「侯爵令嬢はお気に入りの書架で王太子を攻略中」

ふわふわ

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第2章 2-3 囁かれる嫉妬と王太子の影

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第2章 2-3 囁かれる嫉妬と王太子の影

 王城での滞在が始まって三日目。
 フィレーナは少しずつ王城内の生活に慣れ始めていた。

 朝は書庫で静かに読書をし、午後はミラと薬草園を歩く。
 夕刻には書架の整理や古書の閲覧をし、夜は殿下から贈られた本を読んで一日を締めくくる。

 まるで、静かな修道院のような穏やかさがあった。

 しかし、同時に――
 穏やかさの裏側で、小さな“さざ波”が確かに立ち始めていた。

 ***

 その日、フィレーナは侍女に案内されて王城内の別の書庫へ向かっていた。
 午後に王宮図書室で写本作業の見学をするようリュシアンに勧められたためだ。

 廊下を進む途中、ふと物陰から聞き慣れない声がした。

「ねえ、聞いた? 王太子殿下、あの令嬢を離れに住まわせているんですって」

「ええ、聞いたわ。殿下があれほど手厚く保護なさるなんて……信じられない」

「地味で、取り柄もないと評判だったのに。
 王太子妃の座を狙うなんて、生意気よね」

「ほんと。王太子殿下はもっと華やかな方がお似合いだわ」

 フィレーナは足を止めた。
 息をひそめながら、そっと物陰に視線を向ける。

 そこには、王城に仕える貴族令嬢たちが二、三人集まっていた。

(……わたくしのこと?)

 胸がきゅっと縮こまる。
 昨日の広間での冷たい視線が脳裏に蘇った。

(……気にしない、気にしない。殿下にも言われたわ。慣れる必要はない、と)

 そう自分に言い聞かせて歩き出そうとしたその時だった。

「でも……さすがに、殿下はあの令嬢を“本気で”想っているわけじゃないでしょう?」

「当然よ。政治的な理由か、家柄か……何か別の目的があるのでしょうね」

「それなら納得できるわ。だって、あの令嬢が王太子妃になるなんて――」

 ざわり、と胸の奥が震えた。

(殿下が本気ではない……?)

 ほんの数日前。
 禁書区画で語られた誠実な言葉が、ふと揺らぐ。

『君でなければならない』

 その言葉は嘘ではなかったと信じたい。
 しかし――
 周囲の圧力や噂話というものは、ときに人の心を簡単に揺らしてしまう。

(わたくしが……王太子妃になれるわけがない。みなさまが言うように……地味で、特別なものなど何も……)

 俯きかけたその時、

「フィレーナ?」

 背後から聞こえた声に、フィレーナはハッと振り返る。

「リ、リュシアン殿下……」

「どうした? 顔色が優れないようだが」

 殿下は、その琥珀色の瞳でじっとフィレーナを見つめた。
 視線は鋭いが、決して冷たくはない。
 彼女の心の揺らぎを見抜くような――そんな目。

「い、いえ……少し考え事をしていただけですわ」

「……ふむ」

 殿下は物陰に視線を移し、やや鋭い目を向けた。
 令嬢たちは彼の存在に気づくと、慌てて深々と頭を下げ、逃げるように去っていった。

 リュシアンは溜息をひとつ吐く。

「……すまない。君に不快な思いをさせてしまったようだ」

「い、いえ……そんな、わたくしの方こそ……」

「噂話など、取るに足らない。気にする必要はない」

 フィレーナは頷けなかった。
 気にしてはいけないと頭では分かっている。
 だが、心は簡単にはいかない。

(殿下が優しいから……余計に不安になるのかしら)

 そんな彼女の心の揺れを察したのか、リュシアンは少しだけ表情を和らげた。

「……書庫へ行くのだろう? 一緒に行こう」

「殿下が……ですの?」

「ああ。ちょうど向かうつもりだった」

 差し出された言葉は自然で、固い鎧のように閉じていた心が少しだけ緩んだ。

「ご一緒させていただきますわ」

 フィレーナはそっと礼をして歩き出した。

 ***

 書庫へ向かう廊下は、昼下がりの柔らかな光に満ちていた。
 リュシアンは歩幅を合わせ、穏やかに言葉を紡ぐ。

「王城は、君には不自由が多いだろう。君にとって知らぬ土地であり、知らぬ人々だ」

「……はい」

「人は新しいものを恐れるし、理解できぬものを排除しようとする。
 だが、君は気に病む必要はない。……むしろ、彼女たちの方が狭量なのだ」

 フィレーナは言葉に詰まる。

「殿下……。みなさまの言う通り、わたくしは地味で……特筆するものなど何もございませんわ」

「何も、だと?」

 殿下の声色が一瞬だけ変わる。

「失礼だが……君自身に対して、その評価はあまりに不当だ」

「で、殿下……?」

「君は“本物”を見抜く目を持っている。
 知識を愛し、人の痛みを理解し、どんな状況でも誠実であろうとする。
 そのような者は……王太子妃にふさわしい」

 その言葉は、まっすぐにフィレーナの胸へ届いた。

(王太子妃に……? わたくしが……?)

 周囲の噂に押し潰されかけていた心が、一気に息を吹き返すようだった。

 リュシアンは、目を逸らさずに続けた。

「そして何より……私は、君と話すのが好きだ」

 フィレーナは、思わず立ち止まった。

「しゅ、殿下……?」

 殿下は深紅の外套を揺らしながら振り返り、穏やかに優しく微笑んだ。

「君は、私にとって特別だ」

 その言葉は、噂話のざわめきさえ一瞬で消し去るほど、静かで確かな重みを持っていた。

(……特別)

 鼓動が大きく、胸の奥で跳ねる。

「ですが、わたくし……まだ殿下のことを、ほとんど存じ上げません」

「ならば、これから知ればいい。
 君が望む限り、私は何でも話そう」

 フィレーナの胸の奥で、小さな花がひらりと咲くような感覚があった。

(この方は……本気で、わたくしを守ろうとしてくださっている)

 不安も、孤独も、噂の冷たさも。
 そのすべてを、殿下の言葉がそっと溶かしていく。

「殿下……ありがとうございます。
 わたくし……王城での生活を、少しだけ誇らしく思えました」

 リュシアンは満足げに目を細めた。

「その言葉だけで、私は十分だ」

 その後、二人は静かに書庫へ入っていった。

 扉が閉まる直前、廊下の遠くで、先ほどの令嬢たちが複雑な面持ちで二人を見つめているのが一瞬だけ見えた。

 嫉妬、焦り、そして――
 彼女たちの視線には、微かに“恐れ”が混じっていた。

(……わたくしを、快く思わない方々も……増えてしまうかもしれない)

 不安は消えない。
 だが――

(それでも……殿下は、わたくしを見てくださる)

 その一点だけは、揺るぎなく胸に残っていた。


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