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第2章 2-1 王城生活の始まりと孤独
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第2章 2-1 王城生活の始まりと孤独
王太子リュシアンから「しばらく王城に滞在してほしい」と告げられたのは、禁書区画での出来事から二日後のことだった。
正式な婚約の返答を急ぐ必要はない。
しかし、記録魔術師の書に反応したフィレーナの存在は、王城にとって厳密に扱わねばならない“特別な事実”となった。
そのための“滞在”だった。
父クリストファーも母エレーナも、この決定に難しい表情を見せたものの、最終的には王家の要望を受け入れざるを得なかった。
「フィー……不安でしょうけれど、どうか気をつけて。何かあれば必ず知らせるのよ」
「お母様……はい。必ず」
母の言葉は、胸に温かくしみた。
こうして、フィレーナは王城での生活を始めることになった。
***
王城の“離れ”、西棟。
ここは王家の血筋ではないが、客人として特別に招かれた者が滞在する場所である。
とはいえ、その豪奢さは侯爵家の屋敷とは比べものにならなかった。
白い大理石の廊下。
壁には繊細な刺繍が施されたタペストリーが並び、床には足音を吸い込むような深紅の絨毯。
案内役の侍従が静かな声で説明を続けていた。
「ここがフィレーナ様のお部屋になります。王太子殿下のご指示で、書籍の搬入は自由とのことです」
「しょ、書籍の……搬入……?」
「はい。必要であれば専属の従者に申し付けください。殿下は“フィレーナ様が落ち着ける空間を整えるように”と」
フィレーナは思わず頬が熱くなるのを感じた。
(殿下……そんなお気遣いまで……)
静かに息を整え、部屋の扉を押す。
そこは、ひとつの“図書室のように”整えられていた。
壁一面に書架が作り付けられ、まだ空の棚が広がっている。
中央には深い青の布張りのソファと、大きな読書用ランプ。
机の上には書見台まで置かれていた。
「これは……」
「殿下が“本がお好きな方だから”と、特別に整えさせたものでございます」
フィレーナは胸の奥がじんと熱くなった。
リュシアンが、ここまで配慮してくれるとは。
王太子といえば、もっと距離の遠い存在だと思っていた。
しかし彼は、意外なほどフィレーナの心に寄り添う言葉をくれる。
(……わたくしは、殿下のことをまだ何も知らないのに)
ただ、彼が“誠実に向き合おうとしてくれていること”だけは分かっていた。
侍女たちが部屋の準備を整え、丁寧な礼をして退室する。
途端に、広い部屋に静寂が広がった。
(……広い)
侯爵家の自室よりも広い。
だが、豪奢で整った空間ほど、フィレーナは急に孤独を感じてしまう。
家族の談笑も、母の優しい声も、もうすぐそばにはない。
「……寂しくなるものですわね」
ぽつりと呟いた声が、やけに響く。
***
夕刻、王城内の広間で簡易な挨拶が行われた。
「王太子妃候補の……バルグレイ家の令嬢ね」
「まあ、あの“変わり者令嬢”が王太子殿下のお気に入りですって?」
「信じられないわ。地味すぎるでしょう」
貴族の令嬢たちの、耳ざとい囁きがフィレーナの耳に届く。
彼女は表情に出さないよう努めたが、胸が痛むのを止められなかった。
彼女が望んでここに来たわけではない。
だが、彼女が“王太子に選ばれた”という事実への反感は、容赦なく向けられてくる。
「気にするな」
背後から低い声がした。
振り向くと、リュシアンが立っていた。
周囲の令嬢たちは一斉に表情を引き締め、深く礼をする。
「殿下……」
「ここの者たちは噂好きだ。君が来たばかりなら尚更だ。気に病む必要はない」
彼はいつも通りの冷静な顔だが、フィレーナの肩にかかる重荷を見抜いているような声音だった。
「ありがとうございます。わたくし……慣れていないもので」
「慣れる必要はない。ここでの生活は、君に負担がないよう私が整える。……遠慮はしないでいい」
その優しさに、フィレーナは胸が熱くなった。
だが――
周囲の貴族たちは、二人のやり取りを黙って見ているわけではなかった。
「殿下……彼女だけ、特別扱いなのでは……?」
「こうして堂々と話すなんて……」
陰口は小さくても、確かにフィレーナの耳に届く。
リュシアンは気づいていたのか、ふっと目を細めた。
「君の居場所を守るのは、王太子である私の役目だ」
そう言って、彼は深紅の外套を翻し、フィレーナの前に立つようにして場の空気を遮った。
(……殿下が……守ってくださっている)
そう思うだけで、心の奥が少し温かくなる。
***
その日の夜。
夕食を一人で取り、部屋に戻ってきたフィレーナは、ふと眠れずに本棚へ歩いた。
今の気持ちを落ち着けるには、やはり読書が一番だった。
だが、棚に触れた瞬間――
「……あ」
ぽつりと小さな感嘆の声が漏れた。
棚の一角に、見慣れない本が差し込まれている。
深い紺色の革に銀の細工が施された、美しい装丁の本だ。
開くと、中に一枚のカードが挟まっていた。
『王城の生活が落ち着くまで、心の糧となれば――
リュシアン』
フィレーナは思わず、胸の奥が温かく締めつけられるのを感じた。
(……殿下)
その優しさに触れたくて、思わずページをめくる。
内容は古代の歴史書で、フィレーナが興味を持ちそうなものだった。
静かに読み進めるうち、不思議と寂しさが薄れていく。
「……大丈夫。やっていけるわ。きっと」
本を閉じた時には、王城で過ごす決意が自然と胸の中に芽生えていた。
