断言。
「そうなったとき、
安く使い潰していた側は、何を失うと思います?」
誰も口を開かない。
「答えは簡単ですわ」
シグネアは、淡々と告げる。
「“代えのきかない価値”です」
テイクアは、内心で息を呑んだ。
主の言葉は、感情論ではない。
徹底した合理だ。
「私は、未来を削る取引には興味がありません」
シグネアは、工房主を見る。
「今回のドレスの仕事。
正当な対価で、正式に依頼します」
「……ほ、本当ですか?」
「ええ」
微笑みすら浮かべない。
「その代わり、条件があります」
職人たちが、身構える。
「この工房の技術を、
安売りしないこと」
「……!」
「安さではなく、価値で勝負なさい」
それだけだった。
◇
帰りの馬車の中。
テイクアが、そっと口を開く。
「……かなり、はっきりおっしゃいましたね」
「当然ですわ」
シグネアは、窓の外を見ながら答える。
「未来を消す選択肢など、最初から存在しませんもの」
「ですが……
また、噂になります」
シグネアは、くすりと笑った。
「ええ。きっと」
◇
その夜。
サロンの一角で、ルーマー・イグザジェレイションは、興味深そうに話を聞いていた。
「職人街で、説教をなさったとか」
「ええ。
“安い労働力は幻想”ですって」
別の令嬢が、鼻で笑う。
「まあ、きれいごと」
ルーマーは、紅茶を一口。
(未来、技術、価値……
耳触りはいいけれど)
彼女は、すぐに“使える形”に整える。
「つまり――」
小さく微笑む。
「無駄に金を使って、
儲けを捨てている、という話ですわね?」
令嬢たちが、くすくすと笑った。
「ヴァレンティス侯爵様、
やはり経済感覚が――」
「欠けている、ですわね」
ルーマーは、満足そうに頷いた。
(噂は、事実を運ぶ必要はない。
“分かりやすさ”があればいい)
安い労働力という幻想は、
今度は別の形で、王都を巡り始めていた。
昼下がりの王都。
シグネア・ヴァレンティスは、珍しく侯爵邸を離れ、職人街へと足を運ばせていた。
馬車の中で、テイクアが小さく首を傾げる。
「本日は、装飾工房の視察と伺っておりますが……急でございましたね」
「ええ。
例のドレスの件で、少し気になる話を聞きましたの」
扇子を軽く打ち合わせながら、シグネアは淡々と続ける。
「新規商人の裏で、下請けの職人が買い叩かれている、と」
「……王都では、珍しくありません」
テイクアの声は静かだった。
「“安く使えるならそれでいい”と考える商人は、一定数おります」
「でしょうね」
シグネアは、あっさりと同意する。
「だからこそ、確かめに来ましたの」
◇
工房街は、決して華やかではない。
だが、石畳に刻まれた傷や、長年の作業で黒ずんだ壁は、確かな歴史を語っていた。
「ヴァレンティス侯爵様!」
工房の主が、慌てて頭を下げる。
「本日はどのようなご用件で……」
「視察ですわ」
即答だった。
「仕事ぶりを、この目で拝見したくて」
主は、一瞬だけ戸惑ったが、すぐに工房の奥へ案内する。
そこには、黙々と作業する職人たちの姿があった。
一針一針に、無駄のない動き。
目は布を追い、手は迷わない。
シグネアは、しばらく無言でそれを眺めていた。
「……見事ですわね」
ぽつりと呟く。
「この技術、どれほどの年数を?」
「二十年以上になります」
職人の一人が、誇りを隠さず答えた。
「親の代から続く仕事です」
「素晴らしい」
シグネアは、素直にそう言った。
だが――。
「ですが、最近は仕事が減りまして」
工房主が、言い淀みながら続ける。
「商会からは、値下げの要求ばかりで……
“他に安いところがある”と」
その言葉に、テイクアの眉がわずかに動いた。
シグネアは、扇子を閉じる。
「安い労働力、ですか」
声は冷ややかだった。
「え、ええ……」
「聞きたいのですけれど」
シグネアは、ゆっくりと振り返る。
「あなた方の技術は、
“安くなければ価値がない”程度のものかしら?」
職人たちは、息を呑んだ。
「い、いえ!
そんなことは……」
「でしょうね」
即答だった。
「では、なぜ安売りする必要があるのかしら?」
沈黙。
誰も答えられない。
◇
「安い労働力で回る社会は、一見すると効率的ですわ」
シグネアは、工房の中央に立ち、淡々と語る。
「けれど、それは“今”だけの話」
扇子で空を切る。
「技術が正当に評価されなければ、
若者はこの仕事を選ばなくなります」
職人たちの表情が、わずかに変わる。
「やがて、優秀な職人は一人もいなくなる」
静かな断言。
「そうなったとき、
安く使い潰していた側は、何を失うと思います?」
誰も口を開かない。
「答えは簡単ですわ」
シグネアは、淡々と告げる。
「“代えのきかない価値”です」
テイクアは、内心で息を呑んだ。
主の言葉は、感情論ではない。
徹底した合理だ。
「私は、未来を削る取引には興味がありません」
シグネアは、工房主を見る。
「今回のドレスの仕事。
正当な対価で、正式に依頼します」
「……ほ、本当ですか?」
「ええ」
微笑みすら浮かべない。
「その代わり、条件があります」
職人たちが、身構える。
「この工房の技術を、
安売りしないこと」
「……!」
「安さではなく、価値で勝負なさい」
それだけだった。
◇
帰りの馬車の中。
テイクアが、そっと口を開く。
「……かなり、はっきりおっしゃいましたね」
「当然ですわ」
シグネアは、窓の外を見ながら答える。
「未来を消す選択肢など、最初から存在しませんもの」
「ですが……
また、噂になります」
シグネアは、くすりと笑った。
「ええ。きっと」
◇
その夜。
サロンの一角で、ルーマー・イグザジェレイションは、興味深そうに話を聞いていた。
「職人街で、説教をなさったとか」
「ええ。
“安い労働力は幻想”ですって」
別の令嬢が、鼻で笑う。
「まあ、きれいごと」
ルーマーは、紅茶を一口。
(未来、技術、価値……
耳触りはいいけれど)
彼女は、すぐに“使える形”に整える。
「つまり――」
小さく微笑む。
「無駄に金を使って、
儲けを捨てている、という話ですわね?」
令嬢たちが、くすくすと笑った。
「ヴァレンティス侯爵様、
やはり経済感覚が――」
「欠けている、ですわね」
ルーマーは、満足そうに頷いた。
(噂は、事実を運ぶ必要はない。
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今度は別の形で、王都を巡り始めていた。
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