公爵令嬢の異世界旅行記 ―婚約破棄されたので旅に出ます。何があっても呼び戻さないでください

ふわふわ

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第六話 最初の宿

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第六話 最初の宿

日が傾き始めた頃、街道の先に屋根が見えた。

低い建物がいくつか寄り添うように並び、その中央に、看板を掲げた宿がある。華やかさはないが、道行く者を拒まない佇まいだった。馬車が近づくと、家畜の鳴き声と、人の気配がゆっくりと重なっていく。

「今日は、ここで休みましょう」

誰に向けたともない言葉に、異論はなかった。

馬車を降りると、昼間とは違う匂いが鼻をくすぐる。薪の煙、煮込み料理の香り、土の湿り気。王都では決して混ざり合わない匂いが、ここでは自然に共存していた。

宿の中は、思ったよりも静かだった。
夕刻とはいえ、客は多くない。旅装の商人が一人、壁際で食事をしているだけだ。宿の主人は、彼女の身なりを一目見て、余計な詮索をせずに部屋を用意した。

名を告げる必要もなかった。

部屋は質素だが、清潔だった。窓を開けると、外の空気がすっと入り込む。遠くで、家畜を小屋へ戻す音がする。日常が、ゆっくりと夜へ移ろうとしていた。

簡単な食事が運ばれてくる。
温かいスープと、固めのパン。特別なものではないはずなのに、不思議と美味しく感じられた。旅の途中で食べるというだけで、味は変わるらしい。

「……落ち着きますね」

ぽつりと漏れた言葉に、メイドが小さく微笑む。
騎士は食事を終え、窓の外に目を向けていた。警戒は怠らないが、緊張はしていない。その距離感が、心地よかった。

食後、彼女は宿の外に出る。
空はすでに深い色を帯び、昼の名残はほとんど残っていない。街道沿いの灯りは少なく、夜は早く訪れる場所らしい。

風が、昼間よりも冷たく感じられた。

そのとき、宿の中から、低い話し声が聞こえてきた。

「……王都の方、少し騒がしいらしいな」 「最近、人の出入りが増えたって聞いた」

断片的な言葉だった。
詳しい話は続かず、やがて別の話題に変わっていく。

彼女は、足を止めなかった。

遠くで起きていることは、ここには届かない。
届いたとしても、それは噂として、形を変えて消えていく。

今、自分が立っているのは、この宿の前だ。
感じているのは、夜風の冷たさと、星の気配だけ。

空を見上げると、昼間よりも多くの星が瞬いていた。
王都では、決して見えなかった数だ。

「……綺麗ですわ」

誰に言うでもなく、そう呟く。

夜は、まだ始まったばかりだ。
そして旅も、同じように、まだ浅い。

彼女は、宿の灯りと星空の間に立ちながら、思った。

急ぐ必要はない。
明日、また道を進めばいい。

そう考えるだけで、心が静かに整っていくのを感じながら、彼女はゆっくりと宿の中へ戻った。

扉が閉じると、外の音は遠ざかる。
けれど、空の広さだけは、胸の奥に残ったままだった。
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