そしてこの日――
フィレーナはまだ知らなかった。
明日、王城の医務房でひとりの少女と出会い、
その出会いが彼女の孤独を救うことになることを。
---
王太子リュシアンから「しばらく王城に滞在してほしい」と告げられたのは、禁書区画での出来事から二日後のことだった。
正式な婚約の返答を急ぐ必要はない。
しかし、記録魔術師の書に反応したフィレーナの存在は、王城にとって厳密に扱わねばならない“特別な事実”となった。
そのための“滞在”だった。
父クリストファーも母エレーナも、この決定に難しい表情を見せたものの、最終的には王家の要望を受け入れざるを得なかった。
「フィー……不安でしょうけれど、どうか気をつけて。何かあれば必ず知らせるのよ」
「お母様……はい。必ず」
母の言葉は、胸に温かくしみた。
こうして、フィレーナは王城での生活を始めることになった。
***
王城の“離れ”、西棟。
ここは王家の血筋ではないが、客人として特別に招かれた者が滞在する場所である。
とはいえ、その豪奢さは侯爵家の屋敷とは比べものにならなかった。
白い大理石の廊下。
壁には繊細な刺繍が施されたタペストリーが並び、床には足音を吸い込むような深紅の絨毯。
案内役の侍従が静かな声で説明を続けていた。
「ここがフィレーナ様のお部屋になります。王太子殿下のご指示で、書籍の搬入は自由とのことです」
「しょ、書籍の……搬入……?」
「はい。必要であれば専属の従者に申し付けください。殿下は“フィレーナ様が落ち着ける空間を整えるように”と」
フィレーナは思わず頬が熱くなるのを感じた。
(殿下……そんなお気遣いまで……)
静かに息を整え、部屋の扉を押す。
そこは、ひとつの“図書室のように”整えられていた。
壁一面に書架が作り付けられ、まだ空の棚が広がっている。
中央には深い青の布張りのソファと、大きな読書用ランプ。
机の上には書見台まで置かれていた。
「これは……」
「殿下が“本がお好きな方だから”と、特別に整えさせたものでございます」
フィレーナは胸の奥がじんと熱くなった。
リュシアンが、ここまで配慮してくれるとは。
王太子といえば、もっと距離の遠い存在だと思っていた。
しかし彼は、意外なほどフィレーナの心に寄り添う言葉をくれる。
(……わたくしは、殿下のことをまだ何も知らないのに)
ただ、彼が“誠実に向き合おうとしてくれていること”だけは分かっていた。
侍女たちが部屋の準備を整え、丁寧な礼をして退室する。
途端に、広い部屋に静寂が広がった。
(……広い)
侯爵家の自室よりも広い。
だが、豪奢で整った空間ほど、フィレーナは急に孤独を感じてしまう。
家族の談笑も、母の優しい声も、もうすぐそばにはない。
「……寂しくなるものですわね」
ぽつりと呟いた声が、やけに響く。
***
夕刻、王城内の広間で簡易な挨拶が行われた。
「王太子妃候補の……バルグレイ家の令嬢ね」
「まあ、あの“変わり者令嬢”が王太子殿下のお気に入りですって?」
「信じられないわ。地味すぎるでしょう」
貴族の令嬢たちの、耳ざとい囁きがフィレーナの耳に届く。
彼女は表情に出さないよう努めたが、胸が痛むのを止められなかった。
彼女が望んでここに来たわけではない。
だが、彼女が“王太子に選ばれた”という事実への反感は、容赦なく向けられてくる。
「気にするな」
背後から低い声がした。
振り向くと、リュシアンが立っていた。
周囲の令嬢たちは一斉に表情を引き締め、深く礼をする。
「殿下……」
「ここの者たちは噂好きだ。君が来たばかりなら尚更だ。気に病む必要はない」
彼はいつも通りの冷静な顔だが、フィレーナの肩にかかる重荷を見抜いているような声音だった。
「ありがとうございます。わたくし……慣れていないもので」
「慣れる必要はない。ここでの生活は、君に負担がないよう私が整える。……遠慮はしないでいい」
その優しさに、フィレーナは胸が熱くなった。
だが――
周囲の貴族たちは、二人のやり取りを黙って見ているわけではなかった。
「殿下……彼女だけ、特別扱いなのでは……?」
「こうして堂々と話すなんて……」
陰口は小さくても、確かにフィレーナの耳に届く。
リュシアンは気づいていたのか、ふっと目を細めた。
「君の居場所を守るのは、王太子である私の役目だ」
そう言って、彼は深紅の外套を翻し、フィレーナの前に立つようにして場の空気を遮った。
(……殿下が……守ってくださっている)
そう思うだけで、心の奥が少し温かくなる。
***
その日の夜。
夕食を一人で取り、部屋に戻ってきたフィレーナは、ふと眠れずに本棚へ歩いた。
今の気持ちを落ち着けるには、やはり読書が一番だった。
だが、棚に触れた瞬間――
「……あ」
ぽつりと小さな感嘆の声が漏れた。
棚の一角に、見慣れない本が差し込まれている。
深い紺色の革に銀の細工が施された、美しい装丁の本だ。
開くと、中に一枚のカードが挟まっていた。
『王城の生活が落ち着くまで、心の糧となれば――
リュシアン』
フィレーナは思わず、胸の奥が温かく締めつけられるのを感じた。
(……殿下)
その優しさに触れたくて、思わずページをめくる。
内容は古代の歴史書で、フィレーナが興味を持ちそうなものだった。
静かに読み進めるうち、不思議と寂しさが薄れていく。
「……大丈夫。やっていけるわ。きっと」
本を閉じた時には、王城で過ごす決意が自然と胸の中に芽生えていた。
そしてこの日――
フィレーナはまだ知らなかった。
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