サンタの教えてくれたこと

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第六章 術者と助手

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~第六章 術者と助手~

 膀胱の切開術の翌日。
「俺はちゃんと、術者をやり切ったぜ」
 研究室で三介は得意げな笑みを浮かべていた。三介のグループでは前日の外科学実習は僕のグループとは全く違う、和やかな実習だったようだ。渚からノウハウと手術の流れを叩きこまれた三介が終始、その手術チームをリードしてスムーズに進んでいたという。
「そういえば、伸一のグループ。大変だったんだってな」
 まるで他人事のように言われた。
「まぁ、そだな」
 僕も他人事のような苦笑で返した。
「あいつ……峯が学年委員のクセして口だけってことくらい、俺らなら余裕で知ってんのに、小島や佐原は知らんで険悪な雰囲気になったんだろ? 四年間も一緒にいて、それもどうかと思うけどな」
 三介の顔にも苦笑が浮かんだ。
「まぁ、そうだけど……口だけってことも、状況によるじゃんか。きっと、あいつもあの局面では本気になるだろう……って、うちのグループ員は思ってたんだろうな」
 実際、僕もそうだったし……という意味合いを暗に込めた。
「それにしても、あいつも、家の動物病院継ぐつもりだったんじゃなかったのかよ。そんなんで、やっていけるんかね」
「あー、何か、公務員への転向を考えてるって噂だぞ」
 僕達はそんな、とりとめのない噂話をしていたが……ふと、三介が首を傾げて僕に尋ねた。
「そういえば、伸一。お前、どの手術の術者やるんだった?」
「胃壁の切開術」
 即座に無感情に答えた。
「えっ、マジ? 次じゃん」
 そう……僕が術者を務める手術は次の回だった。胃壁切開術……それは来週、説明講義されて再来週に手術を行うことになる。
「まぁな。でも練習はしていくし……大丈夫だよ」
「でも。段々……キツくなるんだよな」
「そう……なんだよな」
 そう。この実習は回を重ねるごとに精神的にツラくなる。
 段々と目に見えて弱っていく実習犬。彼らにメスを入れなけれいけない。そして、治療してさらにメスを入れる……動物が好きで獣医を志す者にとっては堪え切れないようなことなのだ。
「ま、お前のことだ。大丈夫だとは思うけど。心配なのは……あいつなんだよな」
 三介は電気泳動をしている渚の方を見た。
「あぁ……渚、最後の手術で術者をやるんだったよな」
 そう……最後の、肺切除術。よりによって、最終的に犬を安楽殺しなくてはならないその実習で、渚は術者の役割を与えられているらしい。
 最初の実習からは立ち直って、三介の術者の練習にも付き合って、しっかりしているように見えるが、彼女が最後の試練を乗り越えられるかどうか……それは、彼氏の三介としても心配なところなのだろう。

「ま、あいつのことは俺がサポートするけど……お前も再来週。頑張れよ!」
「おぅ」
 研究室メイトからの言葉は温かくて。僕の心も少しは軽くなった。

 胃壁切開・縫合術の説明講義が始まった。胃壁にメスを入れて切開し、一層目を全層の単純縫合、二層目をレンベルト縫合する。その他の手順としては、腸管や膀胱の場合にほぼ準ずるものだった。

「サンタ……」
 説明講義の後に犬舎を訪れると、サンタは力なく尻尾を振った。
 サンタは二回目の手術後、相当に衰弱し、元気消失していた。それは以前の元気一杯、天真爛漫な姿からは想像もつかないもので……見ていられないほどだった。
 無理もないことだ。一回の手術実習が実習犬に与える苦痛は想像を絶するものであり、それが二回も続いたのだ。
「ごめんな」
 つい、そんな言葉が口から漏れた。

 謝らなければならないものではない……これは、獣医師になるまでに必要な道程だ。そのことは、僕もよく分かっていた。
 しかし、サンタのやつれ果てた姿を見ると……やはり、謝りの言葉が口から出るのを禁じ得なかったのだ。
 サンタはそんな僕を許してくれたのだろうか……そっと出した手をペロペロと舐めてくれて。その舌は温かくて、サンタはまだ生きているのだと主張しているかのようだった。

 僕はその日から胃壁の縫合の練習をした。それがサンタのためなのかどうかは自分でも分からなかった。ただ……自分がメスを握る手術に向けて何か一つでも練習しないと、自らの精神が保てそうになかった。
 縫い針と糸を使って布を縫う。単純縫合の後にレンベルト縫合……それは膀胱の縫合とは逆の手順だった。

 胃壁切開・縫合手術の前日。
「あんた。珍しく、熱くなってるじゃない」
 無言で布を縫う僕を見て、遥がニーっと笑った。
「珍しく、は余計だよ。そっちこそ、いい加減熱くならなきゃ、もうすぐ卒論だろ?」
 僕はただ、ひたすらに針を動かしながら言った。
「私を誰だと思ってんのよ。卒論間近に焦るのなんて、ショッボい三流学生よ」
 遥はビールをグビっと飲んだ。
「いや、遥のような飲んだくれも少なくとも一流には見えないけど……」なんてツッコミは言うのも無駄だし、やめておいた。
「それはそうと。あんたの学年では、まだ、戦場になったグループはないの?」
「戦場? あぁ、縫合法を覚えてなくて険悪な空気になった奴はうちのグループにいるよ。ほら、学年委員の……」
「あぁ、そんなの、序の口、序の口。戦場のうちには入らない。うちの学年のグループにはさ、手術中に術者と助手が対立してエラい戦場になった回があってさ」
「対立……」
「そう」
 遥は苦笑いして頷いた。
「それが男の術者と女の助手の怒鳴り合いでさ。もう、熱いのなんのって。他のグループ員達は見て見ぬフリだし、教授も知らんぷり。『手術中の対立やアクシデントも勉強のうち』ってことらしいよ」
「ひっどいな、それ」
 僕も苦笑いした。
「それで? そんな対立して、結局、どうなったの?」
 すると、遥はぼんやりと虚空を見つめた。
「あんまり細かいことは覚えてないけどさ。術者の男の方はそれがきっかけで動物病院の獣医師……臨床志望になって、助手の女の方は、やめたんだってさ。臨床志望」
「何だよ、それ」
 僕は針を動かしながら、またも苦笑いした。
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