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第306話

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「屈辱と諦念の中、二番手として生きるしかないと思っていたあの日々、救い出して下さったのはクレスト様だった」

 どこか遠い瞳で回顧するクラリス、その顔には人知れず薄い笑みが宿る。
 同時に彼女が胸元から取り出した五色の宝石たちが甲高い悲鳴で砕け散り、やはり五色の閃光となってカナリアへと襲い掛かった。

「あの方は私の才能を認めてくれた。常に界隈を賑わせる貴女ではなく、この私の努力を、熱意を! そして地位を、権力を、人々の羨望を、そして……愛すらも」
「ただ都合のいい駒として使われているだけだろう」

 宙をひらりと舞う純白のワンピース。
 回避でやり過ごそうに思えたが、しかしおもむろに空中で留まると目前へと右手を突き出し握りしめる。
 瞬間、不可視の巨掌へ握りつぶされたかのように歪み、消滅する閃光。

 何事もなく地に降り立ち腕を組み眉をひそめたカナリアの言葉に、ピシリとクラリスの笑みが凍った。

「あのいけ好かん人を食った笑み。近くで見てきたというのなら、貴様が一番よく分かっているんじゃないのか? 人を愛す? あり得ん、あいつは人に対する信頼など微塵たりとて抱いてはいないではないか」

 カナリアはその地位の都合、何度かクレストに謁見したことがあった。
 黄金の髪や緋と翠の虹彩異色から、人々は彼を浮世離れした存在、ある種神秘的な存在であると語る。
 しかし初対面や数度の会話を交わす中カナリアが感じていたのは、極度の不信感であった。

 王は、一切の人を信用していない。

 それは上に立つ者であるならば、多かれ少なかれ持つ要素ではある。
 当然だ。地位というものは人を狂わせ、時に暗殺、謀反など身の脅威にさらされる可能性を孕む。他者への無条件の信頼は己の命を投げ捨てるに等しい。

 しかし彼のそれ・・はあまりに逸脱していた。
 人間不信、他者を疑ってかかるなどという水準ではもはやない。
 使えるものはすべて使い、しかし僅かにでも害、或いはより優れた存在が見つかれば、どれだけ長い間を共にした人間だろうと容易く斬り捨てる冷酷さがあった。

「まさか貴様と出会って真実の愛に目覚めたとでも? あり得んな」

 事実、カナリアがあちらの世界で生きている間にも、彼女自身王の噂を耳にはしていた。
 民衆は事実より娯楽性を好む。若き才能あふれる王による盛大な改革は、多くの脚色を加えられ非常に爽快な物語として語られていたが、その裏で流れた大量の血に気付かない彼女ではない。

「恋は盲目か? いいや、私にはクラリス、見えていないのではなくただ目を逸らしているだけに見える。あれは貴様の言うような素晴らしい存在ではない、人の血を啜る悪魔だ」

 淡々と語るカナリアへ降り注ぐ魔術。
 魔天楼による膨大な魔力から作り出された戦術級の範囲魔法が、たった一人を撃ち滅ぼす為だけに惜しみなく振るわれている。
 しかしその一つ一つが、小さな町であれば容易く壊滅せしめる威力であるにもかかわらず、カナリアは目の前の羽虫を振り払うように難なく消し去って見せた。

「どれだけの生命が死んだ? どれだけの生命が死ぬ? 一つの世界を終わらせて、そこですべてが終わると思っているのか? きっと次は貴様らの世界で、同じ惨劇を繰り返すだろうな」
「……っ、黙れ!」
「いや、もう起こっているか」

 摩天楼の設計は当然クラリスが最高責任者として采配を振った。
 どんなものでも世界に存在する限り、必ず一つは構造的な弱点を抱える。当然、クラリスは魔天楼のそれも熟知していた。
 
 摩天楼が仮に物理的に崩壊したところで、多重の安全対策によって世界に影響は出ぬよう構築されている。
 だが、その安全対策である魔法陣へ手を出してしまえば?

 どれだけ強固に創られた緻密な安全対策であっても、製作者の手にかかれば赤子の手を捻るのと変わらない。
 そして、盛大に、沈黙をもって無数の国が滅びた。

「悲鳴は無い。過去も、痕跡も、何もかもが消える。ああ、誰も貴様らを咎めることは出来んだろう、誰も貴様らの罪を知ることはないだろう。なあ無罪の虐殺者、片棒をこれからも担ぎ続けるつもりか」
「うるさいうるさいうるさい五月蠅いッ!! 私は、クレスト様は心を痛めている! それでもきっとこれはしなくてはならない事、だから仕方が無かったの!」

 皮肉気に、しかし静かな怒りをもって吐き出されたカナリアの言葉へ、まるで子供が駄々をこねるかのように返答する彼女。
 けれどもクラリスのその言葉は誰でもなく、自分自身に対して唱えている様に聞こえた。

「何が仕方のないことだッ! ふざけるなよッ! 無辜の大勢を殺し、土地を消し、全てを破壊しつくす正義が存在してなるものかっ!」
「――ここまで来てしまったの、今更全て間違いだったなんて認められるかッ!」

 一度は収まりを見せた魔術の豪雨であったが、何処までも正論を突き続けるカナリアの言葉へ逆上すると同時に、一層の苛烈さをもって再び牙を剥く。

「ぐぅ……っ!」

 難なく受け止めている様子のカナリアであったが、轟音の中で小さく息を漏らした。
 彼女の横顔へ一本の深紅の筋が走る。

 その身一つで戦うカナリアの一方、前々からカナリアが来ると予想していたのだろう、クラリスは大量の道具を使ってこの戦いに挑んでいた。
 恐らく魔天楼由来であろう魔力から創られた一級品、それを惜しみなく使っての戦闘は例えこちらが守りに入ろうとも厳しいものがあった。

「どうかしら! 貴女が消えた四十五年で世界は進歩を続けた! 災厄の古龍達すら絶滅させてみせた! 貴女のような時代に取り残された存在は、既に私の足元にも及ばないの! 私の選択は全部全部全部全部間違っていなかったッ!」

 カナリアの薄い衣服に、身体に、凍傷が、火傷が、裂傷が、無数に刻まれていく。

 クラリスの言葉は正しかった。
 むしろ未知の術式が複数絡み合い、人為的に暴走し、触れるものすべてを粉々に砕くその魔法の中心に立ち、なお五体満足でいるカナリアこそが異常なのだ。

「死にかけた過去の怪物、今度こそ必ず殺すわ。二度と世界に顕現出来ないよう、末端神経まで狭間の魔力に還元してあげる!」

 これほどまでに優勢でありながら、クラリスは決して油断をしていなかった。
 どれだけ追い詰めようと、どれだけ死を確信しようとカナリアは必ず這い上がり、蘇り、四度クラリスの前に姿を現した。
 そしてついにはこの魔天楼内部にまで侵入をしてきたこの腐れ縁、まさかこのままで終わるとは微塵も考えていなかった。

 クラリスが小さく右手を振り払った瞬間、小さな金属片がしゃらりとカナリアの周囲へと散る。
 当然動作を見逃さなかったカナリアはその全てを暴風によって砕き、振り払うが……

「しまっ」

 小さく噴き上がる魔力、そして仄暗い笑みを浮かべたクラリスの顔を確認し失敗を悟った。

 触媒だ。

「閉じなさいっ!」

 瞬間、雲母の如く無数の障壁によって囲まれ、カナリアの視界は純白に染まった。
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