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第八話 川のそばで
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第八話 川のそばで
昼が近づくにつれ、空の色が少しずつ変わっていった。
朝の淡い青は、次第に深まり、光はまっすぐ地上へ落ちてくる。
丘を越えた先で、道は緩やかに下り始めた。
やがて、空気の匂いが変わる。湿り気を含んだ、冷たい匂いだ。
「……水の音がしますわね」
言葉通り、遠くから低く、途切れない音が届いてくる。
道を外れ、少し進むと、川が現れた。
幅はそれほど広くない。
だが流れは澄み、川底の石がはっきりと見える。光を受けて、水面がきらきらと揺れていた。流れは速すぎず、遅すぎず、ただ一定の速度で先へ進んでいる。
馬車を止め、川辺へ降りる。
草は短く、踏み跡がある。誰かがここで休み、また歩き出してきたのだろう。川は、そうした人々を何も言わずに見送ってきたに違いない。
彼女は靴を脱ぎ、そっと足先を水に浸す。
思った以上に冷たく、思った以上に柔らかい感触だった。
「……気持ちがいいですわ」
川は答えない。
ただ、水音だけが続いている。
簡単な昼食をとることにした。
パンをちぎり、果実を分け合い、川を眺めながら静かに食べる。特別な会話はない。必要もなかった。
水面を見つめていると、不思議と時間の感覚が曖昧になる。
流れているのは水だけなのに、自分の内側まで、同じ速度で動いているような気がした。
王都で過ごしていた頃、時間は常に区切られていた。
会議まで何分。
式典まで何日。
ここには、そうした区切りがない。
あるのは、流れだけだ。
川の向こう岸に目をやると、低い木立が続いている。
その奥には、また別の道があり、別の景色があるのだろう。だが、今は渡らない。それでいいと思えた。
「……先へ行くのは、いつでもできますものね」
誰にともなく呟く。
メイドは静かに頷き、騎士は川の上流と下流を確認するように視線を巡らせている。
しばらくして、再び靴を履く。
足先に残った冷たさが、しばらく消えなかった。
馬車に戻る前、彼女はもう一度、川を振り返った。
流れは変わらない。
ここに来る前と、去った後で、川は何も変わらないだろう。
それが、なぜか心地よかった。
再び道に出る。
川の音は次第に遠ざかり、代わりに風と草の音が戻ってくる。
旅は、少しずつ深くなっていく。
遠くへ来たという実感よりも、ただ、今ここにいるという感覚だけが、静かに胸に残っていた。
川のそばで過ごした短い時間は、
彼女の中に、確かな余韻を残していた。
それだけで、この日の旅は、十分だった。
昼が近づくにつれ、空の色が少しずつ変わっていった。
朝の淡い青は、次第に深まり、光はまっすぐ地上へ落ちてくる。
丘を越えた先で、道は緩やかに下り始めた。
やがて、空気の匂いが変わる。湿り気を含んだ、冷たい匂いだ。
「……水の音がしますわね」
言葉通り、遠くから低く、途切れない音が届いてくる。
道を外れ、少し進むと、川が現れた。
幅はそれほど広くない。
だが流れは澄み、川底の石がはっきりと見える。光を受けて、水面がきらきらと揺れていた。流れは速すぎず、遅すぎず、ただ一定の速度で先へ進んでいる。
馬車を止め、川辺へ降りる。
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思った以上に冷たく、思った以上に柔らかい感触だった。
「……気持ちがいいですわ」
川は答えない。
ただ、水音だけが続いている。
簡単な昼食をとることにした。
パンをちぎり、果実を分け合い、川を眺めながら静かに食べる。特別な会話はない。必要もなかった。
水面を見つめていると、不思議と時間の感覚が曖昧になる。
流れているのは水だけなのに、自分の内側まで、同じ速度で動いているような気がした。
王都で過ごしていた頃、時間は常に区切られていた。
会議まで何分。
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ここには、そうした区切りがない。
あるのは、流れだけだ。
川の向こう岸に目をやると、低い木立が続いている。
その奥には、また別の道があり、別の景色があるのだろう。だが、今は渡らない。それでいいと思えた。
「……先へ行くのは、いつでもできますものね」
誰にともなく呟く。
メイドは静かに頷き、騎士は川の上流と下流を確認するように視線を巡らせている。
しばらくして、再び靴を履く。
足先に残った冷たさが、しばらく消えなかった。
馬車に戻る前、彼女はもう一度、川を振り返った。
流れは変わらない。
ここに来る前と、去った後で、川は何も変わらないだろう。
それが、なぜか心地よかった。
再び道に出る。
川の音は次第に遠ざかり、代わりに風と草の音が戻ってくる。
旅は、少しずつ深くなっていく。
遠くへ来たという実感よりも、ただ、今ここにいるという感覚だけが、静かに胸に残っていた。
川のそばで過ごした短い時間は、
彼女の中に、確かな余韻を残していた。
それだけで、この日の旅は、十分だった。
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